第100話 郷愁を覆う影
時はあっという間に過ぎる。
今日はジョシュア亡命の当日だ。昨日、お別れは済ませた。フランが何事もなくエリントン卿の泊まるホテルまでジョシュアを送り届け、しっかりと引き渡してくれた。
ここから先はリアたちの出番はなく、エリントン卿に委ねてこの都市から脱出、ゆくゆくは国外へと逃げ切れるように祈るだけだ。
リアは今、国主邸宅の荘厳な広間で催されている夜会の会場へと向かっている。
夜であっても特別足元を気にしなくてもいいほど煌々と明かりが灯される廊下は、塵ひとつなく神経質に整っている。ここに足を踏み入れるのは約十年ぶり。幼少期はここが家だったなんて、もはや嘘みたいな話だ。
久しぶりに入った
広いバルコニーを歩む度、楽しかった思い出が掠めて過ぎる。会場から漏れてくる華やかな音楽をこんなところで孤独に聞くなんて想像できなかった。
父と母がいて、兄と遊んだ幼少期。こんな広いお屋敷で暮らして、なんでも手に入ると思っていた。
実際にはすべて失った。日常も、家族も、何もかも。
「地底に落とされた日、リア・グレイフォードは死んだんだ」
自嘲の笑みが自然と
国主の娘として、姫や殿下と呼ばれた価値のある自分はもういない。
地底で育った、ただの『リア』だ。
惰性でここまで来たが、グレイフォードを名乗ることがそろそろ重くなってきた。この国を代々継いできたグレイフォードは消える。近いうち、別の誰かがこの国の象徴になるのは変えられない事実。
そうしたらいよいよ、グレイフォードは人々から笑いや哀れみを向けられるだろう。そうなれば過去の栄光に縋りついているようで虚しい。
養母の姓を名乗るべきだろうか。
一体、自分は何者なのだろう。
手すりに腕を置いて夜空を仰ぐ。星たちはいつもと変わらず
そんな時だった。後ろから靴音が一つ打ち鳴らされたのは。
「こんなところで出会うなんて、僕たちの運命は繋がっているみたいだね。野草のプリンセス」
バルコニーのガラス戸が開けられ、女性を口説くかのような自信と
ぱっと振り返って身構える。アルバートだ。今日は夜会に出席するらしく、きっちりと身なりを整え貴公子然として堂々と近づいてくる。先日、彼に屈辱を与えられたのだ。今回は愛想笑いすらしないで真っ向から敵対する。
「そんな運命があるとしたら、引きちぎりますので」
「引きちぎるとはまた物騒だね。とんだお転婆なプリンセスだ」
会場から聞こえる弦楽器の音色に合わせるかのように、ゆったりとした歩調で歩み寄ってくるアルバートと一定の距離を保つため、バルコニー上をじりじりと移動する。
あからさまな拒絶も意に介さず、彼はリアを迎えようと腕を広げた。精神の図太さは尊敬に値するが、それに免じて胸に飛び込む気などない。
「私はこれからパーティー会場の警備ですので。アルバート様も、どうぞ安心して楽しんでください」
感情を込めず、付け入る隙を与えないようにあしらう。本当は目すら合わせたくないが、不穏な動きをした際にすぐに反応できるよう意地でも逸らさない。
そんなリアなど薄暗がりゆえに見えていないのか、はたまた脳内で都合の良いように解釈をしているのか、アルバートはバルコニーの真ん中で立ち止まると手を差し出す。パーティー用の服を着て、しっかりと身だしなみを整えた姿は一般的に魅力的だ。
風に乗って届く幻想的な弦楽器の音色と星の柔らかな光を味方にし、ほどよく整った顔で優しくリアを求める。
「ここで会ったのも何かの縁だ。僕と一曲踊っていただけませんか? プリンセス」
「私はプリンセスじゃありません。ただの卑しいモグラですから。他をあたってください」
にべもなく、飛び回る虫を振り払うようにその誘いを撃ち落とした。
自尊心までめしゃめしゃにしてやろうと、鼻で笑うことも忘れない。
きっと自分以外の女の子だったのなら、麗しい容姿の男性から誘われ、まるで夢の中にいるように舞い上がって一夜の過ちを犯してしまうのだろうが、リアはこのような胡散臭い人間は信用していないし、第一印象が最悪だ。無理矢理体を触ってきたあげく、地底にいた事を馬鹿にされた。それに機密情報だった、兄が逃げ出した事まで吹聴して回っていたのだ。許せるわけがない。
色仕掛けでどうにかできると思っているのなら間抜けだ。
怒りのまま
それは負け惜しみでも強がりでもない、余裕を持ったものだった。
「あなたは、モグラの
『主様』という、アルバートから出てくるとは予想もしなかった単語にリアの足は止まった。
振り向く目は胡乱に険しい。
「あなた、何なんですか?」
「それは僕のセリフさ。あなたこそ、何を背負って生きているんだ? 僕はあなたが、いわゆる反ラフィリア派で、ラフィリア様の干渉をまったく無くすのを理想としている事しか知らない。でもそれって現時点では子供の空想くらい現実味がない。あなたはとんでもなく馬鹿なのか、それとも何か秘策があるかの二択ではないかい?」
女性を恋に落とすのに全振りした糖度の高い眼差しでリアをじっと射止める。
人はじっと見つめられると無条件に照れてしまうものだ。ここで恥じらいに負け、顔を俯けたら相手のペースに呑まれる。
これはフランもリアにお願いを聞いて欲しい時によくやる手なので、躱し方は熟知している。
真顔で鉄壁の防御を固めるのだ。
「私はとんでもない馬鹿ですから」
「おや、そうかい。ボーマン卿やフランシス、アードルフも同類だと。酷い言われようだなぁ」
こちらに分が悪くとも反論してはいけない。だんまりを決め込む。
「さ、次の音楽が始まってしまう。踊りながら話そう」
もう一度差し出される手は以前のように強引には迫って来ない。
主様の名を出されて気にならない訳はなかった。もし本当に何か知っているのだとしたら、聞いてみたいと思っている自分がいる。今すぐここから去るべきか、乗るべきかの迷いが足を鈍らせ、この場に留めてしまう。
「……ダンスなんて、もうほとんど覚えていないので踊れません」
「大丈夫。誰も見ていないから。――主様の事、知りたくない?」
「私は会場の持ち回り警備です。あと十分ほどの定時までに交代しなければ、誰かが探しに来ますよ」
「一曲踊れれば良いんだ。さあ」
結局、誘う手のひらに自分の手のひらをそっと重ねた。決してアルバートに心を奪われたわけではないので、髪の毛ほども信用していないという前提条件を承知してもらうために、少しも表情を緩めはしない。
「それではプリンセス、こちらへ」
バルコニーの中央へ誘われ、星月に照らされるアルバートをじっくりと眺める。その黒い瞳の奥にはどんな魂胆があるのか探ろうとするが、今はまだ何も見えない。
会場から漏れる音楽は新しい曲を紡ぎ出した。勇壮な低音が鼓膜を揺らし、滑らかな主旋律が踊りを促す。
こういう時の作法など知らないリアは流れ行く音楽にうろたえるが、アルバートが慣れた手つきで手を取り腰を引き寄せ、初心者のリアに合わせてゆったりと動き出した。
初めリアは足を踏まないようにだけ意識を集中し、恥ずかしくなるくらいに妙な動きだった。
幼少の頃に一応、一通り礼儀作法なども含めた教育は受けている。その中にダンスもあり、先生が上手だと褒めてくれた気がするが、社交辞令だったのだろうか。なんにせよ地底ではダンスを含む教養はまるっきり役に立たない。反芻することもなく記憶の片隅に追いやられ、いつしかなかったものになってしまった。
それほどまでに長い時間が経った事実に一人
「プリンセスは中々に飲み込みが早い。さすが、僕が誘っただけはあるね」
「お褒めにあずかり誠に光栄です」
少しすると、リードする彼に何とか合わせることができるようになった。
アルバートのどこまでも自分こそが凄い、という思考には呆れを通り越して感心してしまう。これが本物の自意識過剰なのだと、リアは人生経験の一つに新たな知見を得た。
右へ左へ、ゆらゆらと音楽に漂う。
「あなたはフランシスとアードルフの事が好き?」
「その質問にはどういった意図がありますか」
「プリンセスは気が強いね。頬を染めて目を伏せるくらいの方が女性として魅力的だよ」
「それならお好みの女性と踊ってください」
「今はあなたが僕の恋人さ。手放すわけがない。フランシスもアードルフもプリンセスにご執心だっていうから、どんな魅力的な女性なんだろうと思っていたんだけど、拍子抜けするくらい素朴な野草だったね」
含んだ笑いの気配に、リアは強引に手を振り払っていた。ダンスの振り付けであるかのように、くるりと回転し距離を取る。
「あなたは私を怒らせるために誘ったの!?」
この状況で人を素朴な野草、などと形容するのは馬鹿にしている以外の何物でもない。
ぐっと足に力を込めて立つリアを、アルバートはもう一度引き寄せる。大きな親指が謝罪をするように握った手のひらを撫でる。
「ごめんごめん、お詫びに一つプリンセスに忠告をあげよう」
拒否する暇なく顔を寄せられ、にやりと上がった口角が流れるように視界をすぎていく。耳元に、身震いするような生暖かい風を感じる。
「オルコット家は、もう長くない」
吐息に含ませた愉快げな響きは余韻なく途切れた。
言葉の端に悪意がちらつく、真偽のほどが定かではない話に思考も表情も強張る。
離されたアルバートの顔は、リアの反応を楽しむように綽然と気取っている。
「なぜ、あなたにそんなことがわかるの?」
「プリンセスのお願いでもそれは答えられないな。後のお楽しみさ」
「主様と何か関係があるんですか。あなたが主様の事を知っているような口ぶりだったから、私はあなたに応じたんです。話してください」
感情を
「あれ、もしかして僕嫌われてる? 僕とダンスを踊って落とせなかった女性はいないんだけど、さすがプリンセスは手強い。初めての失恋さ」
「はぐらかさないでください」
「恋愛は駆け引きを楽しむもの。あなたみたいに強引では、上手くいくものもいかないよ」
「私はあなたと恋愛はしていません。もういいです。曲が終わったら私は行きますから」
大げさにため息をついて、むすりと吐き捨てた。
アルバートの目的は見えないが、元からリアに何かを話す気はなかったのだろう。遊ばれただけだった。
主様という単語にまんまとつられたが、まったくもって無駄な時間を過ごしてしまった結果に己の不甲斐なさを恥じる。
ちょうど視線にあたるアルバートの顎だけを虚無に見つめ、ここからは無心に踊ってやり過ごすことにする。
二人分の靴音だけが夜のバルコニーのすべてだったのは、ほんのふた呼吸ほど。
「主様は、とても偉大な方さ。この国に必要なんだ」
これまでの流れは一切無視し、熱に浮かされたような悦に入った声が、張りのある唇から零れた。視線は遥か夜の彼方に投げられ、リアを見ていない。その脳裏には何が映し出されているのだろうか。
「あなた、主様と会った事があるの?」
「もちろん。僕が会えないわけはないだろう? 僕は大教会の騎士だからね。ラフィリア様に一番近しい人に会うのは当然だ」
徐々に勢いの強まっていく炎のように声が高まっていく。ここでリアに視線が下ろされた。陶酔しているような妄信的なきらめきに総毛立つ。
「プリンセス。主様はあなたを気にしていらっしゃるんだよ。どうか僕と一緒に来てくれないか?」
「嫌よ」
ドルフに連れられ地底を出る際、主様はリアに対し一緒に来るよう提案してきた。
だが、今はその頃よりももっと主様に従う気はない。
「主様は降光祭の時にフランを怖がっていたもの。好きにはさせないわ」
ラフィリアを封印した今、主様の力は弱まっている。
その状態であれば主様が暴れ回ったとしても、フランでも抑えきれると言っていた。
彼は分かりやすく本当の事は言わないが、嘘もつかない。だから今の時点では、主様はフランに勝てないのだ。
「僕を差し置いて、フランシスにそんな真っ直ぐな熱情を向けるなんて屈辱的だ。この国を守る騎士より、神に楯突く化け物に味方するなんて」
当然のように人を罵倒して愉悦に浸る顔が憎らしい。ダンスのリズムを壊して思いっきり足を踏みつけ、頬に手のひらを叩き込んだ。
「な、なな……!」
流れる優雅な旋律を乱す裏返った情けない悲鳴。ベッドから落ち、夢から覚めた間抜けな男のようだ。
もうこの男の相手をすることはないのだと見限った。彼は強い者の威を借りるだけの弱い人間だ。背を向ける前に一言、はっきりと言ってやる。
「もう二度と私の前には現れないでください。不快です」
ガラス戸に手をかけ室内に戻る際、アルバートは何事かを小さく呟いた。それはリアに聞かれても聞かれなくても良いというような独り言だった。
「……あまり自分たちが特別だと思わない方がいい。野草のプリンセス」
しっかりと耳には届いたが、問い詰める程の価値はない。無視して夜の空気を遮断する。
誰もいない薄ぼんやりとした廊下に出た途端、音楽は余韻を残して終わった。
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