第51話 高い壁
夜の暗さに充分すぎるほど慣れた頃。結局、大教会の前に来てしまった。ラフィリアへ祈りを捧げるための特別豪華な大聖堂の影が黒々と存在する。
国主を
正確な時間は把握できていないが、恐らく今は日付が変わる寸前の深夜。大教会の正門はもちろん固く閉ざされている。平和条約締結の前までは日中に限って解放されていたが、あの騒動の後はどうかわからない。
陽が昇るのを待ち、結局入れなかったというのでは時間の無駄。それならば、今から侵入する努力をしたい。
大教会の敷地は、身長の倍以上ある石の塀に囲われている。手で触れる側面はきっちりと石が積み上げられていて、足がかりになりそうな出っ張りなどはない。遠く頭上を仰ぎ、落胆する。さすがに足場もなく、よじ登るのは無理だ。
リアは大教会の右手側に回り込み、研究棟側に移動する。そこには関係者用の小さな出入り口がある。入れる望みは薄いが、確認の意味を込めて向かう。
周囲は寝静まり、自分の足音がやたら大きく聞こえる。真夜中に大教会の周りをうろつくなんて後ろめたいことをしているので、必要以上に神経が尖り、時折吹く風によって地面を転がる木の葉の乾いた音にさえ心臓が跳ねる。夜間は大教会近辺を警備兵が巡回しているので彼らに怪しまれたら厄介だ。
ようやくたどり着いた出入り口は、思った通り施錠されていた。飾り気のない鉄の扉はびくともしない。
「だめ、だよね……」
予想していたが、いざ現実を突き付けられると
弱気になる自分をなんとか奮い立たせ、無策のまま裏手側まで歩いてきてしまった。壁のすぐ向こうには、少し前まで暮らしていたフランの住居である塔が見える。すでに懐かしい思い出となりつつある日々に、郷愁が鼻先をかすめていった。
どうしても、もう一度訪れたい。リアはなんとかして停滞する状況を動かそうと藁にも縋る思いで辺りを見回す。苦し紛れではあるが、塀に沿い歩道を
高さは充分にあり、枝から飛べば塀の上に届くかも知れない。
まだ高さが足りない。先端に行くに従い細くなる枝は頼りなく、危なげにしなる。ようやく塀よりも上に目線が出たところで、リアは飛び移るため足に力を込めた。不思議と恐怖は無かった。どうか折れないで、と祈るような思いだが、天はリアを見放す。踏み切りと同時にぱきり、と軽い音を立てて枝は折れ、体は沈み込む。勢いを削がれたものの執念の結果か手は塀の縁を掴み、リアの体はぶら下がった。
握り込むことができず、指先だけで体重を支えている状態は辛い。何とかつま先を石壁に引っかけようとするが、
「――何者だ!」
さらに追い打ちをかけるように、背後からの荒々しい声がリアを急かす。
数人の足音はみるみるうちに近づき、照明器具のぼんやりとした灯りに照らされ眼下に三名の軽装兵が現れた。大教会に害をなす存在を排除してくれる頼もしい人たちだが、それは遠い昔の話。今は
「大教会に忍び込むつもりか! この
まったくその通りで、言い訳など思いつかない。
リアを引きずり降ろそうと伸ばされる手を蹴散らすため、足をばたつかせる。
揺れる体は塀を掴む手に負担をかけ、右手首の火傷は熱を持ち鼓動と連動し痛む。それでも滑り落ちるのを防ごうと爪を立て必死に耐える。だが、しょせん素人の悪あがきだ。兵士に足を引かれ、あっけなく背中から地面に落とされた。結構な高さだったので衝撃が強く、数秒倒れ込んだまま動けなかった。
仰向けに寝そべったままのリアの喉に、剣の切っ先が突きつけられる。無機質で冷たい刃が皮膚に当たり、死が間近に迫る恐怖が襲う。
「何の目的があってこのような真似をした!」
あっという間に取り囲まれてしまった。月を背にし、逆光の中で
「待て待て待て! そいつは俺の連れだ!」
先程気絶させてしまったアードルフだ。剣で頭を固定されているので姿は見えないが、間違えるはずがない。
一斉にそちらを向く兵の顔は懐疑に険しい。こんな夜中、塀を登っていたリアの知り合いが大教会関係者なのだから、納得がいく理由を見つけられないのは当たり前だ。
走り寄るアードルフは確かに大教会の制服を着ていて、兵は渋々といった様子で剣を鞘にしまったものの、依然として隙は見せない。
「こんな時間に、わざわざ壁を登ってまで敷地内に入る用事がありますでしょうか? 失礼ですが、お名前を教えていただけますか?」
「アードルフ・オルコットだ! 知らないってんなら、ここのお偉いさん方にでも聞きやがれ!」
体の前から横に振った手から炎が発せられた。
どうしてそんなに喧嘩腰なのだろうか。それでは余計な
三人の兵は
どうやら、兵たちはアードルフの名前が引っかかっているらしい。
アードルフが狂暴だからなのか、名家の子息だからなのか、今後どういった展開に持っていくか迷う兵三人を尻目に、アードルフは心底機嫌の悪そうな態度でリアの前までやって来た。
黙って見下ろされる冷たい瞳を前に、一体どんな乱暴をされるのだろうかと、こちらも負けないように口を引き結んだところ、いきなり横抱きにされた。アードルフの奇想天外な行動に腕の中でおとなしく目を瞬かせていると、彼は軽く地面を蹴り、なんとそのまま浮いた。どよめく兵たちの頭が目線と同じ高さになり、すぐにそれも越えてしまった。
「えっ、ええ、え!?」
リアが折ってしまった枝が下へ流れていく。木の天辺以上の高度にまで達したところで、遠くなる地面をうっかり見下ろしてしまった。肝が冷え、身が
「私をこの高さから落とすつもりね!? あなたの首にぶら下がってでも絶対落ちないから!」
「耳元で叫ぶなっての! うるせーだろ!」
恐怖を紛らわすため、早口になった悲鳴混じりの絶叫に対抗するかのように、アードルフも声を張り上げ主張する。
「私を放り投げて殺そうなんて、趣味悪すぎ!」
「誰がそんなことするかよ! 俺はお前を助けてんだろ! ここまでずっと!」
言われてみればそうかもしれない、とリアは一旦休戦を決め込んで口を
どうやら本当にリアを落下させる気は無いらしい。首元から腕をほどき、確実に迫る地面に人心地ついた。少し前まで生活していた塔が存在感を持って出迎え、戻ってきた実感に気が緩む。
整えられた芝にアードルフが着地したところで、そっと下ろされた。地に足が付いた安心から、どっと疲れが押し寄せる。全身の力が抜け、浮遊していた時より体が重い気までする。
命が助かった喜びをかみしめていると、アードルフがうんざりしたようにため息をついた。
「お前さ、勝手に逃げて捕まって。馬鹿か」
夜風に溶ける低く落ち着いた叱責に、知らず
「大教会に行きたかったんだから、捕まって中に入れるなら万々歳よ! あなたが私をどうしたいかは知らないけど、あなたなんかいなくても私は自分の思うように進むんだから!」
自分がどう頑張っても越えられなかった高い壁を、難なく越えてしまうアードルフに対する嫉妬や劣等感といったものが憎しみに変わる。結局自分は一人では何もできず、強い人の言いなりになるしかないのだと言われているように感じてしまう。それは被害妄想的で大人げないとわかっていても、止められなかった。
「俺の気も知らねぇくせに、生意気言ってんじゃねえよ」
リアの激情を当てられるアードルフはそれを粛々と受け流す。
「言わないんだからわかるはずないじゃない! 私は人の心を読めるなんて便利な力はないから!」
しばらく無言で睨み合う。
何度か呼吸を繰り返していると、わずかだが気持ちも平静を取り戻す。リアの冷却期間を考慮していたのか、しばらくして張り詰めた時を解いたのはアードルフだった。舌打ちをし、背を向ける。
短く「来い」とだけ言うと、リアを待たず自分の速度で歩き出してしまう。
ここで一目散に逃げ出そうかと
アードルフはフランの住居である塔の玄関扉を開け、無遠慮に入っていく。窓が少なく月の光もろくに入らない内部を照らすのは、アードルフの手のひらの上で揺れる炎だ。
顔の高さに掲げた手の炎は攻撃的な要素はなく、ただ静かに燃えている。
アードルフに続き、暗い足元に注意しながら階段を登り始めたところで、ちらりとこちらを確認された。顔を上げた時にはもう前を向いてしまっていたが、アードルフは炎を出しているのと反対の人差し指を炎に近づけ、そのまま肩越しに後ろを指さす形にした。
すると小さな火が分裂し、リアの頭の少し上をふよふよと漂い始めた。
足元が照らされ、幾分か歩きやすい。
何も言わないが彼なりの優しさを感じたのと同時に、こちらも
アードルフは慣れた足取りで最上階まで行き、フランが主に使っていた台所のある居室の扉を
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