第49話 揺らぐ心1
「いいか、今から俺は大教会の奴らに報告する事があるからここを離れる。逃げるんじゃねぇぞ。ま、逃げても俺にはお前の居場所はすぐわかるからな」
そんなに逃げて欲しくないなら縄で縛るくらいしたらいいのに、アードルフはまったくリアを拘束していない。狂暴なのか甘いのか、まだまだ距離感を計りかねる。
元よりリアに逃走の意思はない。ここから逃げ出したとしても行く宛などないのだ。今は素直にアードルフと地上へ出た方が賢明だ。
流れる人を追って瞳が右へ左へ。何もすることがなく壁に寄りかかり、それとなく人波を眺めていると、たまにリアの腫れた顔を目にした人が驚き、慌てて目を逸らしていく。何となくそれが恥ずかしくて、顔を隠すように深く
足先で地面を
結局、ここへ来る間にアードルフの目的は聞けていない。
リアを引き取るためにわざわざ地底までやってきたのだから、それなりの理由があるはずだ。それを一度詳しく聞かないことには、こちらも先が見えず不安は募るばかり。
自分のあずかり知らぬところで物事が進展している感覚がもどかしく、腹立たしい。誰かの思惑によって動かされているのは気持ちのいいものではないし、今のままではアードルフに対する不信感も拭いきれない。
体内でわだかまる
アードルフが戻って来たら、こちらから否応なく尋問してしまおうと色めく。
「お久しぶりです、リアさん」
何の前触れもなく足元を見つめるその視界に一対の足が入り込み、低音のゆったりとした声が
一瞬で心臓が早鐘を打ち、市場の喧騒が耳に入らなくなる。
顔を上げるのが怖い。
だってそれは、
「あ、
「探しましたよ。まさか地底にいたとは、灯台下暗しですね」
穏やかに笑う姿からは、平和条約締結の場で見せた殺意はまったくない。それでもあの時の光景が蘇り、足が震える。
「そんなに怖がらないでください。私はあなたを傷つけるつもりはありませんよ」
大きな手ぶりをして両手を顔の横で振り、争う意思のないことを証明する主様。リアは適切な言葉を見つけられず、背筋の伸びた大男を
「
「あ、あなたは、ラフィリアの何なんですか……?」
ずっと不思議だった。どうして地上の女神であるラフィリアと、モグラの主様があの場で協力していたのか。
「一番近しい言葉を使うのであれば、私はラフィリア様の部下、ですね」
隠しもせずに告げられるのは、心のどこかで予想していたものの、否定し続けていた答えだった。
「五百年、長かったですよ。ラフィリア様が封印され、復活される時が来るのをこの地底でずっと待っていました。……おっと、詳しい話はまた後でしましょう」
――逃げなければ。
リアはアードルフの姿を探したが、まだ用事が終わらないのか周りにはいない。
「おや、あの大教会の青年を探しているのですか? 彼は少し前に視察団の一員として地底にやって来た方ですね。……ああそうだ、あなたの養母ジャネットさんを殺した方ですよ」
「……え……?」
「彼、すぐ頭に血が上って炎の力を使うでしょう。あの時もそうだったんですよ」
放心してしまい、苦笑する主様の言葉が体を通り抜けていく。主様はリアの様子を目に入れつつ、追い打ちをかけるように畳みかける。
「地底に追放されてからずっと面倒を見てくれていた恩人をこの世から消し、あなたの居場所と
会話の途中で、話は終わりと言わんばかりに横を向き、ゆっくり数歩離れていく。遠ざかる目線が名残惜しい。そんなにあっさりと去ろうとしないで、真実をもっと教えて欲しいとリアは追い
「待って、待ってください……」
思い出が喉まで押し寄せ、それに潰されるように絞り出した震える声はか細く、他人に聞かせる意思が感じられないものではあったが主様は静かに歩みを止め、リアを穏やかに迎える。
消え入るような
ジャネットとの日々が次々と浮かんでは消えていく。
決して裕福ではなく、食事にありつけない日だってあった。しかしどんな時だってリアを温かく愛してくれていた。赤の他人で、しかも地上から落とされた異端だったにも関わらずだ。
ジャネットが殺されなかったら、リアは家を失うことはなかった。慎ましく、灯り売りとして今も暮らしていただろうか。
その未来の先に何があったかなんて今となっては分からない。時間は戻らないのだから、どんなに夢想しても無駄なのに。
これまで悲しさに呑まれてしまわないように、固く蓋をしていた憎しみが芽吹き、心が悲鳴を上げる。
「リアさんが良ければ私と一緒に来ませんか? あなたの悪いようにはしませんよ。帰る場所も、食事も提供します。今後の地位も保証しましょう」
立ち尽くしたまま時が過ぎる。
アードルフはジャネットを殺したという。しかし、主様の
どうするべきか、その答えは今の自分からは引き出せそうになかった。
無言の時は刻一刻と過ぎていく。
どのように進展させればいいのか分からない停滞した時を裂くように、黒い人影が目の前を覆う。
「てめぇ、リアに何の用だ」
リアと主様の間に割り込んだのはアードルフだ。リアを背にかばい、
「これはこれは。モグラを焼き殺したあなたと、また再会するとは思っていませんでしたよ」
わざとらしい抑揚をつける主様にアードルフは一歩近づく。
「何を企んでいる」
怒気を
「あの時あなたが殺したのは、地底に落とされたリアさんを家族として迎え入れていた女性だったのですよ」
アードルフの言葉は無視し、独りよがりに主様は話を進める。
それを聞いたアードルフは弾かれたようにリアを振り返るが、今は顔を見る気には到底なれない。目を伏せ、濃い色をした地面をじっと見つめる。
「あれはお前が殺したんだろ!? 俺の力を
主様に食って掛かる姿からは必死さが伝わって来る。それは本当だろうか。リアは少しの期待を込めてゆっくりと顔を上げた。真っ直ぐな紺色の瞳はリアだけを映す。
「リア! あんな奴の言う事信じんのかよ! モグラの主はあの場で何をした!? 考えろ、冷静になれよ!」
訴えは迫真で、演技ではなさそうだが、まだ気持ちの整理がつかない。
黙ったままのリアにアードルフが腕を伸ばしたその瞬間、主様が一つ手を打ち鳴らした。
乾いた音の
「どうです? 久しぶりの地上は」
夜の闇に支配されるのは、紛れもなくこの二週間ずっと焦がれていた地上だった。
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