第105話 治安部隊の友人2
翌日、またしてもリアが来るよりも先にヘレナはすでに作業を開始していた。
「おはよう、待たせちゃった?」
床に積まれた本を一冊ずつ手に取って丁寧にはたきで埃を落としていたヘレナは、昨日綺麗にした机の上に置き、こちらを振り向いた。
「ううん。よかった……わたし昨日はリアちゃんやアードルフ様に無礼を働いて、ボーマン様直々に処罰が下るかと思ったんだけど……」
リアの姿を見て安堵し眉を下げるヘレナがおかしくて、壁に立てかけておいたはたきを手に取りながら、ボーマンの印象を和らげることに注力する。
「ボーマン様は私たちの事をよく知ってくれているもの。そんなことしないよ」
この日も取り留めのない会話をしながら手を動かしていく。広くはない部屋が物で埋まっているので局所的に綺麗にして、少しずつ領地を広げていった。
まだまだ先は長いが、少しでも成果が見えるとやりがいがある。
朝から夕方まで気合いを入れて作業し、昨日同様へとへとだ。
窓から差し込む夕日を合図に帰宅の準備をしていると、扉がノックされた。
「リア。迎えに来たよ」
今日はフランだった。別に迎えを頼んだわけではない。これでは過保護すぎて恥ずかしい。自分はもういい大人なのだ。
昨日の事もあり、ヘレナは必要以上にフランを怖がることはなかったが、有名人の登場に言葉を失って箒を握り締めていた。
「あなたがヘレナさんかな?」
「は、はいっ! ヘレナ・シールズと申しますっ!」
「フランシス・オルコットです。よろしくお願いします」
「こちらこそっ! リアちゃんにはお世話になってます!」
人類を魅了する魅惑の微笑みを近距離からたっぷり浴びて、ほんのり頬を紅潮させるヘレナを見るに、フランに対しては恐怖よりも憧れの感情が大きそうだ。
「ぜひ仲良くしてあげてね。素敵なお友達ができて良かったね、リア」
「うん。ヘレナちゃん、とっても良い子なの」
緊張して小さくなっているヘレナを視線で指し示せば、恐れ多いと必死に顔の前で手を振り謙遜している。
「さあ、遅くならないうちに帰ろうか。ヘレナさんは宿舎だったよね。送っていくよ」
「昨日もアードルフ様にご足労をかけてしまったのに、フランシス様にまで……!」
「いいのよ。どうせ敷地内だし。もう日課にしましょ」
率先して廊下へ出ればヘレナもそれ以上否定はしない。フランに軽く会釈をしてリアと共に歩み出す。
たった数分で着いてしまう距離が名残惜しい。
この日も宿舎前の庭で数名が談笑していた。リアたちを少し後ろで見守るフランを目撃した人は揃いも揃って目を剝く。
フランに対するものはドルフに向けていたものよりも厳しい視線だった。
早く去れ、近寄るな、という圧力を前面に押し出している。
例えるならば、親の
取り巻く空気にヘレナでさえも居心地が悪そうに肩をすぼめてしまっている。
長い間引き留めるのは申し訳ないので、軽く挨拶を交わしてすぐに
宿舎を出て廊下を歩いていてもフランの事を知る人とすれ違えば、蔑むような目で見られるのが常だ。
人に対してそこまで辛辣になれる非情さに、怒りとも悲しみとも形容できない翳りが胸の内に生まれる。
でも、本人はいつも通り涼しい顔をして少しの乱れもなく帰路を辿っている。
近道をするために入った大教会内の中庭は、外灯がところどころに灯っていて迫り来る夜に抗っているようだ。
少し前にアルバートと出会った時同様、今も人はいない。
「ねえ、フラン」
「どうしたの?」
立ち止まり、先を行く背に声をかける。
半身をこちらに向ける距離は身内よりは遠く、他人よりも近い。
「……あなたやドルフは大教会の人たちに誤解されて酷い扱いを受けているのに、どうして平気なの? 正そうとかは思わない?」
これまで面と向かって聞くことはなかった。周りが勝手に勘違いをしているだけで、自分たちに害がなければそんなものは関係ないと思っていたから。だが、リアの今後を案じる兄の叱責と、必要以上に恐怖したヘレナの態度を目の当たりにし、このままでは行く先がおぼつかないような漠然とした不安が予感として喉につかえている。
笑みを消し、正直な心中を曝け出し、ありのままフランと対する。彼は少し意外そうに眉を上げたが、穏やかなまま。それが逆にリアを不安にさせるというのに。
「僕らは、ううん、僕は、だね。僕は人より強い奇跡の力をたくさん使える。それに奇跡の力を打ち消す事だってできる。それは紛れもない事実だし誤解ではないよ。彼らはそんな僕の力をラフィリア様への冒涜だと取った。大勢の人たちにとってはそれが正しい事。だから正すっていうのも違うかな」
「でも、それでフランが迫害紛いの事をされるのは違うと思うの。だってあなたは何もしてないのに」
「リアにそう言ってもらえるだけで僕は満足だよ。自分への評価なんてどうでもいい」
そっと慈しむような眼差しはこれまでなら嬉しかった。でも今は違う。欲しい言葉はそれではない。心はどんどん荒天していく。
「でも、そんなの、フランもドルフももっと評価されるべきなのに」
食い下がる口調は自分勝手な苛立ちに乱暴だ。リアは自分のためにフランやドルフに地位を上げろと求めている。
正当に認められ、人から珍重されてもいいくらいなのに、その恩恵を受けられないのは悔やんでも悔やみきれない。そうすれば二人と共に、今とは違った道を進めたかもしれないのに。
数歩先で立ち止まっていたフランがその距離を少しだけ縮め、手が届く範囲のぎりぎり外でぴたりと止まった。
これがフランの答えだと受け取れた。
兄が言ったように、フランもわかっているのだ。このままでは近いうちに今の生活は破綻すると。
くすぶり続ける不満をぶちまけてしまいたい衝動に駆られる。理性と衝動の
「一つ後悔があるとすれば、僕がこんな除け者じゃなくてしっかりとした地位を持った人だったらキミの足を引っ張らずに済んだのに。ごめんね」
彼にはリアの考えていることの一から十まですべてお見通しだ。
「そんなこと……」
ないよ、と言えない自分の性格の悪さに心底失望した。
兄の言葉が何度も何度も脳内でこだまする。
『自分から離れなさい』
それが鎖のようにリアを縛り付ける。日に日にきつくなり、身動きが取れなくなっていく。
フランやドルフとの暮らしは楽しい。だが、兄の言った通り、周りを一切気にせず生きていく事はできない。
どこかで決断しなければいけないのは重々承知している。
「リア。キミは……」
抑揚のない呟きは途中でぷつりと切れた。リアを見つめる瞳は苦悩に細められている。出会った頃には考えられなかったほど感情が露わになった声音と、暗く沈んだ表情。きっとその先を聞いてしまったら、今までの生活には戻れない。
ここまで深く繋がらなくてもラフィリアには対抗できるはずだ。今の国の状況で二人といることは、リアの立場だけでなく、五百年前から受け継いだ使命までをも危うくさせてしまう。
いつかは誰かが断ち切らなければいけない縁だ。
でも、まだ今は知らぬふりをしていたかった。
空の端を残して夜が訪れ、花壇を照らす外灯が闇をより一層際立たせる。
「ごめん、何でもない。家でアードルフが待っているんだ。帰ろう」
にこりと口角を上げ、目尻を優しく下げる完璧な笑顔はよそ行きの顔で、本心に蓋をした時の仕草だった。
「……うん。あんまり遅いとドルフ
リアから顔を逸らし歩き出す背中を追う。
まだあともう少し。現状維持を保って現実から目を逸らす。
夕暮れは刻一刻と進み、もうすっかり太陽は沈んでしまっていた。
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