第103話 不安定な未来

 夜も更け、大教会から真っ直ぐ伸びる大通りは人の往来もまばらだ。ひんやりとした空気をかき回すように大きく腕を振りながら、リアは息を切らして走る。

 等間隔に設置されているガス灯の朧げな光を越えるたび、喉が張り付くような乾きが強くなっていく。

 それは肉体的な疲れからか、精神的な緊張から来るものかを考える余裕はない。


 エリントン卿が泊まっていたホテルは大通りに面し、客人を迎え入れる素晴らしい庭を有した先に立派な建物を構えるが、今回は煌びやかな正面ではなく裏側に用がある。リアは敷地の脇を通る小道へ迷いなく飛び込んだ。

 下見はしてある。ホテルの裏側には馬小屋と車庫があり、そこが今回目的の場所。

 普段は使われていない裏口の鍵をボーマンがホテルから借りてくれた。どんな理由で話を通してくれたのかは教えられていないが、万が一見つかってもボーマンの名を出せば怪しまれることはないそうだ。


 リアの背よりも高い塀に沿って回り込めば、ちょうど正面玄関の真裏の辺りにひっそりと木製の扉が溶け込んでいた。

 使われなくなって久しい裏口周辺は街灯など無く、手元が見えづらい。リアは息を整えることも忘れ、喘ぎながら扉に張り付くようにして取っ手と鍵穴を確認する。更に顔を近づけてみれば、鍵穴は錆び付いていた。撫でる手にざらっとした感触が伝わる。この扉は本当に使えるのか不安を覚えるが、鍵を挿して何度か鍵穴の中で左右に動かしてみれば手応えを感じ、扉は開いた。


 及び腰になりながらも中を確認すれば、近くに人の気配はない。宵闇の中でホテルの大きな影がどっしりと構え、圧迫感と共にリアを出迎える。裏側は倉庫などが点在し、従業員しか立ち入らないので舗装されこざっぱりと整えられていた。

 跳ねる心臓を抱え、扉をくぐって目を凝らすと視界の左側、暗がりの先で御者の男性が手を招いていた。白い口髭が良く似合っている初老の男性だ。昨日顔合わせはしているので間違いはない。

 上手くいった。胸を撫で下ろし、男性にいざなわれるまま進めば、庶民の家よりも大きいのではと思うほど立派な小屋の前に一台の馬車があった。馬ももう用意されていて、いつでも出発できそうだ。


「まだ大教会からの使者は来ていませんが、そろそろ馬車を寄こすようにと伝令が来るでしょう。さ、中へ」


 男性は恭しくこうべを垂れ、馬車の扉を開けてくれる。中には小さなカンテラの炎に照らされ、座席に腰掛けるジョシュアがいた。


「お兄ちゃん!」


 勢いのまま飛び乗るリアを受け止め、ジョシュアは眉を垂れる。


「リア。弱く、惨めに逃げ出す兄を許してくれ」

「ううん。お兄ちゃんは弱くなんかない。これから知らない土地に行って、違う誰かになって生活しなきゃならないなんて、そうそう選択できることじゃないわ」


 リアはジョシュアの隣に腰掛け、手を取る。言葉よりも深い親愛が伝わるように。それに応えるジョシュアはリアにしっかりと向き直り、同じ色の瞳を交錯させる。


「ありがとう、リア。今日限りでジョシュアは死ぬ。だが、名前を変え、遠い場所へ行き二度と会えないのだとしても、リアは僕のたった一人の可愛い妹だ。誰に言わなくったって心の中でずっと忘れない」


 兄の言葉に、堪えていた涙が理性を押し破ってこぼれ出す。寂しい。これが最後だなんて、そんなのは嫌だった。でも、引き留めたところでジョシュアの身を危険に晒すだけだ。この別れは必然なのだと、自分を納得させるしかない。

 忍び込んでいるのも忘れ、ジョシュアに縋りつくように抱き着いて号泣してしまう。背中をさすってくれる兄の手が心地よくて、より一層別れをつらくさせる。

 時間はあまりない。ここで泣いていたのでは、せっかくエリントン卿が作ってくれた逢瀬が台無しだ。深呼吸をし、必死に涙を拭う。


「私も、お兄ちゃんのこと、忘れない」


 変則的に息がしゃくりあげるのを無理やり押し込め、しっかりと聞き取ってもらえるように普段よりゆっくりと音にした。

 それを丁寧に受け取ったジョシュアは噛みしめるように大きく頷いてから、リアの肩に手を置いて言い聞かせるように向かい合う。

 ふた呼吸分ほど躊躇ためらいのような堅苦しい呼気が吐き出された後、ジョシュアはおおやけに見せる凛とした表情を作り、リアの兄という立場を外れた。


「ありがとう、愛しいリア。最後に一つ。僕では無理だったが、リアならこの国を変えられる。リア、王になれ」


 父に似てきた面差しは威厳を感じさせ、目が離せない。それでも二つ返事で了承できる内容ではない。


「お兄ちゃん、何を言って、私にはそんな……」

「リアはこの国の行く末を見届けると僕に豪語した。そうと決めたのなら、国を治める一族の一員として責任を持て」


 涙が引っ込むほどに厳しい言葉だった。叱責に似た兄の眼光をぽかんと見上げる。


「ラフィリア様を消滅させたら、この国はどうなる? 奇跡の力をありがたがり、ラフィリア様を支えにしてきた国だ。混乱は目に見えている。国民の安寧を取り戻すには、代わりになる支えが必要だ。それにリアがなればいい。その時は新しい国として立て直せ。これまでのしがらみも全部捨てて」

「私じゃ役不足よ」

「リアの覚悟は怖気づいて尻込みする程度だったのか? それならば今から僕と一緒に来なさい。中途半端な気持ちで生きられる状況ではない。リアは国主直系唯一の生き残りになる。それは強力な切り札であり、危険な状況を呼び込む厄介な種でもある」

「私はっ……どうしたらいいのかわからなくてっ」


 頭を抱え、膝に額がつくほど上半身を折り曲げる。

 きっとこのままジョシュアが見つからなければ、大教会は死んだものとして発表するだろう。そうしたら本格的に次の国主は誰なのかが問題に上がる。

 その時、自分は否応なしに巻き込まれるのだと予想できてしまう。国主の娘ではあるが十年モグラとして過ごし、最近奇跡の力を使えるようになったという、なんとも言えない曖昧な立場である自分の行く末が、たまらなく怖かった。

 ジョシュアは取り乱すリアを宥めるように頭を撫で、顔を上げるように促す。


「いいかリア。今はラフィリア様が復活し、国主が崩御ほうぎょした。国はかつてないくらい混乱している。モグラの主様の動きも不穏だ。そんな中では、もはや正解も間違いもない。最後に残った者が正解だ。だから、自分が成し遂げたい事を一つ選べ。それに向かって覚悟を決めて進め。あれもこれもと気もそぞろでは何も成し得ない。それどころか潰されるのはリア自身だ」


 ジョシュアの表情は強くあろうと必死に取り繕っているが、口元が強張っていてリアへの温情が隠しきれていない。

 『妹にすべてを押し付けた挙句、厳しく酷な事を言いたくはない。なんて酷い兄なんだろうか』そんな自責の念が、炎に照らされ潤む目尻から痛切に伝わってくる。

 それでもジョシュアは震える息を吸い、自分の言葉で容赦のない現実を述べる。


「周りの大人は皆、自分の信念に向かっている。自分が正しいと思うことを遂行するために頭を使い、様々なものを切り捨てている。決して、欲しいものすべてを手に入れているわけではない。ボーマン卿も、総政公だってそうだ。別の観点から国の事を考え行動している。その中でリアはどうしたいんだ。ラフィリア様の消滅を本気で願うのなら、他の事は犠牲にするくらいの意気でいろ。今のリアは中途半端な子供のままだ」

「その通り。私は何も選べないの。ラフィリアとか主様とか、圧倒的な存在に勝てる気なんてしないもの。頭の片隅ではそう思っているけど、そうは言っていられない運命があってつらいの」


 口から出たのは、心の深い場所にはずっと前から存在していたが、フランやドルフの前ではとても口には出せなかった本音。一度零してしまえば誘発するように、止まっていた涙が再び頬を滑り落ちていく。

 五百年前から続く運命に従い、自分をどん底に陥れた原因のラフィリアをこの世から消滅させたいとの思いも嘘ではない。だが、絶対に敵うはずはなく、今すぐ逃げ出したいと弱気な自分もふとした瞬間に心の扉を強く叩く。


 非情にならなければ生き残れないと言う兄の叱咤は至極真っ当で、否定する気には到底なれなかった。だからといって、どれかを選び取るのは簡単ではない。

 様々な事情が降りかかり、がんじがらめになってしまって一歩も身動きが取れず苦しい。今は子供と言われようが嗚咽を漏らし、兄の手の温もりに縋りたかった。

 ジョシュアはほんの少し態度を軟化させ、握る手に力を込める。


「もしリアがフラン君やドルフ君といることを望むなら、それに向かってもいいと思う。それはすべてリア次第だ。一つに絞れば、おのずと取るべき行動も見えて来る。もし決断の勇気がないのなら、僕のようにこの国からは逃亡しなさい。その方が誰にも利用されずに済む」


 リアはそれに答えられなかった。

 自分の立場が、打ち捨てられたモグラではなくなりつつあることも理解している。場合によっては国の今後に関わるような可能性も大いに秘めている。

 リアの行動次第で敵も味方も変わってしまうだろう。

 国の今後を左右するというのはリアには重すぎる。だが、このまま何も考え無しに過ごしていてはジョシュアの言う通り、誰かに利用され不利益を被り消されるだろう。急速に動き出した時は止まらない。上手く乗りこなしていくしかないのだ。


 顔を上げ、ジョシュアの瞳を間近に見つめる。そこにリアの憂いを一気に打破するような有益な策があるかもしれないと期待を込めて。もちろんそんな都合のいいものなど無く、揺らぐことのない信念の籠った兄と視線をかち合わせただけだった。

 そこで扉が小さく叩かれ、外から声がかかった。


 ――ジョシュア様、出発します。


 もう時間だ。

 ジョシュアは表情を緩め、純粋なリアの兄に戻った。


「さあ、行きなさいリア。僕はリアを見守っている。どこにいても。……そうだな、もしまたこの国にリアの様子を見に来る機会があったら、リアにわかるよう向日葵ひまわりのハンカチでも残していこう。リアは向日葵みたいだから。太陽に向かって大輪の花を咲かせ、人々に希望を与える、それがリアだ」


 穏やかな顔は昔と何も変わっていなかった。

 今ならわかる。兄は弱くてリアの後ろにいたのではない。いつもリアの好きにさせてくれて、それでいて一人にさせないように、悲しませないように、そっと守ってくれていたのだ。

 今だってそうだ。未来に希望を持たせるようなことを言って、リアの心を軽くしてくれている。だから、すんなりと兄の横から立ち上がれた。


「……わかった。それを見つけるの、楽しみにしてるね。……どうか、元気でね。お兄ちゃん」


 もう、お兄ちゃん、と呼ぶ事もない。最後だから、噛みしめながら音にした。


「ああ。元気で。リア」


 愛おしむように呼ばれた名を、今後一生忘れることはないだろう。


 小さく手を振って扉を開ける。馬車から降り、外と中で見つめ合う。ジョシュアが笑ってくれたから、リアも笑うことができた。御者によって扉が閉められる瞬間まで、どちらも目を離しはしない。ぱたりと静かな音を立てて完全に二人の空間は分かたれ、ひっそりと最後の逢瀬は幕を引いた。

 馬車はリアを置いて進む。建物の角を曲がり、やがて音も聞こえなくなった。


 これで一つ、終わったのだ。

 まだ実感は湧かない。

 リアは呆然自失し、重くなる体を引きずるようにしてホテルを後にする。

 ひたすら無心だった。どこをどう通って塔までたどり着いたのか、あまり覚えていない。気が付いたら月明かりが差し込む自室にしゃがみ込んで泣いていた。


 一体、どれくらいの時間こうしていたのだろうか。目は熱を持ち、腫れぼったい。

 落ち着いたところで文机の椅子に体を預けた。だらりと力の抜けた肢体は喪失感に実体を無くしたかのようだ。


 先程、兄に言われたことを夢うつつに反芻する。

 これまで、ラフィリアを消滅させることしか考えていなかった。だが、人々の営みは当たり前にその後も続く。

 まさしくジョシュアの言った通りだ。今ですら国主不在で国内はざわついている。そこに崇拝してきたラフィリアまでいなくなり、皆から奇跡の力が消えたら大混乱するだろう。

 それを誰が鎮めるのか。ボーマンか、総政公か。いくら自分が国主の娘だったとしても、国をまとめる力や知識を欠いている。

 総政公はラフィリア側。ラフィリアを消滅させた前提で考えれば、失脚ないしは今ほどの権力はなくなっている可能性が高い。そうでなければ反ラフィリア派の自分たちが危ない。

 となると、ボーマンに国の陣頭指揮を取ってもらうのが自然なのか。

 これまで思考に上がって来なかった様々な問題が怒涛のように押し寄せる。


 この国はラフィリア派と反ラフィリア派で割れている。こちらに有利に進めるには、ラフィリア派を率いるオルコット家の力を奪っておかないといけない。でも、それでは、


「フランとドルフはどうすればいいの……」


 二人との関係が邪魔になる。

 彼らがいないとラフィリアには立ち向かえない。しかし、彼らはラフィリア派トップ、オルコット家の人間。本格的にラフィリア派と対立するならば、決別しておかないと後々リアとの関係性を総政公に利用される恐れがある。

 それに、アルバートの言葉がどうにも引っかかっている。

 オルコット家は長くないとは、どういう事だろう。

 ただの狂言であればいいが、リアの知り得ない陰謀が水面下でうごめいているとしたらお手上げだ。


 突然迷い込んだ迷路が複雑すぎて出口の予想すらできない、そんな極めて困難な状況に進む気力が削がれてしまう。

 重い瞼を閉じ、冷え切った手で覆えば熱と共に停滞していた思考が僅かに回り始める。


 王になれ。兄から提案されたとんでもない話。

 もし本当にそうなることを目標とした場合、ここでオルコット兄弟と暮らすことの危うさに行き着いてしまう。

 兄も危惧していた世間の目だ。

 もうすでに悪評は立っている。散々嫌味を言われた。その評判が足を引っ張ることになるのは間違いないだろう。

 かといって、これまで積み上げた大切な絆を壊してまで出ていく勇気もない。

 己の優柔不断さに嫌気が差す。

 今の国内情勢を鑑みれば、のんびりと好き勝手過ごしているわけにはいかない。自分の望む望まないとは別に、リアは当事者になってしまっている。


 どう生きるのが最善なのか、早急に判断し動き出さなければいけないが、まだしばらく足は動きそうにない。

 皆が寝静まった冷たい夜に独り取り残された心地がして、リアは椅子の上で膝を抱えてただひたすら孤独を耐え忍んだ。

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