第45話 停滞
平和条約締結の日から二週間。
この頃になると、地底にも地上の様子が噂話として出回り、人々の関心を買っている。
階段前市場へ夕食の食材と、娼婦たちから頼まれた物品を買うためやって来たリアの耳には、様々な話が入り交じる。
『地上では女神ラフィリアが
『ラフィリアは国主を食べ、その力と権力を奪い取った』
など、面白おかしく脚色されたものだが、あながち間違いとも言い切れない。
買い物をすべて終え、重量の増した
リアが娼館サンフラワーの下働きとしていられる期限は明日まで。
この二週間、リアは地上から物を売りに来る商人や、地底の見回りをしている兵に大教会の様子を尋ねたが、誰一人として詳しいことは教えてくれなかった。本来地上に出られるはずのないモグラがやたら詳しく大教会について聞くのだから、気味悪がられてしまう。あしらわれ、それでもしつこくしていて流血沙汰になってしまったことも数知れず。おかげで生傷が絶えない。
市場でひと際存在感を放っている大きな階段の前に差し掛かると、物憂げに視線を這わせる。以前は地底側に見張りの兵はいない事も多かったが、最近は毎日五人ほどの武装兵が目を光らせている。
やはり、ラフィリアが姿を現した影響だろうか。地上では大きな確変をもたらしていると予想させる。
結局のところ、平和条約はうやむやの内に消え去ったらしく、依然としてモグラが太陽の光を浴びる事は叶わない。
地上に出るため、階段を守る兵にフランの名前を出し通してくれるようお願いしてみたが、結果は言わずもがな失敗に終わったのは記憶に新しい。
妙案を思いつきもしないので、今日は未練を残さぬよう雑踏に紛れ階段の前から遠ざかった。
買った物を入れた籠が人にぶつからないように体に寄せ、威勢のいい呼び込みを聞き流し、市場を抜け帰路に着く。途中、ずしりとかかる籠の重さで持ち手が腕に食い込むので、赤くなった箇所を避けるように持ち直し、市場に向かう人の活気を器用にすり抜ける。
歓楽街に向かう通りは、午後の早い時間であれば人通りは少ない。なので、すれ違う人がいれば自然と視界に入る。大教会の黒い制服を着た男二人が談笑しながら、道の真ん中を我が物顔で
「――オルコット
「女神が俺たちの味方をしてくれるんだ。これ以上幸せなことはないよな」
「総政公の息子である騎士長も一命を取り留めたそうだし、もう少しで
軽口を叩く男たちの会話に、リアは籠を取り落としてしまった。ごとり、と重厚な音を立てるが気にならない。この人は、フランの事を知っているだろうか。
リアなどいないかのように盛り上がりを見せる二人の会話は、次第に
「だが、治安部隊隊長がそれに水を差しているんだろ? 何でもオルコット家の……」
「あのっ! フラン……フランシス・オルコット、様は今どちらに」
「何だお前は」
突然声高に進路を
「私はフランシス・オルコット様の知り合いです。安否を知りたく、」
「モグラ風情が我々に口を聞くなど、身の程を知らな過ぎる!」
一人の男が声を荒げ、言葉と共に拳がリアの頬を打つ。
振り抜かれた腕の勢いのまま倒れ込むが、すぐに体を起こして二人の前に立ちはだかる。
すこしでもいいから、安心材料が欲しい。欲を言えば、フランは生きていると言って欲しかった。
「失礼は承知です。ですがフランの事を知っているのであれば、それを教えてください。それだけでいいです」
「貴様……奴の名前を出せば、俺たちが怯むとでも思っているのか? ふざけるなよ! この
男はリアの肩に掴みかかり、そのまま乱暴に地面へと押し倒した。すぐに降るのは硬い拳の雨。馬乗りになられているので身動きが取れない。まるで子供がぬいぐるみを殴るかのように、罪悪感も悪気もなく痛めつけられる。そこにあるのは
口の中が切れて血が端から
――痛い、怖い。
男は奇跡の力を使ってリアの顔に水をかける。なすすべなく気道に入るそれを追い出そうと顔を
鼻に入った水が痛くて、じんわりと涙が浮かぶ。
「これに懲りたら、地上人様に気軽に話しかけるんじゃない。貴様らはモグラ、決して我らと関わっていい存在ではないのだよ」
悠々と立ち去るその後ろ姿を、体をうつぶせにし眺めながら地上人の
多少水を出せるくらいなのに、どうして自分が選ばれた存在かのように振る舞えるのであろうか。思い上がりもいいところだ。
リアは早くも熱を持ってきた顔に触れ、腫れているのを手のひらで確かめてから憂鬱になる。また顔に怪我をしたなんて、女将が知ったら何を言われるか。……明後日には娼婦になるかもしれないのに。
地上へ行くのは簡単ではない。長い年月が必要になりそうだった。途方もない時を前に、リアは自分の無力さを悔やむ。
とんだ道草を食ってしまったが、今は買い出しの途中だ。早く帰らないと買った肉が傷んでしまう。道の隅に投げ出した籠の無事を確認し、伏せている体を起き上がらせた時、足の先に紙切れが落ちているのを発見した。場所的にも、先程の大教会の男が落としていったのだろう。
リアはそれを拾い上げる。元はもっと大きな紙だったようだが、斜めに破れて手のひらに収まる大きさだった。
「ラフィリアへの祈り……?」
――親指を地面に立て、ゆっくり円を描くように祈ります。
その一文がかろうじて残っていた。
どうして、こんな地上人であれば誰でも知っているような内容の紙切れを持っていたのだろうか、とリアは首をひねる。
しかし、無意識にその紙を裏返したところで、リアは驚愕に息を呑んだ。
そこには『フランシス・オルコット』と記名があったのだ。
その瞬間、リアの頭である可能性が繋がった。
フランと地底で会った日、書類を探していると言った。それには不思議な力があって、紙切れだけれども大教会は重要視していると。
恐らくそれが、これだと確信した。
根拠はしっかりある。ラフィリアがかつて言っていたのだ。五百年前に奇跡の力を授けた最初の人、その名前がフランシス・オルコットだと。
それにこの紙の筆跡はフランとは違う。フランより
突然の進展にリアの気持ちは
買い物籠の中にしまい、一旦地上の詮索は止めて目の前を生きる。はやる足は娼館への義務感か、未来への希望か、今のリアには判別できなかった。
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