第42話 平和条約締結2
平和条約締結の話し合いが行われるのは大教会の中心、大聖堂の奥だろう。一般の人は立ち入ることができないその場所には、会談用の部屋がある。リアは自らを連れ立つ男の足取りで、そう推察した。
リアを置いていこうとしているかのように身勝手な早足で進む男の数歩後ろを、用心深くついていく。
研究棟区画を抜け、大聖堂前の回廊に出ても人が極端に少ない。今日は大切な会合が予定されているので、大教会への立ち入りを制限しているのだ。
いつもと違う物々しさにリアは生唾を飲み込む。朝から穏やかではなかったが、開始時間が近づき、ひりついた空気を肌で感じれば、胸の中がもやもやと落ち着きを無くす。
それでもリアに立ち止まるという道はない。それを選んだとしても、前を行く黒服の男が引きずって会場に連れて行くだろう。モグラのリアにはわがままなど、爪の先も許されていない。強がりかもしれないが、せめて堂々と自分の足で立って今日という日を終わらせたいと、それだけの信念で歩調を乱すことはしない。
近づく大聖堂の大きな扉の横に人が立っていた。それはリアにとって、とても懐かしく、それでいて意外な人物だった。
前を行く黒服が速度を落とし、背中でリアを隠すような動きをしたのは急だった。壁際に立つその人にリアの姿が見えないよう、意図的に立ちふさがっている。
「もう時間になります。次期
強めの口調で
「あ、ああ……少し緊張してしまって。外の空気を吸ってからすぐ戻る」
早口になっている言葉は、取ってつけた出まかせのようだった。ゆっくりと足を踏み出し、リアをその目に焼き付けるように、歩きざま視線をくれる。土色の虹彩は愛おしむような、後悔のような、そして悲しみのような複雑な感情を宿していた。
ほんの一秒か二秒だったが、それだけで充分だった。兄は自分に会いに来たのではないかと、期待が膨らんだ。何か言いたい事があるのだと。しかし、身分が身分なのでどうにもできないのだ。
とても優しく、いつもリアを後ろで見守ってくれていた温かい兄を思い出す。気が弱い人だった。きっと今の行動も、相当勇気を振り絞ったに違いない。回廊から外れ、綺麗に整備された庭の木々の間へと足早に消える兄の背中を名残惜しく見送る。
もしも今、リアとここへ来たのが得体の知れない黒服の男ではなくフランだったら、気兼ねなく話す時間をくれただろう。それだけが悔しい。
それでも、
いつまでも中庭を眺めるリアに苛立ったのか、狂ってしまった時間を戻すように黒服は大聖堂内に一人入っていく。わざわざ機嫌を損ねる必要は無いので、間を置かずリアも扉をくぐった。
相変わらず天井近くの窓からは光が降り注ぐ。入口から真っ直ぐ伸びる通路は、
重厚な鎧を着こんだ兵が二人、扉の前で待ち構えていた。リアを連れた黒服を確認すると、ゆっくり中へ誘う。
まず黒服が入り、リアは臆することなくそれに続く。
広々とした室内には、清潔な白いクロスがかけられた大きな
像を背にするように配置されているのは、一つだけ特別豪華な椅子だ。そこが国主の席だというのは一目瞭然。その向かって右に、国主の妻であり、リアの母が目を伏せて座っている。国主の左には昨日初対面した、印象最悪のオルコット騎士長が式典用の濃い紅色の服を
リアは自分の席はどこかと、ここまで嫌々ながら案内をしてくれた黒服にそれとなく目配せをした。するとせせら笑いを返され、入口から右側の壁際へ追い立てるように迫られる。後ろ向きに歩かされ、とうとう壁に腕が触れた。
「貴様らのような
吐き捨て、凄んでから、さっさと出て行ってしまった。
まさかの席が用意されていないとは、怒りや悲しみを通り越し笑いがこみ上げてくる。こちらから出席をお願いしたわけではないのに、何という仕打ちだろう。
嫌がらせもここまで徹底していると、いっそ清々しい。気を落ち着けて円卓の様子を観察すれば、そこは平等とはほど遠かった。
その他は国主ほどではないにしろ、貴族の館に置いてありそうな、重厚感があり鈍い金色の値の張りそうな品物。
この場でこの差別。これからここで地上と地底の平和条約を結ぶとは到底思えない
――世界なんて、どうせ変わらない。
壁に背を預け、自分の所存など一滴たりとも反映されないであろう話し合いが始まるのを待つ。
早く国主と主様がやって来て話をつけてくれないかと、リアは首を横へ向け、来客の目を楽しめるために絵画のような彫刻を施した扉だけを瞳に映す。そうでもしていないと、この室内にいる実の母をはじめとし、数人の兵たちからぶつけられる
音もなく開いた扉がリアの期待値を上げるが、入って来たのは兄だった。リアと同じ茶色の髪は巻き毛で、土色の瞳は壁にもたれて立つリアの存在を一瞬だけ確認してから俯いてしまった。
そのままそそくさと席に着く様子から、リアの席が用意されていないことを事前に知っていたのだと想像に難くない。
気の弱さゆえ、他の者がいるこの場でリアに話しかける勇気などなく、結果的に素通りという形になったのだろうと結論付けた。
昔から変わっていない頼りない兄が懐かしさを運び、リアを取り囲む針のような
居心地が悪そうに、小さくなりながら腰掛ける兄を眺めてから数秒しか経たぬうち、今度は大きく扉が開かれ、芯を通したように背筋が伸びた国主が恐怖すら与える険しい顔で一歩、室内に風を吹き込んだ。席についていた者は立ち上がり、兵たちはすかさず頭を下げ、この場を張り詰めたものへと、あっという間に
問題は、一番最後に扉をくぐったフランだった。すぐにリアの状況を目ざとく見つけ、こちらに駆け寄ろうと強く足を踏み出す。それを近くにいた背の高い兵が取り押さえたのは、決まりごとのようだった。リアに詳細は聞こえなかったが、短い言葉のやり取りが三回ほどあったようだ。雰囲気からして、早く席に着くよう言い放つ兵に、フランがリアの扱いについて文句を述べたのだと思う。自分に都合が良すぎるのかも知れないが、そうであって欲しいと、リアは痛む胸の前で手を握り締めた。
国主の手前、フランは大きな行動はせず、渋々といった歩みの鈍さで主様とオルコット騎士長の間にある最後の席を埋めた。
これにて円卓はすべての出席者を迎え、一人一人に威圧を与えるかの如く、国主はそれぞれに数秒ずつ視線を刻みつけてから
「一同、本日は歴史に残る一日となるであろう。地上と地底、今後の更なる発展のため、手を取り合う第一歩を共に踏み出そう」
宣言が終われば、我先にと兵から割れんばかりの拍手が送られる。
それを皮切りに話し合いは開始された。
意見を出し合うのは九割が国主と主様だ。ごくまれに国主の妻である母、そして兄が同意の声を上げ、オルコット騎士長が国主を
そんな中、リアとフランだけは、まるでここに存在していないかのように、完全に
しばし休憩のような少しだけ緩んだ空気が流れ、会話が止む。この会は、決定事項を書き出した書面に国主と主様が署名をして締められる。まったく出番の訪れなかった協議に、リアはある一つの仮説に行きついてしまい、一人不安を背負う。リアとフランがここに呼ばれた理由、それが話し合いのためではなかったとしたら。この後に控えるのは親睦を兼ねた昼食だ。でもきっとそれではない、食事会の後か、はたまた前なのか、リアたち二人が必要な何かがあるのではないか。そのヒントを少しでも探ろうと、研ぎ澄ませた意識を隅から隅まで巡らせる。
その途中、辺りを鋭く観察するフランの視線とかち合った。どうやら彼もリアと似たようなことを思い描いているようだ。注意して、と強い光を灯す瞳は語っている。
この集まりの本質をどうにか見極めようとするが、圧倒的に時間が足りない。すぐに兵が紙とペンを持ち、静かに入室した。
書きやすいように机に置かれる真っ白い上質な紙に、国主は羽ペンを走らせる。
『地上と地底を繋ぐ階段の規制を緩和する』
『地底に女神、光のラフィリアを正しく広めるために地上から大教会の者を
大きく分けてこの二つだった。
ラフィリアを崇拝することによって地上と地底の差が埋まり、皆ラフィリアの下に生き、根付いてしまった地上と地底の差別を段階的に無くしていこうとの試みだ。
階段の規制も緩くして、モグラも地上でラフィリアを拝むことができるようにする。
それが本当に実現すれば、長い道のりにはなるが、今よりも生きやすい世界になるだろう。
国主がサインを終え、ペンをスタンドに戻せば控えていた兵がすぐさま紙と共に引き上げ、下座に座る主様の元へ持っていく。机上に広げられた一枚の誓約書。これに主様がサインをすれば、今日一番の行事は終わる。
形だけでも、これで地上と地底はいがみ合いから解放されるのだ。課題は山積みだが、五百年間のしがらみに一応の決着は着く。
リアを含め、その場の皆が長年地底を仕切ってきた主の動向を注視する。主様は手を膝に置いたまま、動かない。
一秒ごとに静けさは動揺にうねる。
主様はペンを手に取る気配が一切ない。主様の斜め後ろに控える兵がしびれを切らし、耳元へ顔を持っていき発破をかけた。
それでも主様は一言も発しなければ、手も動かさない。最後の最後で暗雲が立ち込める。息を呑む気配、苛立ちがそこかしこから、のろしのように上がる。
兵が脅しのような眼光を持ってして、今一度身をかがめた。そこで、主様は
この場全員の注目を受けたまま、薄く広がる揺らぎを切り裂いたのは馬鹿にするような笑いだった。
「人間ごときが調子に乗って」
軋む椅子にもたれ、鼻で笑う姿にくぎ付けになる。一言で室内が凍りついた。すぐに
部屋のいたる場所に控える全員が、一斉に剣の柄に手をかけ色めき立つ。
「貴様……今何と言った」
サインをするように促していた兵が剣を抜き放ち、主様の首筋に突き付けた。
仲裁に入る事もできず、リアは棒立ちで息を潜める。ここで何か行動を起こしたら、モグラであるリアは十中八九、とばっちりを受けるだろう。
次に誰が何をするのか、閉じられた室内に様々な思惑が充満する。
主様は明らかな劣勢にもかかわらず、口元に微笑を浮かべていた。それの意図するところを探そうとしたところで、主様の後ろにある豪華な出入り口が勢いよく内側へ開いた。
一斉に視線がそちらへ集まる。リアも反射的に顔を向け、危うく
戸口に堂々と佇んでいるのは、
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