第10話 大教会の視察団2
大教会の視察団が地底に降り立った次の日、リアは朝早くから仕事に出る準備をしていた。
今の時間は六時。いつもであれば起き出す時間だが、もう朝食まで済ませてしまっている。
昨日は朝から地底各地で視察団をもてなすために、様々な飾り付けがなされ、朝から晩までお祭り騒ぎだった。大教会は表面上、友好的な声明を出しているが、本心は奇跡の力を持ったクラリスを何とかして地上側へ引き入れたいのだと、モグラたちの大半は冷めた目で見ている。しかし、
「あら、リア。今日は早いのね」
起き出して来たジャネットは、親愛のこもった温かさを持って食卓に腰掛けた。
「おはようございます、ジャネットさん。……昨日、視察団の接待役になったルーディが気になって……」
子供のような理由に恥ずかしさを覚えるが、育ての親に対して素直に理由を口にした。ばつの悪そうなリアを前にジャネットはからかう事などせず、リアの気持ちを優しく包み込む。
「そうだね。早く行ってあげないとね」
「はいっ! 朝食、ゆっくり味わってください!」
自分の分と共に作った朝食は、目玉焼きの横に少量の葉物を乗せた簡素なものだ。あとは硬いパンしかない。
裕福ではないジャネットとリアは、何とか毎日これで食いつないでいる。
「ああそうだ、リア。今日は発光石の買い付けに行くから、午前は家を空けるよ」
「わかりました。気を付けて行ってきてくださいね」
発光石を入れた籠を手に玄関扉を開いた。振り返ってジャネットに軽く手を振れば、同じように返してくれて、心地よく送り出してくれる。
扉が閉まるのと同時に、娼館サンフラワーへとはやる気持ちを抑えきれず、風を切る。
何もないはずだと自分に言い聞かせるが、耳元で踊る髪は静まらない。
娼館サンフラワー周辺のカンテラは昨日全ての発光石を替えたばかりで、まだ
いつもなら初めに一通り外の確認をしてから店内に入るのだが、今日は到着した勢いのまま両開きの扉を引いた。
様々な香水が混ざり合う独特の匂いも今回は気にならない。もつれそうになる足で室内へと飛び入れば、目の前に広がる光景に血の気が引いた。
数日前に笑い合っていたソファでルーディが顔を覆い、声を上げて泣いているのだ。その隣には思いつめたように目を伏せる娼婦が背中をさすっていた。
「……ルーディ……」
視察団の接待で何かがあった。
それだけが一瞬にしてリアの体温を冷ましていく。
ルーディとの付き合いは十年になるが、涙を流す姿を見たのはこれが初めてで、激しい衝撃が頭から足の先へと駆け抜けた。
名を呼ぶ声が震え、それ以上は舌が動かなかった。
ルーディの横に座る娼婦が、立ち尽くすリアに近寄るよう促す。その顔は沈んでいて、良くない
「リア……」
顔を上げたルーディの目は真っ赤で、雫は止まる気配など少しも見せない。次から次へと頬を伝い、真っ赤なドレスの胸元は色を失うように黒く変わっていく。
「あたし……視察団に、連れていかれる事になったわ……」
泣き笑いで投げる言葉の最後は嗚咽で消えた。静かだが悲痛な
語られる内容があまりにも唐突で、これまで使っていたはずの言葉がすべて頭から消えてしまった。
吸う息と吐く息だけが規則正しく喉を通過する。
「友好の……証、ですって……あるじさまも、頑張ってこいと……。でも、きっといい扱いは、受けないわ……」
空気を欲し、
「いつ……いつ行くの……?」
やっと口から出たのは、か細くて心許なく、風音にかき消されてしまいそうなものだった。
「もうすぐよ……。視察団がこの後、地上へ帰るから、その時迎えが来るの……」
「そうなんだ……」
友を助けることも、
視察団や
ルーディは友であり恩人で、とても大切な人だ。しかし、涙の理由を解消するために何もできない。主様に
「今、リアが来てくれて良かったわ。あたしから会いに行く時間はなかったもの……。ちゃんとお別れができる」
「お別れなんて、そんな」
「今までありがとう。どうか、元気でいるのよ」
涙で揺れる瞳を細めて必死に笑顔を作るルーディ。こんな時まで気丈だから、リアは口先まで出かかった涙声を必死で飲み込んだ。
「ルーディも。また、絶対会おう」
一番辛いのは本人だ。だから、リアは軽々しく涙を流すことはできなかった。ただ、今の顔は懸命に笑おうとしているが、きっと眉は下り、口元は柔軟さを失い、見るに堪えないだろう。やせ我慢だとルーディには見通されてしまっているはずだ。
それから一言二言短いやり取りをしたが、内心では気が動転しているので何を話したのか覚えてない。
ルーディが言った通り、すぐに黒服の男三人が玄関扉を開けて親友を奪いに来た。サンフラワーの女将が男たちと話す様子を、部屋の隅に追いやられたリアはぼんやりと見つめていた。
女将は愛想よく受け答えをし、ルーディの背中を押す。
手が離れ、黒服に周りを囲われた。
両開きの扉が大きく開かれ、昨日替えたばかりのカンテラがルーディの横顔を照らす。俯き気味の美しい顔に表情はない。
黒服に遮られ、すぐにその姿は見えなくなった。女将が店の出入り口で深くお辞儀をする様子が、視覚を通じて脳へ伝達される。
長い時間微動だにしない女将。ルーディを連れた黒服たちが道の先へ消えるまでそうしているのだろう。
ルーディを追いかけたいが、肝心の足が動かない。それはルーディが連れて行かれるという事実を認めたくないからなのか。
やがて体を起こし、何事も無かったかのように奥へと消える女将を目で追いながらリアは無意識に口角を上げていた。辛い気持ちを誰にも悟られたくない強がりであるのは、リア自身気づいていなかった。
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