第39話 地上の冷たさ

 地上と地底の平和条約を結ぶ日が刻一刻と迫るが、日々の営みは昨日と変わらずやって来る。朝が来れば人々が大教会に集い、祈りや朗らかな談話がどこからか風に乗る。穏やかな日が、今日もまた始まった。


 午前中の早い時間に、夜を越え澄んだ空気を吸いながらリアとフランはスコーンを買うため町のパン屋へ行先を決め、大教会内を出入り口の門に向かっていた。

 まだ人は少なく、リアを好奇の目で無遠慮に射止める回数が減って気が楽だ。どうやら大教会の腫物であるフランと共にいるモグラ、というかなり特殊な肩書きは人々の興味を大いにそそるらしく、あからさまにこちらを指さしながら、ひそひそと話し出すなんてことも度々あり辟易へきえきする。リアもフランも悪い事など何もしていないのに、人が面白おかしく脚色する噂話に使われ、釈然としないもどかしさを抱えているが、フランはどこ吹く風だ。


 昼ご飯は何が良いか聞かれ、パスタ、と一言答えただけでそれを目撃した者はありもしない会話を想像し、でっち上げ広める。はっきり言って居心地が悪すぎる。フランの住居である研究棟最奥の塔以外は心休まる場所など地上には無い。

 町に出てさえしまえば事情を知る者は雑踏に紛れ、誰も気には留めない。早くこんな息の詰まる場所を後にしたくて極端に口数を減らし、急く足に後れを取らぬよう上半身を前のめりにする。

 フランもそんなリアの心中を察しているらしく、不必要に喋りかけてはこない。大聖堂前の回廊に差し掛かると、庭の木々の間に外界と繋がる門がちらつく。そこは開け放たれていて、信仰心の深い国民を受け入れている。苦痛の終わりが見え、知らずに力の入っていた頬の筋肉が緩んだのと同時に、後ろから知らない声に呼び止められた。


「ラフィリア様を冒涜ぼうとくする罰当たりな二人組が、最近仲良くしているらしいな」


 露骨に嫌味を言ってくるなんて珍しい。芝居がかった棘のある言い回しに足を止め、声の主を振り返るが、やはり知らない顔だった。見下すように口の端を吊り上げる姿は意地悪く歪み、元の精悍せいかんさを台無しにしていた。その男は鍛え抜かれた肉体をしていて、無駄なく筋肉が付いている。それは一朝一夕で身に付くものではなく、長い年月をかけ血の滲むような努力をし、今も続けている者の体だ。ぴっしり伸びた背筋と、腰に差した長剣からするに、国主を守る兵の、それも割と上の地位にいるのではないかと感じさせるだけの威厳を放っていた。


「ごきげんよう、オルコット騎士長。本日も随分と口がお元気そうでなによりです」


 リアがたじろいでいると、一歩前に出たのはフランだった。人が変わったのかと疑いたくなるほど固く攻撃的な振る舞いに、三度見してしまった。その目は敵意をありありと滲ませ、言い逃れできないほどに鋭利な刃物のようだ。美形なのも手伝って、かなり迫力があり怖い。いつも豆腐のように柔らかい表情をし、それを潰すような実体のないふわふわした雰囲気をばらまいているというのに、今のフランは明らかにムッとした、媚びへつらう意思のない顔つきをしている。こんなにも感情を表に出せる人だったんだ、と場違いな感心をしてしまった。


 周囲の空気が一気に緊張し、リアにはそこに一石を投じるなんて真似はできず、成り行きをただ享受するしかない。

 一歩も引かず、にらみ合う両者を、息をひそめてリアは見比べる。そういえばフランが前に、現騎士長はオルコット家出身だと言っていたことを思い出した。恐らく年齢は二十代後半か三十代前半くらいだろうか。フランとそう年は変わらなそうだ。彼の兄だろうかとじっくり観察してみるが、あまり顔は似ていない。明るい茶髪をし、目は切れ長で深い森を彷彿ほうふつとさせる深緑の瞳に侮蔑ぶべつの色を濃くしている。先日会ったフランの両親を頭の片隅から掘り起こし、騎士長は父親似でフランは母親似なのだろうと結論に至ったところで、騎士長がこちらを睥睨へいげいし、皮肉をたっぷり降らせた。


「平和条約締結の重要な会議に呼ばれたそうだな。まったく……モグラの主とやらは何を考えているのか。蛮族ばんぞくの思考回路はわからんな」

「やだなぁ、モグラの主もオルコット騎士長には蛮族などと言われたくはないでしょう。僕たちを罵るためだけに足を止める下衆げすな性格、矯正してから出直しては?」


 これ見よがしに鼻で笑いながら飛び出たのは十割悪意を込めたもので、初めて見るそんなフランを前に取りなす事もできず、繰り広げられる劇をたしなむ観客のように傍観に徹する。

 フランの売り言葉に、騎士長は爆発的な怒気を広げた。


「俺はラフィリア様と、それを心より慕う国主様に仕える者。貴様らのようなラフィリア様の御心を踏みにじる信仰心の無い者よ、恥を知れ!」


 騎士長は洗練された素早さでフランの左手首を掴む。その体格差は歴然としていて、筋肉質で大きな手はフランの腕を折れんばかりに握り締める。止めないと、とリアが手を上げかけたところで、ふと鋭い風が吹き抜けた。


「……っ!」


 耳に入ったのはフランの小さな呻きだった。何事かと目を凝らせば、握られている手首の少し上の袖が切り裂かれ、黒い衣服が内側から湿っていく。

 この騎士長は、無抵抗だったフランを奇跡の力で傷つけたのだ。

 一瞬で頭に血が上った。いくら何でもこれはやりすぎだ。


「やめてください!」


 毅然とした態度で、フランを捕らえる手を引きはがそうと力を込める。男の鍛え抜かれた肉体に太刀打ちできるとはつゆほども思っていない。明らかに劣勢だ。しかし、何もしないで見過ごしはしたくなかった。


「貴様……モグラの分際で俺に触るな!」


 あっけなく降り払われ、たたらを踏むリアに騎士長は額に青筋を立て、手を翳した。風がリアの頬を撫でる。次は自分が攻撃される、と身を固くしたその眼前を、フランの右腕が騎士長の手を遮るように上から下へ通り過ぎていった。途端、周りを渦巻いていた風が凪いだ。


「僕とあなたなら兄弟げんかで済みますが、この子は関係ありません。無関係な人を巻き込むなら僕も容赦はしませんよ」


 忠告めいた宣言は滑舌良く騎士長に刻まれた。晴れた空から降り注ぐ光に包まれた回廊に不釣り合いな二人の熱がくすぶる。傷つけられたにもかかわらず、冷徹なフランの濃紺の瞳が怯むことなく果敢に格上の相手を牽制けんせいする。

 騎士長は舌打ちを残して踵を返した。大股にもかかわらず体の軸がぶれない背中が遠ざかり、室内へ繋がる扉の向こうに消えたところでようやく張り詰めていた意識は自由になった。


「フランっ、大丈夫!?」

「ああ……大丈夫、大丈夫……」


 騎士長を前にした時とは打って変わり、海の中を漂う海藻のようなゆらゆらした気の抜ける返事を寄こした。血が滲む傷口を隠すように反対の手で恐々こわごわと覆っている。


「癒しの力で治した方が良いんじゃないの?」

「いいんだ。あまり力は使いたくないから」

「じゃあ医務室に行きましょ」


 リアは元来た研究棟に早くも半身を向けてフランを促す。大教会には専用の医務室があり、常に医者が常駐しているので怪我や病気をしたらまずそこへ行く。リアも昔はここにいる医者の世話になった。


「大丈夫だから、買い物に行こう」

「大丈夫じゃないでしょ!? 服切れてるし結構血が出てるし、そんな状態で買い物なんて行けないし! せめて消毒だけでもしないと」


 渋り、リアとは反対側に気持ちと体を傾けるフランの、怪我をしていない腕を自分の意のままに力ずくで引っ張る。医務室の場所は今いる回廊から研究棟内の建物に入ったすぐ脇にあるので、フランが本格的に拒否する前に着いてしまう。


「待ってよ、僕痛いのは嫌いなんだ」

「はぁ!? 誰だってそうでしょ? 子供みたいな事言わないの!」


 入口の前でちょっとした押し問答があったものの、リアは『医務室』と札のかかった扉を開けた。まず薬品の独特の香りが鼻腔をくすぐり、その一拍後には近くにいた職員や患者の困惑した視線が突き刺さった。


 目の前の開けたロビーには診察を待つための椅子が並べられ、その奥には処置室が二部屋ある。

 広くはないが、今ここには総勢十名ほどの人がいて、皆が突然現れた厄介者の動向を音の萎えた室内で一挙一動まで追おうと手を止め、くぎ付けになっている。

 いったい何の用だ、早く出ていけといった白い視線が四方から注がれ、気分は良くない。


 恰幅がいい妙齢の女性職員が、足音をわざと大きくし、威嚇するように近づく。こちらは怪我人だというのに、その仕打ちはあんまりだ。

 幼い頃リアがここへふざけて遊びに来た際に、仕方なし、と困ったように笑いながら対応してくれた温かい記憶が崩れ去る。その優しさは自分にとって都合の良い人にだけだったのだと知り、リアはとてつもない怒りと、それと同じくらいの悲しみに身が引き裂かれそうだ。

 女性が何か言おうとして口の形が変わった瞬間、リアはそれを遮るように声を上げた。


「この人、怪我をしているの。ここは大教会の関係者であれば誰でも利用できるはず。今忙しいのであれば私が手当てをするから、消毒できるものを持ってきて!」


 きつい口調になってしまったが後悔はない。それ相応の態度を取られているのだから当然だ。絶対に引き下がらない、といった剣幕のリアを前に、職員は舌先の言葉を飲み込んだ。代わりに、お待ちくださいと残し足早に奥の処置室に消える。再びその扉が開くまではそうかからず、小さな麻袋を差し出された。

 その顔はさっさと出ていけ、と如実に語っていたがあえて空気は読まず、リアはロビーの右手側にフランを引いた。そこは細長い廊下になっていて、患者が静養するための個室が十室ほど連なっている。その一室に手をかけた。


「少し借りますから」


 返事を待たずにフランを中に押し込め、強めに扉を閉めた。

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