うのつく怨みを丑の日に

二石臼杵

丑の日のお礼参り

「土用の丑の日にはうなぎを食べるし」

 諸説あるが、そう言いだしたのは平賀源内というのが有力な説のようだ。

 ならば、平賀源内は最悪の事態を招いた大罪人ということになるのだろう。

 発端はやはり、今年の土用の丑の日に始まった。


 うなぎの養殖というのは思いのほか難儀かつ繊細なもので、令和となった今の時代でも成果は芳しくなかった。食べたいという需要に対して圧倒的に供給が追い付かず、絶滅の危惧が囁かれるばかり。

 しかしそこは愚かさと学習学習能力の低さに定評のある人類のこと。

 知識と理性で絶滅の危険性をわかっていながら見ないふりをして、欲望のままにうなぎを食べる手を緩めようとはしなかった。決して。

 うなぎの刺身が推奨されないのは、彼らの血には毒が含まれているからだ。

 うなぎを食べ続けるリスクは我々の体の中に少しずつ、けれども確実に積もり積もっていく。

 人間とはいつの世も後手に回るのが得意な生き物だ。

 熱が出てようやく自分が風邪だと自覚するほどの痛烈な鈍感さを備えている。

 だから今回も、気づいたときにはもう手遅れだった。





「なあ三島、もうひげが伸びてるぞ」


「さっき剃ったばかりなんですけどね。そういう先輩もまた爪が」


「ああ。切るとも。お前は剃ってくるといい」


「これでもう今日三度目ですかね。行ってきます」


 工場内の洗面所へと向かう三島を見送りながら、僕は近くの机の上にティッシュを一枚広げ、すっかり手放せなくなった爪切りをポケットから出した。ぱちんと切られた勢いで、まるで生きているかのように爪が飛び跳ねてティッシュペーパーの上に転がる。見ると確かにもう五ミリほどの長さになろうとしていた。

 なんだか気味が悪くなって、供養に似た気分で爪を捨てに行くと、工場内の共有ごみ箱の中は他の社員たちの処理された髪の毛などで溢れかえっていた。また捨てに行かねば。


「しかし、これじゃあ仕事どころじゃありませんよ」


 戻ってきた三島が疲れを濃く滲ませた顔で戻ってくる。

 マスクで隠れてはいるが、彼の顎はもう青くなろうとしていた。


「よりによって食品工場で毛やら爪やらはアウトだからなあ」


 食品製造業と異物混入はとにかく食い合わせが最悪だ。うなぎと梅干なんて比ではない。もっとも、うなぎと梅干の相性が悪いという科学根拠はないのだが。


「ニュースを見た感じ、どうもこんな風になっている人とならない人に別れているみたいですよ」


「伸びる者とそうでない者?」


「ええ。そしてどうやらうちの会社は全員前者のようで」


「なんでよりによって一番困る僕らが」


「今日の生産、かなり遅れてますもんねえ」


 遠目で確認すると、工場内で作られた段ボール箱の山はやはりいつもより小さい。段ボールの表面には印刷されたうなぎのイラストが「う」の字型になって泳いでいた。

 わが社の主流な商品は、レンジで温めるだけで味わえるうなぎのレトルト総菜だ。とくに今日のような土用の丑の日こそ最大の書き入れ時なのだが、今年は生産が追いつけるかどうか心許ない。

 いや、養殖法が確立してきたとはいえ、うなぎ自体が絶滅の危機に瀕しているのはもうずっと前からではあるんだ。そろそろ転職するべきだろうか。

 しかし、せっかくそれなりに責任のある立場にまで上げてもらい、こいつのような部下の面倒まで任されるようになったのだ。やはり、ここはまだ踏ん張りどころか。


「こんなふざけた現象に負けるわけにはいかないな。じゃんじゃん回すぞ、三島」


「ええ、作りましょう。余ったらまた今夜の晩飯が一品増えるんで、望むところっす」


 お前また在庫処分の商品を持って帰ってんのか、と呆れて三島の顔を見やり、直後、喉からかすれた声が出た。


「三島、お前、いくつだっけ」


「今年で二十六ですよ」


 そう答える三島の顔には、先ほどまで影も形もなかった深い皺が幾筋も刻み込まれている。衛生キャップの下からは真っ白な髪の毛が這い出ているし、マスクの隙間からは仙人と見紛うような立派なひげの房も伸びていた。

 どう見積もっても、八十代以上にしか見えない。

 こちらが続けて何か指摘するよりも早く、浦島太郎と化した部下はよろりと体勢を崩し、そのまま体を折るように床に倒れ込んだ。

 僕より年下のはずの三島は、一気に僕を追い抜いて、遥か彼方へと去ってしまった。

 どうやら今日の分の生産も、目標に全然追いつけなさそうだ。






「先輩、わかりましたよ。あいつらの仕業です」


 病室のベッドに伏した二十六歳の老人が、息も絶え絶えに枯れ果てた声で言う。

 いつ老衰死してもおかしくはない。それが三島に下された診断結果だった。


「あいつら?」


「うちの目玉商品です。うなぎですよ、うなぎ」


「うなぎがどうした。食いたいのか?」


「まさか。これ以上やつらを食べたら、どうなるかわかったもんじゃない」


 地獄を眺めてきたかのように笑う三島の様子に、手の中の缶コーヒーを握り締める力が強まる。缶はぞっとするほど冷たかった。


「俺のこの姿も、先輩が今コーヒーを飲めないのも、全部うなぎが原因だったってことです」


「……どういうことだ?」


 確かに僕は、缶コーヒーを持ったまま一滴も口に含めずにいる。絶えず伸び続ける爪が邪魔をしてプルタブが起こせないのだ。病院の自販機で買ったときにはまだそこまで伸びていなかったにも関わらず。


「どうもこうも、簡単な話じゃないですか。俺たち人間が食べまくったせいで、今やうなぎは種の存亡が危うくなっている。だから人間に一矢報いるべく、反撃しているんですよ。いや、復讐と言った方がいいのかも」


「待て待て。うなぎの呪いとでも言うつもりか? もしそうだとしても、なぜお前にそんなことがわかる。いいからもうゆっくり休め」


「休む? 冗談じゃない。今度休めば二度と目覚められなくなりますよ。俺が長くないことぐらい、見ればわかるでしょう?」


「それは……」


 見え透いた否定などできるはずもなかった。

 三島自身の見た目が、それを許さなかった。

 無言でうつむく僕を、すいぶん細くなった目で三島は見据える。


「だから、その前にすべて教えます。先輩、うなぎの養殖方法を知ってますか?」


「いや……」


「少しでも早く立派な商品へと成長させるために、うなぎは三ヶ月かけて四つの水槽に移し替えられます。それぞれの水温は四季に対応しているので、全部の水槽をぐるりと一巡するころには、うなぎは一年の季節を体感しているわけです。つまり、うなぎは三ヶ月を一年と勘違いして、手っ取り早く成長させられているんですよ。自分の意思に関係なく、不自然に加速した成長を」


「成長が、加速……? それって――」


「そう、俺たちの体にも同じ、いや、それ以上のことが起こってます。やつらの仕返しです」


 うなぎを加工する工場で何年も働いていながら、僕はうなぎのことをまるで知らなかった。その養殖法も、そして執念も。

 だが、気になる点はまだまだある。


「なあ、お前の言っていることが本当だとして――ああ、疑うわけじゃないが、どうしてお前はそんなことがわかったんだ?」


 三島は不思議そうな表情で一瞬こちらを見たあと、にたりと口を歪ませた。


「僕が倒れている間、うなぎの方から教えてくれたんですよ」


「うなぎの方から? どうやって、いや、そもそもなんで張本人がわざわざ人間に教える必要がある?」


「決まってるじゃないですか。標的に、自分がしてきたことを後悔させるため――復讐ってのは、そういうもんですよ。思い知らせてやらなきゃ意味がないし、気が済まないでしょ」


「そうか、言われてみれば、そういうものかもしれないな」


「はい。ところで先輩。最後に、僕の遺言だけでも聞いてくれませんか」


「遺言ってお前、縁起でも」


 ない、とまで言い終えることはできなかった。血走った三島の目に、光が宿っている。まるで何かが出てきそうな夜の闇に輝く、妖しい月のような光だった。


「やつらが何をしているのか、すべて教えます。だから、僕の仇を討ってくださいよぉ」


 抜け落ちて欠けていく歯を見せながら笑う三島の全身に、どす黒い執念が巻き付いている気配を感じる。


「目には目を、復讐には復讐です」


 目の前で三島が崩れていく。

 手の中の缶コーヒーに伸びすぎた爪が食い込む痛みだけが、この場で唯一の現実味を帯びていた。






 三島の葬儀には出席しなかった。

 それがあいつの遺志だったし、何より時間的にも体力的にもそんな暇はなかった。


「ひと仕事終えたあとのうな丼は最高だな」


 鼈甲べっこうのように褐色に光るたれをたっぷりまとったうなぎのかば焼きを箸で裂き、口に運ぶ。溢れ出す脂とたれの糖分が疲れた体によく染み渡った。

 爪はもう、異常に伸びてはいない。こうして箸も丼もちゃんと持てる。

 早すぎる寿命を迎えた部下を看取った直後、僕は自分の立場を最大限に利用して、とにかく工場の稼働率をがんがん上げた。

 際限なく伸び続ける爪や体毛も、意地と執念で処理し続けた。やらなければ、こっちがやられるのだ。ときには爪を剥ぐこともやむを得ないだろう。

 マスメディアに『局所的老化現象』と名付けられたうなぎの呪いは、今年の土用の丑の日を皮切りに始まり、まず全国のうなぎ屋の店主たちを引退させた。

 その次に狙われたのが僕たちだったというわけだ。

 うなぎの復讐は、より多くのうなぎの死に関わっている者から優先的に狙われる。

 うなぎ料理や加工製品を扱う職場で働く僕らはもちろん、うなぎを大量に食べたり食べさせたりする者も標的だ。三島は不運にも両者の条件をコンプリートしていた。

 強制的に成長させられる。なるほど確かに、やられる側としてはたまったもんじゃない。

 そのつらさは身を以て知る羽目になった。

 なぜうなぎたちが、このような尋常ならざる力を得て復讐を始めたのか。

 その原因もやはり人間の身から出た錆だった。

 異常な速さで成長させられたうなぎたちは、自然では成し得るはずのない進化を遂げていた。進化して発達した脳で自分たちの種を脅かす人間の思惑に気づき、明確な敵と見なし、報復を試みたのだ。

 彼らはすでに、他者の成長速度を早めるという超常的な能力も進化によって獲得していた。

 だが、最大の誤算があるとすれば、人間だって成長できるということか。

 一部の人間の中には、ただ為すすべなく老いるだけではなく、うなぎと同じ原理で能力が成長した者もいた。三島もその一人だった。だからこそ彼はうなぎたちの狙いにいち早く気づくことができたのだろう。

 三島の遺言はこうだ。


「うなぎを滅ぼしてください」


 今回の現象は死者の怨念とは違う。あくまで独自の進化を遂げた生身のうなぎたちの仕業に他ならない。今生きているうなぎさえいなくなれば、これ以上の被害を抑えることは可能なのだ。

 だからうなぎは絶滅させた。今僕が食べているのも、生産者特権で譲ってもらった、最後の方のわずかな生き残りだったうなぎのうちの一匹に過ぎない。

 人間の都合で生物を絶滅させることに異を唱える者。

 減少と高騰を繰り返すうなぎを買い占めて老いていく者。

 進化したうなぎを研究したいと申し出る者。

 世間ではさまざまな業の渦が巻き起こったが、知ったこっちゃない。こっちは命と部下の遺志がかかっているんだ。

 どうせみな食欲とうなぎの味には勝てないのだし、何より、これほど美味いうなぎ自身も悪いのだ。

 最後の一切れになったうなぎを口に放り込む。濃厚な、そして背徳的な甘辛さを噛み締める。勝利の味だった。

 ごちそうさまでした。

 長い付き合いの食材に、感謝と怨みを込めて手を合わせる。

 さて、これから大変だぞ。

 うなぎのレトルトが目玉商品だったうちの工場にはもう以前ほどの活気はない。

 だから、新しい就職先を根気よく探さねばならない。

 なに、たった今うなぎを食べて精をつけたばかりだ。

 きっと見つかるだろう。今度は、妙なやつに恨まれないような仕事がいい。

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