第102話 揺れる感情

 会場の警備は思った通り、何事もなかった。


「交代の時間だ。ご苦労さん」


 四十代くらいの気の良さそうな男性が手を上げ、こちらに寄って来る。この人はボーマンが信頼する部下の一人だそうだ。確かに、優し気でボーマンと雰囲気が似ていた。

 とうとうこの時が来た。リアはこれから大教会を抜け出し、エリントン卿が泊まっていたホテルの馬車置き場に向かい、ジョシュアと最後の別れをする。どきん、と胸が痛む。もう二度と会えない、それが心を蝕む。


 よろしくお願いします、と男性に挨拶をしてこの場を去ろうとしたところ、急に辺りがざわめき出す。


「貴様! よくも私の孫娘の死を金で収めようとしたな!」


 広間全体を揺るがすほどの圧力を持った怒号に周囲から悲鳴が上がる。

 注目を一手に受ける先にはエリントン卿と総政公の姿が。総政公は訳が分からない、といったように狼狽している。

 エリントン卿の怒りはこれまで抑えていた分、一度噴火したら手に負えないほど激しかった。顔の筋肉は強張り、目は吊り上がって朱に染まっている。


「私はエリントンだ! 孫娘は降光祭の日、ラフィリアに殺された! その後、貴様は私のところに金を持った部下をよこし、これで気を収めろと言った! 私は金などいらん! 孫娘を返せ!」


 怒っているはずなのに、その叫びは悲痛な色が濃かった。とても大切な孫娘だったのだと察するにはあまりある。大切な人に突然会うことができなくなってしまう悲しさは、今のリアにはつらいほど共感できてしまう。

 騎士団の三人がエリントン卿の元に駆け、必死になだめようとしている。だが、それで止まるような激情ではない。獲物を前にした狼のように唸り、剥き出しにした敵意をもって吠えかかる。


「孫娘は人混みに揉まれた拍子にラフィリアに当たってしまっただけだ! たったそれだけなのに殺された! そんな身勝手な女神が人間を穏やかに見守ってくれるとは思えない! これまで慕い、祈りを捧げ生きてきたが目が覚めた! ラフィリアなど信じるに値しない存在だ! それに陶酔し、国の柱として崇めるよう推し進める貴様も詐欺師だ! 私の孫娘が神に殺されるほどの罪を犯したというなら証明して見せろ!」


 何もかも捨てる覚悟の上に成り立つ、腹の底から溢れる憤怒の訴えは隅々まで行き渡り、その他の音の一切を無くした。

 我に返った総政公が、どう出るのが正しいかを見極めるように首を回す。エリントン卿の気迫に圧倒され、誰もラフィリアを擁護する者はいない。不安、戸惑い、恐れが参加者の行動をきつく制限している。

 そうなれば総政公の行動はひとつ。本心ではなかったとしても謝罪することだ。

 頭を大きく下げれば、エリントン卿を囲んでいた騎士たちは一歩下がって控える。

 それを皮切りに、人々から緊張のひそめきが中心人物に向かった。


「あー、わかるわ。あの貴族様の気持ち」


 出て行くタイミングを失ったリアの隣で事を見守っていた交代の男性が、ぽつりと零した。

「俺も娘が二人いるんだ。五歳と三歳。もし我が子だったら、いくらラフィリア様といえど許すことはできない。自分の立場なんて忘れて怒るのもわかる。俺も、全てを投げ打ってでも復讐しようと思う」

「そう、ですよね……」


 いつの間にか涙を流し始めていたエリントン卿から目を離さない横顔は直実で、何に対してかまではわからないが、微かな悲憤が説得力の助けになっていた。


「ラフィリア様が人間を殺したって話、それなりに聞くからさ、本当にこのままでいいのかね。俺の娘たちがお前さんくらいの歳になる頃には、こんなギスギスしてないで平和になってると良いなぁ。――おっと、ごめんよ長話に付き合わせて。お前さん、これから素敵な紳士に会いに行くんだろ?」


 にやりと口角を上げる男性にリアは不意を突かれ、目を見開いてしまった。

 当たっているけど、当たっていない。

 もしかしたらボーマンはリアをすんなりとこの場から離脱させるため、この男性に当たらずといえども遠からずなことを一言添えたのかもしれない。


「楽しんできなよ」


 手を上げ、リアを送り出してくれる。リアとしてもここで足止めを食っている暇はない。時間は限られているのだ。気づかいに感謝をして広間を出る。煌びやかな会場と打って変わって廊下は薄暗い。ここにいるとどうしても幼少期の記憶が呼び起こされてしまう。今まで忘れていたはずなのに、こんな時に限って兄と過ごしたひとつひとつの場面が次々と浮上し、目の前で色を伴って弾ける。懐かしさがリアの足を止めさせた。


 兄と駆け回った庭、一緒に勉強した沢山の本が広がった机。自分と共にラフィリアへ祈りを捧げてくれた日々。

 形には残らないものだが、確かにかけがえのない宝物だったのだ。

 あの頃とは何もかもが変わってしまった。立場も、暮らしも、取り巻く環境も。もう戻らない過去を悔やむ気持ちが、数年ぶりにリアを失意の奈落へと容赦なく突き落とす。

 廊下の端で壁を向いてしゃがみこみ、ぎゅっと目を閉じる。黒く淀んだ感情を必死に制御し、表層化しないようにただひたすら自分を腕で抱いて精神的苦痛を逃す。


 どうしてこうなってしまったんだろう。そんな、自分ではどうしようもできない運命を前に顔を覆う。割り切ったつもりでも、未だ絶望の淵にいる幼い自分が心の奥底で涙を流し続けている。

 それに迎合して嘆いたら、肩の荷は少し軽くなるのだろうか。それとも、もう前には進めなくなるのだろうか。


 冷たい宵闇に取り込まれそうになったが、リアははっと顔を上げた。今は郷愁に浸っている時ではない。進まなければ更に後悔を重ねる事になると、ぐっと足に力を入れ立ち上がった。立ち止まって小さくなっているのでは世界から忘れ去られてしまう。リアは自分で自分の存在を確認するように足音を立てて長い廊下を駆け抜ける。

 付きまとう悔恨を振り切るように邸宅を抜け、一般の立ち入りが許可されている大聖堂前の正門から敷地外へと出た。

 夜と言えど、人通りは途絶えてはいない。ただの通行人を装い、ガス灯の橙色に照らされる歩道を呼吸を正しながら一歩ずつ着実に進んでいく。

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