氷小倉白玉

精神感応4

氷小倉白玉

 七月二十三日、茹だるような暑さにねっとりと肌に絡みついてくる湿気の中、私は大学への道を歩いていた。昨日で春学期の授業は終わり、今日からはテスト期間だ。けれど、大学院生にはそんなものあってないようなもの。少し早めの夏休みの始まり、のはずだったのだが、大学に向かっている。


 連絡があったのは数日前。「秋の学会の招待状を封入する作業をします。お手隙であればお手伝いしてください」、今年から代わった愛想のいい研究室助手さんからメールが来た。断るわけにもいかないので、家で涼んでいたいところ、仕方なく熱風の吹くビルの間を歩いているのだ。


 「おーい!つめたいぞー!」

 「ホントだ―!きゃーっ!」


 耐え難い暑さの中、元気な声が聞こえてくる。そちらを見ると、教会の前の大きな噴水の中に小学生らしきが何人か入ってはしゃいでいた。子どもは元気だ。怒られそうなものだが天上の主は寛大なのか、窓から子供たちを見守る神父さんの表情は柔らかかった。


 大学に着くと、研究室棟の資料室に真っ直ぐ向かった。少し遅れてしまったせいで私以外の面子は既に揃っていた。


 「外は暑いよねー」


 汗だくの私を見て助手さんがエアコンの温度を少し下げてくれた。なんだか申し訳なかった。


 早速作業を始める。ここ数年、世界を悩ませている感染症がまた拡大を見せている。会話はご法度。黙々、黙々と作業を進める。シュッ……シャッ……キリキリキリ……。紙を折る音。封筒を開く音。テープのりの音だけが分厚い本で一杯の部屋に響く。手だけ動かしていれば仕事はすぐに終わるものだ。一時間もかからずにやることはなくなってしまった。


 「……うん、大丈夫!お疲れ様です!助かりました!それじゃあ、少ないけれどお給金です!外は暑いから、水分補給を忘れずに帰ってくださいね!」


 私たちの作業が終わったのを確認してから、助手さんは茶封筒を手渡してくれた。中にはささやかなバイト代が入っていた。


 貰うものは貰ったので帰ることにする。他の面子は昼食に行くらしいが、私は大して親しくない。また今度会おうとだけ約束して帰路に着く。


 ミーンミンミンミンミー!ミーンミンミンミンミー!


 夏の風物詩、蝉の声が耳を叩いてくる。何とも憎らしい声だ。行よりも熱く感じてしまう。このままでは死んでしまうのではないか。私は大げさにもそんなことを思う。そして、同時にあることを閃いた。今歩いている坂を少し上ると甘味処がある。少し値は張るが、味は一級品。そして、私がいま求めているはずのものがあるはずだ。鞄に突っ込んだ茶封筒の中身の使い道が決まった。


 早歩きで坂を上る。目的の店に立ち止まることなく飛び込んだ。勿論、手のアルコール消毒は忘れずに。


 「いらっしゃいませ!お二階のお好きな席へどうぞ!」


 店員さんのはきはきした案内に従って階段を上がる。冷房が効いた涼しいところにいるから彼女たちは元気なのだろう。そうに違いない。


 二階に上がるとテーブル席と座敷があった。ここは座敷しかあるまい。迷いなく、窓際の座布団の上に座った。座敷には私しかいない。今は貸し切りだ。


 「ご注文は何になさいますか?」


 給仕係の割烹着姿の店員さんがお茶を持ってきてくれた。それと、塩っ気の強い煎餅も。


 私は身体に熱が残っていて、甘味の名前を口に出す気力もなかった。お品書きの目当ての甘味を指さした。


 「はい、かしこまりました!」


 店員さんはさらさらと伝票を書くと厨房に姿を消した。


 扇子で仰ぎながら出してもらったお茶を啜る。何となしに外を眺めると、昼時だからか人がたくさん歩いていた。みんな一様に暑そうだ。私は涼しいところにいる。おかしな優越感が湧いてくる。


 『いらっしゃいませ!』


 下の階からまたはきはきした声が聞こえてきた。また、客が来たらしい。階段を昇る音が聞こえてくる。


 「テーブルと座敷どっちにする?」

 「折角だから座敷にしよう」

 「そうだねー」


 そんな会話をしながら女性が二人座敷に入ってきて、私の斜め前に座った。貸し切りの時間は終わりのようだ。


 ミーンミンミンミンミー!


 窓の外で風に揺れている柳の木から蝉の声が聞こえてくる。今の私は涼しい畳の上にいるのだ。さっきは憎らしかった声にも趣を感じる余裕がある。


 「はい、お待たせしました!氷小倉白玉ね!」


 店員さんが頼んだものを持ってきてくれた。銀嶺のような氷の上に少し不格好な粒あんの塊、麓には輝く白玉が六個。これが食べたかった。小倉白玉。シロップのかかった手軽なかき氷、流行りのフルーツをふんだんに使ったかき氷もいいが、私は小倉白玉だ。


 手を合わせてからスプーンを手に取る。きめ細やかな氷と餡子を掬い取って一口。まずは冷たさ、続けて優しい甘さがやって来た。ん-、たまらない。これが欲しかった。次につやつやの白玉をぱくり。もちもちな歯ごたえがたまらない。もう、私を止めるものはない。黙々とかき氷を食べ進める。


 しばらく食べていると斜め前から声が聞こえてきた。


 「すごい美味しそうに食べてるね」

 「本当……私たちも楽しみだね」


 女性たち二人の話声だ。今は彼女らと自分しかこの座敷にはいない。つまり、多分、私を見て言っているのだろう。囁き声なのがそれ以外にないと思わせる。私は恥ずかしくなってスプーンを置いて、お茶を啜った。


 丁度、そのタイミングで女性たちのかき氷が運ばれてきた。これで心置きなくかき氷が食べられる。私は再びスプーンを手にした。


 そこで、今度は男の声が聞こえてきた。座敷には人は増えていない。テーブル席の方から聞こえてくる。かなり大きな話し声だ。感染症も広まっているし、単純に声が大きい。姿は見えないが迷惑な奴だ。


 『マルクスっていう経済学者がいてね?共産主義をはじめた人なんだ』

 『へー、そーなんだー!物知りだね!』


 聞きかじった知識を自慢げに話しているのか、相槌の甘ったるい女の声も聞こえてきた。餡子の上品な甘さと比べると聞いているだけなのに胸焼けするような安っぽい甘さだ。それに昼下がりの甘味処で、中途半端な経済話とは何とも無粋だ。私は気分が悪くなって氷を餡子と白玉と一緒にかき込んだ。


 数秒後、お馴染みの鋭い痛みが頭を襲ってきた。思わず額に手を遣って下を向くと、器の中の白玉がキラキラ光って私の顔を見上げていた。


 ミーンミンミンミンミー!……ミーンミンミンミンミー!……


 ついでに蝉がまた鳴きはじめた。白玉と一緒に間抜けな私を笑っている。そんな風に感じた。私はなんだかまた恥ずかしくなってしまった。その恥ずかしさを誤魔化すように、スプーンを置いて、喉を鳴らして温くなったお茶を飲み干した。


 外を見るとまだ、人がたくさん歩いていた。ここから家までまだ遠い。涼やかな爽快感は何処へやら。しょんぼりして俯くと、器の中の白玉はやっぱり私を笑っていた。

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