第46話 予期せぬ来訪者

 リアが娼館サンフラワーの門を叩いてから丸二週間。

 その日の昼過ぎ、リアは女将おかみの執務室へ呼ばれた。

 玄関ロビーの奥にある一室の扉を控えめに打ち鳴らすと、間髪入れず中から入るよう声がかかった。

 きしむ扉を開けると、まず目に飛び込んできたのは机の上に山積みになった書類だ。かろうじて目元が見える高さの向こうに座る女将と視線がぶつかった。


「リア。あんたのために仕事用のドレスを作らないとと思ってね。採寸するから、こっちへきな。……それにしても酷い顔だね。まったく、それじゃあ明日から仕事ができないじゃないか」


 女将は呆れながらリアの顔を一瞥いちべつすると、机の引き出しから巻き尺を取り出し立ち上がった。

 昨日大教会の男に乱暴を受けたせいで、右頬にはガーゼを貼り、目の周りは腫れぼったくて顔の左側は大きなあざが広がっている。リアも朝起きて鏡に映る自分の顔に悲鳴を上げたほどだ。


「あの、すみませんが、その……返事は、今日の営業が終わるまで待ってくれませんか?」


 娼婦として、ここサンフラワーで働く前提で話を進める女将にリアは頭を下げる。

 気配が動き、ため息が近づく。

 恐々こわごわと顔を上げれば、書類の向こうからこちら側へ姿を現した女将が腰に手を当て、少しの軽蔑を宿した瞳でリアを見下していた。


「別にいいけど、それ以上は待てないよ」


 落ち着いた口調だが、確固たる意思がそこにはあった。

 女将は右側に歩き、食器棚の戸を開ける。


「こっちだって、何にもお金を生み出さない人間をいつまでも置いておくわけにはいかないんだ」


 元は真っ白だったはずの、黄ばんでふちが欠けたカップを手にして執務机に置いた。


「わかっています」


 袖机に置かれたポットの中身をカップに注ぎ、女将はそれを一気に飲み干した。


「どうせ娼婦になるんだろう? 今日の日中で何か変わるなんて思えないけどね」


 冷たく言い放たれる言葉に反論はない。まったくその通りだった。

 リアは唇を噛み、沈む表情を隠すように一礼し、扉を開ける。


「……失礼しました」


 発光石の無い廊下は暗く、気落ちして無様な顔をする自分を誰にも見られることはない。壁に背を預け、ずるずると座り込む。


 この二週間、地上に出るすべは見つけられなかった。地上と接点を持てそうな仕事にも出会えていない。

 娼婦になれば、今よりも自由が利かなくなる。しかし、生きていくためにはお金が必要で。どう考えても八方塞がりだ。地底と地上は果てしなく遠く、もう二度と太陽の光は拝めないのだと心を重たくする。

 そもそも、モグラの自分が奇跡の力を消そうなんて絵空事に足を突っ込んだこと自体、身の丈に合っていなかったのだ。ラフィリアに滅茶苦茶にされた地上を助ける、そんなの思い上がりだ。実際こうして、その日の暮らしにも困るような底辺の人間。こんな自分に地上でできることなどない。

 波立つ心を落ち着けるため、諦める理由を並べ立てる。


 しばらくそのまま頭を抱えていたが、リアにはそんな時間すらほんのわずかしかない。洗濯や買い物がまだ残っている。

 下働きの自分は、与えられた仕事を完璧にやり遂げなければならない。

 重い足取りで何とか時間通りにすべてをこなすと、あっという間に夕刻となってしまう。大して地上の情報収集もできないまま、娼館サンフラワーは営業を開始した。




 店の営業中、リアはロビーで接客対応をしている。その日も最初の客に娼婦を引き渡し、仕事を待つ娼婦や下働きなどで密度の高いきらびやかな空間の片隅に立って憂鬱に目を伏せる。

 結局、今日も昨日までと同じ時が過ぎるだけだ。明日の朝には正式にこの店の娼婦となる。それはくつがえらない。めいっぱい息を吸い、肺を膨らめ、それを細く吐き出していく。その間に抗えない運命に覚悟を決める。

 だんだんと苦しくなり、それでも限界までやめない。途切れ途切れになる息がとうとう止まり、様々な香水の臭気が混じり合った空気を吸い込んだのと同時に店の扉が乱暴に開いた。


「おい、ここにリアっていう女いるだろ。さっさとそいつを出せ」


 突然名を呼ばれ、せっかく吸った息はすべて外へ出てしまった。

 大教会の黒い制服を着た青年は、一目でわかるほど機嫌が悪そうだった。そちらから訪ねて来たというのに、一同を睨み付ける眼力には容赦がない。

 雑談で盛り上がって浮ついていた室内が、一気に静まり返る。皆、この男を刺激しないように出方をうかがって動くに動けないのだ。

 そんな耳が痛くなるほどの沈黙は、ほんの数秒で終わりを迎える。

 丁度、執務室から女将が出てきたのだ。


「あら、大教会のお兄さんいらっしゃい。ここには良い娘が沢山いますよ。特別かっこいいお兄さんにお似合いの一番人気も、今なら空いていますよ」


 巨体を揺らし、こびを売る女将の物怖じしない対応に感心していると、青年は少しだけ態度を軟化させた。


「残念ながら今日は遊びに来たんじゃねえんだな。リアって女を出せ」

「リアはあちらですが……」


 この店にリアという名の者は一人しかいない。女将を筆頭に、その場にいた全員が体ごとこちらを向く。こんな大勢に一心かつ必死に見つめられたのは初めてだ。

 皆の目が、大教会の要人に一体何をしたんだ、と文句を垂れている。

 あからさまな視線に導かれるようにして、青年の目もリアを捉えた。そのまま目が合うと、明らかにぎょっとされた。無理もないだろう、昨日殴られた打撲痕はまだ健在だ。しかし、それはほんの一瞬の出来事で、すぐに人を殺せそうな目力に戻る。出会って早々、喧嘩腰だなんて意味が分からない。リアはそんな自分勝手な相手にひるみはしない。背筋を伸ばし、得体の知れない男の前に堂々と歩み寄る。


「リアは私です。……あなたのような優秀で高貴な大教会の方に、知り合いはいないはずですが」


 攻撃的な態度を取られると、こちらも応戦したくなるのは悪い癖か。真っ向から含みを持たせた嫌味を言ってのけ、意地でも目はらさない。

 発光石に照らされる黒髪は艶やかで、三白眼さんぱくがんぎみの瞳は紺色。顔の造形はとんでもなく整っていて、どこにいても羨望の的だろう。それに、どういうわけかどことなく面差しがフランに似ている。

 そういえばルーディに会うためオルコット邸を訪れた際、フランには弟がいると言っていた。まさか。

 ひとり戸惑うリアをよそに、対峙する青年はどこか残念そうなニュアンスで小さくため息をついた。


「お前がリアか。……女って言ったからちょっと期待したのによ、とんでもなく貧相だな。あいつ、趣味悪すぎだろ」


 落胆し、リアの後ろへと悄然しょうぜんとした視線を投げる青年はきっと、ここにいる娼婦のような人だったらよかった、なんて失礼なことを思っているに違いなかった。

 確かに肉付きが良くないのは認める。女性的な柔らかな肢体とはほど遠く、出ているところといったら骨だ。だが、初対面でそんな正直な反応をするなんて、あんまりではないか。

 怒りが湧き、唇を曲げて抗議する。


「名乗りもしない非常識な相手に、貧相呼ばわりされるのはこちらも気分を害します」


 リアのきつい語気に、うれいを帯びていた青年の目が鋭く細められた。


「お前、随分強気だな」


 顔を片手で掴まれた。なんて乱暴な人なんだ、と思った矢先、その手から小さな炎が発せられた。熱さに驚き身を引いたが、ほんの一瞬だったのとすぐ解放されたので火傷はしなかった。


「俺の名前、教えてやるよ。よーく覚えておくんだな。アードルフ・オルコットだ」


 自信たっぷりの宣言は、リアの予想通りだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る