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増田朋美

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暑い日だった。何をいおうとしても暑い日だった。本当に暑い。まあ大暑の時期と言うこともあり、暑いのである。それは、当たり前のことでもあるけれど、同時に人間にとっては非常に過ごしにくいものである。冷房器具なしではただでさえそこに居るのは難しい。その上で、自分のしごととか、役目とか、そういうことをやって居るのだから、ある意味これだけでも、すごいことになるんだと思う。

その日も、ブッチャーが朝起きてみると、朝ごはんはとうにできていて、自分の分もちゃんと置いてあった。でも、そこには、姉である有希の姿はなくて、代わりにこんな手紙がテーブルの上に置いてあった。

「体調が悪いので、朝ごはんは食べてください。ご飯は炊飯器の中にあります。よろしくおねがいします。本当に申し訳ありません、有希。」

はあ、またこれか。多分きっと、朝のニュースで災害のことでもやっていたんだろう。ブッチャーが、勘定する以上に災害というものは日本中にある時代だから。ブッチャーは、姉を刺激してしまうと、また暴れ出すかもしれないと思ったが、でも様子を見たいと思ったので、有希の部屋に行った。

「姉ちゃん。俺だけど、一体どうしたんだよ。」

とりあえず、ドアを開けないでそう聞いてみる。やっぱり返事はなかった。

「とりあえず、何があったか聞かせてくれないかな?」

ここで大事なことは、体調が悪いということでおしまいにしてしまうのではなく、成文化させることであった。それが、出来るかできないかで、病気の重度もわかるという。たとえ辻褄があってないことをいったとしても、とにかく文章にさせる。それが、一番である。

「姉ちゃん、俺は別に、姉ちゃんのことを、仕事ができないダメなやつとか、そういう意味で来たわけじゃないんだ。それより、姉ちゃんがどうして、そうなったか知りたいだけだよ、何も敵意はないから、教えてもらえないかな。」

こういうふうに、患者に対して、敵意はない、自分は味方だとしっかり示しておくことも重要だった。

「薬が、まだ効いてないから、お話することはできないわ。」

「それなら、それでもいいよ。」

そういう答えが返ってきたので、ブッチャーは、そう答えた。

「じゃあ、もっと楽にしてもらうために、影浦先生に来てもらおう。俺は姉ちゃんを捨てるとか、そういうことは絶対しないから。ただ、姉ちゃんを楽にしてやりたいだけなんだ。それだけのことだ。それは俺にはできなくて、影浦先生にしかできないことだからさ。俺、今から電話して頼んでくる。そうすれば、姉ちゃんだって、楽になれる。そうだろう?だから俺、今頼んでくるよ。」

それが結果として、入院になったとしても、ブッチャーが出来ることはそれしか無いのだった。家族がやたらに手を入れることはしないで、すぐに専門家に引き渡すのが、家族の役目だ。家族というのは、患者さんにとって一番近くて一番遠い存在でもある。だから、重大なときのことは、専門家に来てもらうほうが一番安全である。こういうとき頼れるのは、今の時代には精神科しか無い。警察に来てもらうという考えを持つ人も居るが、世間体とか、そういうことを考えると、医者に来てもらっているようにしたほうが、安全であった。ブッチャーは、スマートフォンを出して、影浦医院に電話した。影浦先生も、そういう患者が出ることをちゃんと心得ていたから、わかりました、すぐ行きますよと言ってくれた。本当に、影浦先生のような医者が近くにいてくれることが、せめてもの救いだった。

数分後に、影浦先生がやってきた。ブッチャーから、姉の様子がおかしく、何があったか自分で説明できない状態であると説明を受けて、影浦先生は、

「有希さん。影浦です。もし、気持ちが不安ではなかったら、顔だけ見せてください。」

と、いつもと変わらない言い方で言った。できるだけ、平常時と変わらない言い方が出来るのは、やっぱりプロなんだなと思わせるところがあった。

「僕も、弟さんも、あなたのことを消してしまいたいと言っているわけでは無いんです。ただ、あなたがどうしてそうなってしまったか、理由を聞かせていただきたいだけなんですよ。」

「でも、本当は、私の事がいらないから、病院へ連れて行ってしまいたいと思っているのでしょう?」

患者は、自分が追い出されるとか、家から除外されるとか、そういうことに敏感になっている場合が多いので、ここを、どう対処するのかが腕の見せどころでもある。

「ええ、理由によってはそうなるかもしれませんね。でも、それは、決して、あなたが家の中で要らない存在になってしまったとか、そういうことではなく、あなたが、抱えている辛さを取り除くためにするのであって、追い出すという意味とは全く違います。誰にもわかってもらえないのでは、やはり寂しいでしょう。それは、お辛いでしょうし、あなたが悪いのでもありません。それは、れっきとした病気なのであって、あなたが悪いということとは全く違います。そして、もう一度いいますが、病気であるということは、薬などで改善が可能だということです。だから、病院に行くのであって、あなたがこの家で不要になったからどうのということではないことを、ご理解いただきたく。」

と、影浦は言った。こんなことは、家族であれば絶対に言えないことである。そういうふうに、大事なことを伝えるのは、餅は餅屋だなあとブッチャーは思うのであった。

「じゃあ、有希さん、一度だけでいいですから、顔だけ見せていただけませんか?僕達は、はやりの引き出し屋とか、そういうものでは全く違います。ただ、有希さんがつらい思いをしているのが、僕達も辛いのです。それだけのことですから、大丈夫です。顔だけ見せてください。」

口がうまいというか、こういうのも、言葉の力なのだろう。言葉は不完全だというが、少なくとも、それが上手い人と、下手な人がいて、それの旨さ下手さで、役目が違ってくるんだなとブッチャーは思った。ぎいと音を立てて、有希の部屋のドアが開いた。そして、髪はボサボサで、寝間着姿のままの有希がそこに現れた。一見すると、どこかの女郎みたいだった。

「いらしてくださって、ありがとうございます。有希さん。」

影浦は、ドアが開くとすぐに有希の部屋に入った。ブッチャーが、ドアをすぐに閉める。

「一体どんなふうにあなたは調子が悪いのでしょうか?なにか、声が聞こえてきましたか?それとも、なにか怪しい人影が見えますか?」

「どちらでもありません。」

影浦に言われて有希は正直に答えた。

「ただ、怖かっただけです。」

「わかりました。その怖かった、きっかけは何でしょう?本を読みましたか?それか、テレビを見てそうなりましたか?それともSNSとかそういうものを見て、怖くなりましたか?」

この聞き方も、何という聞き方をするのではなく、患者さんに選ばせる聞き方をする。何という言い方は、患者さんをより混乱させることになる。

「はい。ただ、SNSを見ました。そこには、雨がすごく降って、土砂崩れが起きている映像が投稿されていました。だから、怖くなったんです。」

何だ、そんなことかとブッチャーは思ったが、有希にとっては、非常な恐怖でもあるわけであるから、影浦先生は、それを言わせなかった。

「わかりました。確かに、皆さん、自分のことしか考えないで、ときに無責任な情報を発信しますからね。かといって、SNSは重大なコミュニケーション手段ということもあり、辞めるわけには行かないでしょう。それは、非常に困りますよね。気にするなと言っても、怖いものは怖いですから、それをむやみに言うことも辞めて置きましょう。」

影浦の言い方は、そういうものであったが、別の解釈もできるのであった。

「強くなれとか、そういうことはいいません。無理して、そうなろうとして、かえって悪化させてしまったら、いけませんもの。まずはじめは、嵐が過ぎ去るのをここで待ちましょう。一人ぼっちではありません。あなたには弟さんもおられます。しばらく、僕達は、ここにいますから、なんでも出来ることをしてください。パソコンで小説を書くのでもいいです。なんでもいいです。僕達は、ここでずっと待っています。お辛いようでしたら、安定剤を打つこともできます。遠慮なく仰ってくだされば。」

影浦がそう言うと、有希は初めて安定剤をうちたいと言った。影浦先生は、わかりましたと言って、彼女にそれを打った。そうすると、猛烈に眠くなってくるのであるが、それがいいのだ。そうしてもらって有希が、楽になってくれるのであれば、過大に恐れる必要はなく、やってもらったほうがいい。注射を打たれた有希は布団に入りたいと言った。影浦がどうぞというと、有希は静かに眠りだしたのであった。

「ありがとうございました。俺、どうしたらいいのかわからなくて、困ってしまいましたよ。」

ブッチャーがそう言うと、

「いえ、大丈夫です。そのための医者ですから。有希さんがこれからも不安定な様子を見せるような事がありましたら、いつでも電話くれて大丈夫ですからね。」

影浦先生は、静かに言った。

「ああ、ありがとうございます。」

「いいんですよ。それより、あなたも、自分のことを大切にしてくださいね。お姉さんのことを心配し過ぎて、自分まで壊れてしまったら行けないですよ。」

ブッチャーがそう言うと、影浦はにこやかに笑っていった。

「はい。大丈夫です。俺は、俺でちゃんと、やることもあるし。でも、姉ちゃんがおかしくなったら、俺が困るから、今回は影浦先生を呼び出しただけのことで。」

「ええ、その程度の理由にしてくれれば一番です。」

ブッチャーは、帰り支度をしている影浦先生に、そう言われて、ちょっと照れくさいなと思ったのであった。有希さんが目を覚まされたら、飲ませてあげてくださいと言って、影浦先生は処方箋を書いた。ブッチャーは、ありがとうと言って受け取った。

「でも有希さんは、薬もちゃんと飲んでくださるからいいですね。中には、自分が病気であることを認めてくれない人も大勢いますからね。自分がただしいと主張する人もいて。そうなると、こちらも大変ですから。自分が病気であって苦しいと自覚してくださる患者さんのほうが、ホント、少ないですよ。」

影浦は、苦笑いした。ブッチャーはこれは意外だなあと思う。みんな苦しいと思っているほどでも無いということだろうか?それともまた別のことだろうか?

影浦先生を送り出して、その日は、ブッチャーも有希が心配だったから、一日家にいたが、そのブッチャーを褒める人物は誰もいないのだった。でも、ブッチャーは、有希の事が心配だったから、そのままでいた。姉を放置してしまうのは、なんだかいけないことのような気がした。

翌日は有希はすっかり元気になって、その日は、ちゃんと出かけるとかいい出したから、ブッチャーは、わかったとだけ言って、彼女がでかけていくのを見送った。もちろん、車の免許もない有希が行ける場所は限られている。でも、それでも、有希が出かけられる場所がある、世の中であって良かったと思うのだ。

昨日ニュース番組を見られなかったので、ブッチャーはテレビのスイッチを入れた。こう書くと、当たり前の事のように思われるが、実は、有希のような人物を抱えている家庭では、非常に難しいことでもあった。テレビのスイッチを入れようとして口論になったことはいくらでもある。テレビのスイッチを入れると、テレビはちょうどニュースを報道していた。昨日ニュースを見ていなくても、報道されることは毎回違っている。それほど、目まぐるしく世の中が変わっているのだろう。円高とか、インフレーションだとか、ブッチャーのような素人にはよくわからない経済情報が伝えられたあと、このようなニュースが入ってきて、ブッチャーはびっくりする。

「昨日、静岡県富士宮市で、一人娘の35歳の女性を刺殺したとして、母親が逮捕されました。この事件は、昨日、娘を刺したということで、母親が自ら通報したことで発覚したもので、殺害されたのは、35歳の無職、白岡美奈子さんです。逮捕されたのは、白岡さんの実母で、パート主婦の、白岡秀子容疑者で、本人の供述によりますと、美奈子さんが、これ以上生きていても仕方ないと口にしたため、そのとおりにしたということです。」

何ということだ。ブッチャーは、テレビを消したくなったが、ある考えが湧いた。姉が、あのときおかしくなったのは、災害の報道ではなく、このニュースを見たからではないだろうか。他の局でもニュースをやっている時間だったので、急いで別の局のニュース番組を見てみたが、災害らしい報道は一つもなかった。それに、災害が起きたのならもっとテレビや新聞が騒ぐはずなのに、そのような記事はどこにも載っていない。ということは姉は間違いなく、この事件のことで気持ちが動転してしまっていたのだ。おそらく、自分で成文化させたときに、何を言ったらいいのかわからなくなってしまって、災害のことを引き合いに出したのだろう。

テレビでは、そのニュースのことを、偉い大学の教授だとかいう人が、8050問題の予兆だとか、そういうことを言っていた。そして、早く障害年金を取るとか、そういうことをしてほしいと呼びかけていた。それはたしかに必要なのかもしれないが、でも、姉に取っては非常なショックだったのではないだろうか、と、ブッチャーは思った。

不意に、玄関のインターフォンがなった。ブッチャーが宅配便でも来たのかなと思って、急いで玄関先に行ってみると、

「あの、こちらのお宅は、須藤聰さんのお宅で間違いありませんか?」

と、なんだか若い感じの女性が、そう言っているのが聞こえてきた。

「はい、須藤聰は俺ですが、俺になにか用事ですか?」

と、ブッチャーはインターフォン越しにそう言うと、

「あの、わたくし、テレビ朝日の記者で、鈴木と申します。あの失礼ですが、昨日、富士宮市で、殺人容疑で母親が逮捕された事件をご存知でしょうか?」

と、鈴木という女性は、ブッチャーに言った。

「はあ、それなら、テレビで見て知りましたが?」

ブッチャーがそう言うと、

「実は、その被害者である、白岡美奈子さんは、重度の精神障害を患っていたそうで、それでずっと自宅で過ごしていたそうです。時々、美奈子さんはひどいうつに陥り、それから逃れたくて、死にたいと口走っていたこともあったとか。」

と言い始めるので、ブッチャーは、外でこんなことを言っては行けないのではないかと思い、とりあえず、鈴木を中へ入らせた。そして、彼女を椅子に座らせて、急いでお茶を出した。鈴木は、報道官らしく、堂々とした態度でそれを受け取って、すぐにお茶を飲み干し、

「本題に入らせていただきます。白岡美奈子さんは、先程も申したとおり、自身の苦痛から逃れたくて、死にたいと口にしていたことが何度もあったそうです。それで、白岡秀子が、逆上して、彼女を台所の出刃包丁で刺したと言うのが事件の概要だそうです。失礼ですが、須藤さんも、お姉さんが、重度の精神障害を持っていらっしゃいますよね?確か、何度も暴れたり、泣いたりしたこともあったと、ご近所の方から伺いました。」

と、言い始めた。全く、報道官であれば、何でも聞けてしまうのか。ブッチャーは、それがとても嫌であった。

「はあ、そうですが、それと事件のことと、どんな関係があるんです?」

思わずブッチャーは聞いてしまう。

「ええ、本題はここからです。同じ精神障害を持っている患者さんのご家族として、今回の事件は、どう思われたか、そのお話をお伺いしたいのです。同じご家族として、お姉さんを、本当に殺してしまいたいような気持ちになったことはありますか?」

鈴木にそう言われてブッチャーは思わずハイと答えてしまいたくなったが、それは姉のことを思って、言わないで置くことにした。

「いいえ、ありません。」

それだけ言っておく。

「本当にそうでしょうか。お姉さんの気持ちがわからなくて、お姉さんに振り回されて、本当はお姉さんなんていなければいいのになと思ったことは何度もあるのでは?他の障害を持っている方のご家族にもお話をお伺いしましたが、皆さん一度や二度はそう思ったと仰っておられました。いいえと言ったのは須藤さん、あなただけですよ。」

鈴木に言われて、ブッチャーは、なんだかこの報道官、自分のことを馬鹿にしているのかなと思ったりもしたが、きっと結局は、精神障害のことを知らなすぎるんだと言うことを感じ取った。まあ確かに、精神障害について扱っている書籍も、テレビドラマも数少ない。取り上げられたとしても、大変な悪役だったり、人に迷惑を掛けるだめな人としか見なされていない。多分、この鈴木という人もそうなんだろうなと思ったブッチャーは、幸いって、鈴木の質問を退けた。

「俺は確かに、姉には振り回されましたし、困ったこともありました。ですが、いくら障害があろうと病気があろうと姉は、俺のたった一人の姉ですから、消えてほしいなんて思ったことはありません。俺は、そういう気持ちで姉に接して看病したことは一度もありません。」

「はあ、えーと、そうですか。」

鈴木は、ブッチャーの顔を見て呆れた顔で言った。

「それから、報道関係の方にお願いしたいのですが。」

ブッチャーはこんなお願いしても、通らないだろうなと思ったが、でもお願いしなければだめだと思ったので、言ったのだった。

「あの、こういう事件のことは、どうかできるだけ報道しないで貰えないでしょうか。そうなると、姉のような人が余計に悪人だという先入観を植え付けてしまうと困りますから。姉は確かに、俺達に迷惑を掛ける存在ではありますが、でも、俺達は姉のことを、殺してやるとか、消してしまいたいなどと思ったことは一度もありません!」


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