第114話 クラリスの現状
ひと通り状況を騎士団に報告し終えたドルフと合流し、リアたちは式典警備の仕事に戻った。聖堂から招待客全員が安全に退出したことを確認し、外へ出る。
式典の後は、併設する孤児院や貧民の保護施設を自由に見学できる時間であったが、ほとんどの人は逃げるように門を出て行ってしまう。リアたちは聖堂前の警備なので一応立ってはいるが、警備の必要性を感じないほど、皆一目散に帰路についていく。襲撃のあった場所に長くはいたくないというのが人間の心理だ。
広い聖堂前の庭には他の隊員も配置されているが、誰も彼も、やる気の無さそうに喋っていたり座り込んでいる。名ばかりの警備になったので、リアは庭の散策をすることにした。
出入り口の門から聖堂までは一直線になっていて、真っ白な石畳の真ん中には円形の噴水があり、水音が涼し気だ。左手側には見事なバラ園が造られている。そこを突っ切れば貧民とモグラの保護施設へ繋がっている。
花の魅力に吸い寄せられるようにして、リアはバラ園に足を踏み入れた。
かなり力を入れているようで、一時間ほどは充分楽しめそうな面積がある。
レンガ造りの花壇には赤いバラだけでなく、ピンクや黄色、白やオレンジ、さらには二色が混ざったものなど初めて見るものも多く、遊歩道を歩いているだけなのに心が躍った。
屈んで花弁をよく見れば、尖っているものや丸いもの、小ぶりのものなど本当にたくさん違いがある。ほのかに風に乗る芳醇な香りも嗅覚を楽しませてくれる。
奥の方に入っていくとアーチの骨組みが設置されていた。蔓が絡みついて下半分を覆っている。数年したら見事なバラのアーチになるのだろう。
「バラってさ、棘えげつないよな。ほら、これなんて魔女いそう」
ドルフは楽しそうにアーチの側面を指さす。枠に沿うように括りつけられた蔓は茶色で少し白みがかっていた。確かに雰囲気が出ている。
「リアー! 凄く毒々しい棘あったよ!」
「マジかフランシス!」
少し先の花壇の前にしゃがみ込み、柔らかな日差しに顔を輝かせながらフランが手招きしている。リアが何か言うよりも早く、ドルフがそちらに駆け出していった。
どうやらこの兄弟は棘が好きらしい。花を見て欲しいのだが。バラだってそう思っているに違いない。といっても、人の感性をとやかく言う筋合いもない。目の前の情景を堪能できているのなら幸せなことこの上ないと、リアははしゃぐ二人に近寄る。
それぞれ花や棘を楽しみながら優雅なひと時を過ごす。ここへは仕事で来ているということを半分以上忘れた頃、円形の花壇に沿うようにしてこちらへ人が走ってくる。背の高いバラで見えずらいが、銀髪の小柄な少女――クラリスで間違いない。
何をされるかと身構えたのは一瞬で、リアは困惑に眉を寄せることになった。
彼女は切羽詰まったような、泣きそうな顔をしていたから。
式典の時に着用していた薄青のドレスの端を手繰って、裾が地面に擦れるのも気にせず一心にこちらへ駆けてくる。
ただならぬ面様に何事かとリアもそちらへ足を向ける。
クラリスが助けを求めるように手を広げるので、受け止めようと両手を大きく広げるが、その瞬間、クラリスの体ががくんと止まった。
奇跡の力を使ってクラリスの後ろに出現したフランが片腕を掴み、動きを封じていた。
リアとの距離は三歩程度。
「僕があなたを信用していると思う?」
静かに発せられる声は日中の暖かなバラ園に似つかわしくないほどに凍てつき、情のかけらもない烈寒の面持ちで見下ろしている。
「フラン、離してあげて。クラリスはこちらに害を与える気はないと思うの」
リアの説得を聞き、フランは不満そうに目を細めた。
甘すぎる、とリアを咎めているのが手に取るようにわかる。
リアはクラリスに傷つけられているし、降光祭の時はフランが狙われていた。
慎重になるのは当たり前だ。
厳冬に張る氷のように寒々しく冷え切った紺色の瞳をこちらの熱意で溶かそうと、真っ向からじっと見据えて迎え打つ。
結局、フランは小さくため息をついてクラリスの腕を離してくれた。
支えを失ったクラリスはリアの前で頽れる。
ドレスからのぞく足は靴すら履いていなかった。どれだけ走って来たのか、足の裏に血が滲んでいる。
「クラリス、一体どうしたの?」
片膝をついて手を差し出せば、己の苦心を伝えるかのように強く握られ、上げた顔はみるみるうちにぐしゃりと歪んで大粒の涙が頬に川を作った。
「わたしっ、もうお姫様はいいっ……! 助けて!」
「どうして? 何で?」
「みんな怖いのっ。毎日勉強勉強、それにお行儀良くしてないとぶつの。少しでも失敗したらすごく怒られてっ……!」
リアに助けを求めるように抱き着かれた。片膝立ちでは勢いを殺しきれず、その場に座り込んでしまう。
体勢を直したいが、クラリスは声を上げ泣いていて離れそうもない。仕方がないので、そのまま背中を優しく叩く。
朧げながらクラリスの置かれた状況がわかってしまって同情もあった。
クラリスは今、ラフィリア派の貴族の元で暮らしている。おそらくそこでラフィリアの寵児としての教育を施されているのだ。
クラリスが国を背負うとまではいかないのかもしれないが、今後はより多く民衆の前に出たり、たくさんの貴族を相手にする事も当然あり得る。そのための教養と礼儀作法を教え込まれているのだということは想像に難くない。
クラリスは地底で生まれ、そんなものとは無縁で十年以上過ごしてきた。まったく基礎のない状態から人前に出て恥ずかしくないようにするために、相当厳しく
それに耐え切れず、音を上げているのが現状だ。
「もういやっ! 地底に帰りたい! ラフィリアちゃんの力なんていらない! こんなの、こんなのわたしの望んだものじゃなかった! わたしはラフィリアちゃんに幸せをもらうために人を殺して親指をたくさんあげたのに、また封印されちゃうしっ!」
「クラリス……やっぱりあなたが、地底で頻発していた殺人事件の犯人……」
まだリアが地底で灯り売りをしていた頃、モグラたちを騒がせていた右手の親指を切り取られるという奇妙な殺人。
クラリスではないかと予想はついていたが、結局真相は分からずじまいだった。
「わたしは娼館の女将にぶたれて暮らすのが嫌だった。お姫様になって、綺麗なドレスを着て毎日楽しく暮らしたかったの。だから、たまたま拾った紙切れに書いてあった親指、っていう文字を頼りにしてラフィリアちゃんに祈っただけなのにっ」
涙と共に溢れ出るのは自分本位な言葉だ。思い通りにならず、癇癪を起こした子供のように甲高い声で不平不満をぶちまける。
その訴えを聞いて、リアの頭にある可能性が瞬間的に浮かんだ。
もしかしてクラリスは大教会の人が地底に落としていったという、五百年前の手紙の切れ端を見たのだろうか。裏には手紙とは違い、誰にでも認識できるようにラフィリアへの祈りが書いてあった。
『親指を地面に立て、ゆっくり円を描くように祈ります』
クラリスは文字が読めなかったはず。かろうじて理解できた部分を歪曲し、実行したのだろう。すごい執念だ。
「どうやってラフィリアと意思の疎通をしたの? 親指を持って祈っただけじゃないよね?」
「主様がっ、主様がやってきて、夢の中でラフィリアちゃんに合わせてくれたの。主様はわたしをお姫様にしてくれるって約束してくれたから良い子にしてたのに、今は全然味方してくれないのっ」
わっ、と涙をぶり返すクラリスを素直に慰めることはできなかった。
娼婦だったクラリスが、肉体的にも精神的にもすり減らして毎日を生きていたのはわかる。リアも地底で何度も苦汁を嘗めた。だが、それはたくさんの人を殺めていい理由にはならない。
リアはクラリスを哀れと思う傍ら、反省の様子は一切見られない態度に強い義憤を覚えて嫌悪が湧きあがる。無理矢理にでも突き飛ばして罪を認めさせたい、そんな短絡的な思考が突発的に頭の大部分を支配するが、ぐっと堪えてただひたすら背をさする。
宙に浮いてしまった激情を持て余していると、複数の足音が不規則にバラの間から苛立ちを携えて届いた。
「クラリス様!」
姿を現したのは使用人らしい三人。
男性が二人と老成した女性が一人。
クラリスの教育係だろうか、老齢の女性が厳しく眉を吊り上げ、リアに
「クラリス様! 靴も履かないでなんてこと! こんなところで座り込むなんてみっともない!」
容赦なくクラリスの頬を叩き、男性二人が逃がさないとばかりに両側からクラリスの腕の自由を奪う。必死に首を捻り、リアへ助けを求めるクラリスだが、その努力に報いようとは到底思えない。リアは無言のまま立ち上がり、連れ戻される小さな少女を見送った。
姿は見えなくなったが、クラリスの悲痛な叫びが薄い桃色の花弁の向こうから尾を引くように長い間聞こえていた。
「あの子、重要な立ち位置だ。さて、どうしたものかな」
騒動の音が完全に消えてから、フランが苦笑を交えつつ、ぽつりと漏らす。
「あれだろ、クラリスは貧民を焚き付けるとっておきってな」
「うん。おそらく今日クラリスを狙った襲撃もそういう目的だろうね。大教会はクラリスを守れなかったーとか言って主派を盛り立てるために。首謀者がモグラの主ってのがまた悲劇だよね」
「じゃあ、今後もクラリスは主派に狙われるってこと? クラリスは主様の仲間じゃなかったの……?」
主様は味方してくれない、というクラリスの言葉が答えだが、今一度自分の中の情報を整理するため口に出す。フランもそれをわかった上で、リアを納得させるように詳しい補足をくれる。
「現に今、モグラの主は地底で暮らしていて、クラリスは貴族の家にいるでしよ? だからもう、クラリスは主様の中で都合の良い使い捨ての道具なんじゃないかな」
「モグラの主は残虐で自分勝手なんだろ? あり得るなそれ。それにさっきの様子だとクラリス、相当参ってるみたいだったからな。それで潰れても主派の思う壺だろ。結局、大教会の誰かがクラリスを潰せば火種にできるんだから」
ドルフのうんざりとした見解を最後に沈黙が落ちた。バラの
重たい空気を飛ばすように、フランはふうっと小さく息を吐いて歩き出す。
「ということで、僕は警備の任務が終わったら総政公様にクラリスの護衛を増やすのと、教育の見直しを提言しにいくよ。主派が実力行使に出るのは僕らとしても困るからね」
「クラリス……どうなるのかな……」
たくさんの人を殺めた彼女が保護対象であるという事実に、胸中には複雑な感情が渦巻く。
「僕たちにできることは現状、少ないね。今日みたいに僕たちが守れればいいけど、クラリスはラフィリア派が保護しているから関わるにも限度がある。それが悩みどころ」
「私には悪い未来しか想像できないんだけど」
「それはラフィリア派のご貴族様たち次第かな」
「お前の言い方は悪い未来を肯定してるよな。俺としてもかなりまずい状況だとは思うがな。あーあ、早く平和な世の中にならねえかな」
ドルフの願望にも似た吐息混じりの一言に、リアもフランも小さく頷き返す。こんな殺伐とした時代ではなく、もう少し生きやすくなって欲しい、それは渇望だ。
不透明な行く末に、せっかくのバラもすっかり色褪せて見えた。
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