第118話 ボーマンの心
息抜きがてら行われたお茶会の帰りがけの事。フランが扉に手をかけたところ、リアだけがボーマンに呼び止められた。
フランとドルフには先に帰っているように伝えられたので嫌がるかと思いきや、あっさりと了承し、退出していった。
二人きりになった執務室でソファへ腰掛けるよう促されたので、一礼をして腰を落ち着ける。ボーマンも先程と同じ場所に身を沈め、リアとテーブル越しに向き合う。
これから重要なことが展開されるのは必然。だから、リアは姿勢を正して温良なボーマンをひたと見据える。
ソファから見て左横にある執務机のさらに向こうの腰窓からはよく晴れた日光が入り込み、重々しい場をいくらか和らげてくれている。
ひと呼吸の後、ボーマンは静かに口を開いた。
「リアさん、いつでも私の屋敷へいらっしゃい。リアさんの部屋はもう用意してあるからね」
リアの顔色を窺うような柔らかい声音の中には気遣いが大半だが、ほんのわずかだけ現実を強く意識させる厳しさが含まれていた。
「……はい……」
もうフランやドルフとはいられない。だが、日常を変えることへの恐怖に足を絡め取られ、一歩が踏み出せない。
膝の上で握った手に視線を落とすだけの弱く幼いリアに、ボーマンはこれまでで一番の酷烈さを持ち、諭すように続ける。
「リアさんの存在は、今やこの国にとって無視できない。あなた自身もわかっているからこそ、迷っているというのは百も承知だ。だが、ここで私からも言っておかねばならない。あなたはこれから日を追うごとに、あなたの意思とは関係なく『国主の娘』という目で見られるようになる。それには良い面も悪い面もある。そうなった時、あなたはどうしたいのかよくお考え。お兄様のようにこの国から去るか、もしくは、この国を統べるか」
いつもの優しさは微塵もない態度にリアは萎縮し、肩を
どちらを選ぼうが決して楽ではない。
おそらく主様はリアがラフィリアの力を持っていることに薄々気がついている。取り出してから殺して王位に就くだろう。
どのみち自分の行き着く先はほぼ詰んでいて、もういっそ誰かに選んで欲しいとさえ思える。
「あなたにこんな重たい選択を迫ること、許してくれ」
一転してボーマンは苦心に眉を歪ませる。
それを見た瞬間、罪悪感に胸が締め付けられた。リアを尊重し、答えを待っていてくれたというのに、選択を先延ばしにしているせいでボーマンに言いたくないことを言わせてしまったのだ。
自分の優柔不断さが招いた結果の言い訳など持ち合わせていない。でも、黙っているわけにはいかない。ボーマンは何も悪くないのだから。リアは正直に心中を吐露するため、潤んだ瞳を上げた。
「ボーマン様のせいではないです。私は……正直どう進めば良いかわかりません。ただ、今のままではいけないことはわかっています。わかっているのですが……」
この国を出るなら早い方が良いし、王になるのであれば、それに見合うだけの教育を早急に受けなければならない。
フランやドルフと馴れ合っている場合ではないのは明白だ。
「リアさん」
語りかけるボーマンの顔には治安部隊隊長としての威厳と、ボーマン卿としての誓いがあった。
「もし、リアさんがこの国にいてくれるというのなら、私があなたの地位を保証するために教育を提供し、亡命を選ぶのなら責任を持って国外まで連れて行きます」
リアに対し、君主にするような尊敬をもって頭を下げる。
後はリアの返事次第。
どんどん道は狭まっていく。もう猶予はない。
ボーマンはそこでふっと力を抜いて寂しそうに笑った。
「本当は君たちを引き離したくはないんだが……フランシス君とアードルフ君はリアさんと会ってから、本当に穏やかでよく笑うようになった。リアさんがあの子たちを救ったんだ」
「そんな、私は何もしてないです」
あまりに買い被りすぎているので、胸の前で手を勢いよく振って否定を表わす。
むしろ救われたのは自分の方だ。あの二人がいなかったら、リアはもう確実に生きてはいないのだから。いつか二人に恩返しをしたいが、その目途はまったく立っていないというのが情けない。このままでは与えられるものばかりが増えていってしまう。
「いや、あの子たちはリアさんに出会ってようやく救われたんだよ。やっと心の安寧を手に入れたんだ」
断定口調のボーマンは視線をテーブルに落として心の内を零す。
遠い昔を思い返すようにして。
「フランシス君とアードルフ君が子供の頃、あの子たちは力が強く、大人の脅威だった。本人たちは本当にいい子で、無闇に力を使ったりはしないにも関わらず、周りが恐れて酷い仕打ちを繰り返した。非情な言葉に暴力、そうやって力を使わせないように抑圧したんだ」
「そんな……」
ボーマンの表情は硬く、悲惨な状況だったことを物語っていた。
二人は過去の事をまったく話さない。きっと酷いものだったから話したくないのだと思い、こちらから聞く事もなかったが、リアの想像をはるかに超えていたのだ。
「何度もやめるよう訴えたが、今と同じ異端は私だ。見ていられなくて、総政公に二人を私の養子にさせてくれと頭を下げたことは幾度もあった。助け出してこの都市から離れた屋敷で静かに暮らせればと。しかし、総政公は首を縦には振らなかったがな。そんなことが続くうち、二人は周囲に対して心を閉ざしてしまった」
ボーマンは慎重に言葉を選んでいるが、本当は血も涙もない扱いを受けていたのだと想像できた。
思い返せば、フランと暮らし始めてすぐは彼の考えていることがわからなかった。いつもにこにこして物腰は柔らかであるが本心が見えず、ふとした瞬間にこちらを拒絶するような冷たさを感じる時もあった。ドルフにしても、初めて会った時は必要以上に棘を持っていた。
それが今では二人共、自然体で接してくれているように思う。まだまだ知らない部分の方が多いのだろうが、少しでも二人の心の拠り所になれていたのだとしたら、リアとしても嬉しい。
「あの子たちは口には出さないかもしれないけれど、リアさんのことをとても大切に思っているよ。これから先、どんなことがあっても嫌わないでいてやってくれ。これは私の個人的な親心だ」
「もちろんです」
他人からお願いされるのはこそばゆいけれど、二人を嫌いになることなど無いのは確実。リアは自信を持って力強く答えた。
「私はね、あの子たちの味方でいてあげたくて、フランシス君の悲願である、ラフィリア様を消滅させて奇跡の力を消すという途方もない目標に賛成したんだ。だからどんなに私の立場が悪くなろうと、最後まで付き合うつもりだ。……大教会から子供だったあの子たちを救えなかった罪滅ぼしだ。自己満足かもしれないがな。それに、リアさんに対する罪滅ぼしでもあるんだよ」
「えっ、私?」
意外な言葉に目を丸くして自分を指差してしまう。
「あなたが地底に落とされると決定した時、私は反対したんだがね、結局それも覆すことはできなかった」
自分の地底送りを反対してくれていた人がいたなんて初めて知った。
リアの処遇は大教会上層部の総意だ。それに異を唱えるというのは、下手をしたら地位を失うおそれもある。ボーマンは何でもないことのように言っているが、大半の人が自分の保身に走ってしまいできない行動だ。彼の人を想う気持ちと、周囲に迎合せずしっかりと自分の意見を述べる意志の強さに目頭がじんわりと熱くなる。自分もそういう大人でありたいと、強く意識した。
「私のためにそこまでしてくれて、ありがとうございます」
感極まって、ありきたりな言葉しか出てこなかったのが悔やまれる。せめて感謝をしっかり伝えようと、深く、長く頭を下げた。
「私が個人的にリアさんを助けたいと思っているんだよ。昔、まだあなたがお父様やお母様、お兄様と暮らしている頃、二回ほどお会いしたことがあってね。初めて会った時から私はリアさんの
「え……」
いきいきとするボーマンに、どう返事をしたものか困惑の呻きを洩らした。
「あれはまだあなたが五歳くらいだったかな、邸宅に出向いた際、たまたまジョシュア様とリアさんにお会いして。お二人で仲良く廊下を歩いていたのをよく覚えている。ジョシュア様は私に緊張しながら一生懸命挨拶をしてくれた。とても良くできた子だと感動したよ」
昔を懐かしんで小さく笑うボーマンは、今この時だけはすべてのしがらみを捨て、楽しそうだ。
「リアさんはそんなお兄様の横で私にこう言ったんだ。『あなたボーマン卿ってお名前なのね。よろしくね』と」
幼かったとはいえ、地位のある立派な人にそんな軽い態度を取るなんて、今更ながら青くなる。どう謝罪したら許してもらえるか考える前に、申し訳なさと過去の失態に項垂れる意味を込めて、額が膝につくくらい体を折り曲げていた。ソファから立ち上がった方が良かったかもしれない。
「もっ、申し訳ありません、そんな無礼な真似を……! それに、ボーマン様と会ったことは覚えていなくって……」
「いいんだ。幼い頃の記憶なんてそんなものだよ。――その時、ジョシュア様は慌てて私に詫びを入れたんだが、リアさんは私ににっこり笑顔をくれたんだ。『お兄様、そんなに怖がらなくても大丈夫よ。だってこの方は優しいから。とっても綺麗な目をしているんだもの』とね」
ボーマンの虹彩は澄んだ空の色をしていて確かに綺麗だ。だが、そういう問題ではない。たかだか生まれて五年程度の幼子にそんな軽口を叩かれたなんて、ボーマンからしたら頭に血が上るほど屈辱的だろうと恐ろしくなる。
「すみませんっ、何も考えずに私、なんてこと言って……」
「私はね、この時リアさんをお守りしたいと強く思ったんだ。可愛らしいお嬢様から屈託のない笑顔で、目が綺麗だなんて言われて落ちない男はいないだろう」
茶目っ気たっぷりに破顔するボーマンからは、リアを責める素振りはまったくない。ボーマンが温厚な人で良かったと、心からその素晴らしい人柄に感謝した。
「リアさん、私はあなたを本当の娘のように思っている。だから、どうか無理をしないで自分の生きやすい未来を選んでくれ。たとえ私と意見を違えたとしても一向に構わない。今のこの国は本当に先が見通せない。だから、リアさんには自分のために生きて欲しい。五百年前からの宿命があるのかもしれないが、私はリアさんにすべてを背負わせたくはない。どうか自分のことだけを考えて。親はね、子供の幸せを一番に願っているんだよ」
真心に満ちたボーマンの声は暖かな春の陽のように心地よくて、リアの涙腺を刺激する。
もう自分に家族はおらず、幸せを願ってくれる人はいないのだと
「ありがとうございます……」
目の端から零れそうな雫を指で必死に拭い、込み上げる嗚咽を抑え込んでしっかりと謝意を告げた。
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