第52話 束の間の安らぎ
最上階の居室はあの日のままだ。
炎に照らされ陰影を濃くする室内は、住人を失い物悲しい。おはよう、と台所からフランが迎えてくれた日々が
アードルフは迷うことなく、入口横に設置された棚の上に置いてあるカンテラに手を伸ばし炎を灯す。
灯り取りの役割を移した炎を手のひらで握りつぶすように消してから、ダイニングテーブルにカンテラを置き、片方の椅子を引いた。
「座れ」
命令口調だが行動は紳士的で、どういう反応をしたらいいのか正解が分からないので、大人しく腰を下ろす。
それに満足したのか、アードルフは無言で台所を
しばらく台所内を行ったり来たりしてから、うんざりして小言を漏らし始めた。
「……あいつ、水は自分で出して生活してたのかよ。ったく便利な奴だな。排水のことだけ考えてればいいんだもんな。他人のために水道くらい整備しとけよ」
はあっ、と大げさに息を吐いてからこちらへ戻って来ると、座るリアを上から思いきり睨み付けた。
「おい、俺は少しここを離れるから待ってろ。くれぐれも逃げんじゃねえぞ」
返事は待たず、言うだけ言って出て行ってしまった。
「……アードルフって、いったい何を考えているのかな」
数時間前に初めて会った人のすべてを知るなんて不可能だが、アードルフの対応は難しい。どうやら悪い人ではなさそうだが、口がとんでもなく悪い。
リアは一人になった寂しい室内で今日を振り返る。いつになく濃い夜だった。
朝には、まさか一日が終わる頃に地上へ出られるなんて思ってもみなかった。
フランの弟が自分を迎えに来て、主様に会って、大教会に戻って来られた。
運が良いのか、悪いのか。
耳鳴りがするほどの静寂はリアの精神を凪いでいく。一つ一つの出来事を振り返り、気持ちの整理をつける。
途方もない巨大な力を有する女神ラフィリア。立ち向かいたいが、それは可能なのか。
出ない答えに気落ちしたところで扉が開かれた。木製のバケツに水を
並々と水面がたゆたうバケツが近づくにつれ、もしかして頭から水を浴びせられる嫌がらせでも受けるのかと身構えた。
「……お前、今変なこと想像してんだろ」
眉間に深いしわが寄っていたようで、それを目撃したアードルフは呆れた吐息を残し台所へ直行した。
何をし始めるのか注視していると、鍋を取り出し水を注いだ。それから床に置いたバケツにタオルを浸し、硬く
怖い顔のままタオルを広げ、リアのそばまで歩む。リアが何の用か声をかけようとするよりも早く、行儀よく膝の上に置いていた右腕を掴まれた。
何をされるのかと身を固くしたが、その手つきは優しく、アードルフによって火傷させられた手首にタオルがそっと被せられた。
ひんやりとした感覚が、熱を持ち、ずきずきと
「……悪かった」
目を合わせずにぼそりと一言
そのままアードルフは片手鍋を手にし高火力の炎を底面につくよう発現させ、お湯を沸かし始めた。かまどいらずの芸当に、フランの自分で水を出す生活と大差ないくらい便利な人だ、とリアは心底羨ましくなった。
アードルフの気が済むまで好きにやらせようとリアはタオルを手首に巻き付け、見守ることしばし。
お湯は沸き、
「ほら、飲め」
相変わらずぶっきらぼうな語気だが、当初の他人を寄せ付けないような刺々しさはない。
「今から、お前にわかるように話しをする。これまでのことと、これからのこと」
一旦言葉を切って、アードルフは向かいの椅子に座った。
「俺だって、ずっと黙ったままのつもりじゃなかったんだぞ。お前が俺の意識飛ばして勝手に逃げ出したんだからな。あー痛いわ」
わざとらしく後頭部をさするアードルフに、リアはいまさら胸が痛んだ。随分酷い事をしてしまったというのに、それでもリアを兵から助け、一言も責めはしない。
「ごめんなさい。その……あの時は、私も感情的になっていて……」
アードルフが養母ジャネットを殺した、という主様の言葉を真に受け、本人にしっかりと確認もせず
「そんなにかしこまるなって。もっと気楽にしろ。俺はお前の味方だ」
頑なにそっぽを向いたままだが、時折こちらの顔色を窺うように視線が動く。
「それを地底で言ってくれたら、アードルフさんから逃げなかったかも」
不器用な一面を前に、リアは地底から張っていた気をようやく抜くことができた。
「その呼び方やめろ。ドルフでいい。仰々しい名前は嫌いなんだ」
かつて聞いたような言葉に微笑が溢れる。
「それ、フランも同じこと言ってた」
「あいつと一緒にすんな」
つっけんどんだが攻撃性の消えた態度にほっとしながら、出されたコーヒーを飲んだ。ぬるく、しかも薄い。これでは苦みがあるコーヒー風味の
お世辞にも美味しいとは言えないが、彼なりに精いっぱい気を遣ってくれたのだというのは充分すぎるほど伝わってきて、心が温かくなる。
「コーヒーありがとう」
引き寄せられた紺碧の瞳は意外そうに丸くなった。どうやら褒められたことに驚いているようだ。
すぐに目を逸らし「黙って飲め」と消え入るような声で威勢を張る姿は、完全に照れている。
意外とわかりやすいドルフに笑いを堪えられず小さく吹き出してしまうと、むきになって怒り出す。
「全然笑うところじゃねーからな!」
言葉と共にぽっ、と手のひらから小さな火が浮かびすぐ消えた。
カンテラの光に照らされる頬は、微かに赤いような気がする。
ふんっ、と横を向いてしまうドルフは子供っぽくて、大の大人に対して失礼かもしれないが、和んでしまう。
「ねえ、あなたってもしかしなくてもその炎の力、あんまり制御できてないよね?」
「うっせーよ!」
図星だったようで、言葉とは裏腹、またマッチ一本程度の火が指の間から漏れてすぐに握りつぶされた。
ドルフは気まずそうにテーブルの上から両手を引っ込め、黙り込んでしまった。
どうやら、感情の高ぶりによって力が出てしまう時があるらしい。水は多めに用意しておかないといけない、とリアは万が一の火災を危惧し、本人に気付かれぬよう気を引き締めた。
「ドルフの奇跡の力って炎と、さっき空飛んでたよね? あれは?」
「ああ、あれは重力を操ってんだ。さっきは軽くしたけど、逆に重くして足止めなんてこともできるぞ」
とても珍しい力にリアは素直に感心する。
「すっごく便利な力ね。悪用したら、どこへでも不法侵入し放題だけど」
「そんなに持続時間長くねえから、悪用したくてもできないな。安心しろ」
「それは良かった」
若干不安要素はあるものの、ドルフは天才と言って差し支えないだろう。それにも関わらず、モグラであるリアを下に見るような
フラン同様、奇跡の力に捉われない平等な視点は差別とは無縁で、精神的に大いに救われる。
「話が逸れちゃったけど、ラフィリアが大教会をめちゃくちゃにした後の事教えてくれるんでしょ? この二週間、ずっと地上について知りたかったの」
こんな時でなければ、まったりとお喋りをして相手と親睦を深めるのもいいが、今はそんな悠長な時間はない。一刻も早く状況を把握し、今後について考えなければならない。
リアの切望を汲み取ってくれたドルフは、生真面目に姿勢を正した。
「お前の知りたい事もたくさんあるだろ。……一度しか言わないから良く聞けよ」
真剣な表情をするドルフに、リアは一つ大きく頷いた。
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