第2話尊師戦う



       卍



 遠くから、犬のような雄叫びが聞こえてきた。

 麦畑の畦間に立つグルは、一体なんだと辺りを見まわした。

 すると即座に、あちこちから同様の吠え声がいくつも鳴り響いてきた。


「……オオカミだ」


 ミーナが左手で弓を握り直し、首の裏へ右手をやって背負った矢筒の中身を数えた。

 夕焼けの色に染まった空に、木霊のようにあまたの獣声が轟く。

 鋭く周囲に視線を投げるミーナに対して、グルは泰然としていた。オオカミが人を襲うことは滅多にないことを知っていたからである。


「おじさん、気をつけて!」

「心配はいらない。あれは吼えているだけだ」

「そんなわけないでしょ! あなたを狙ってるんだよ」

「私を?」

「オオカミは、体の弱っている人の体臭を嗅ぎつけてくるの」


 太陽の沈む山のある方角から、夜の冷気をはらんだ風が吹きおりてきて、麦畑を一斉になびかせた。

 そのざわざわした葉擦れに自身の気配を忍び込ませて、無数の獣が近づいてくることをグルは本能的に感じとった。


「――そこ!」


 ミーナが素早く矢を弦につがえて、力強く弓幹をしならせ、グルの背後の方向に鏃を定めた。

 射る。

 甲高い矢音を鳴らしながらそれは瞬時に麦畑を切り裂いていき、やがて奥でなにかに突き刺さるような鈍い音を立てた。

 獣の断末魔の叫び声が轟く。

 グルはそちらのほうへ振り返ってみるが、麦に遮られてその姿は見えない。


「やったのか」

「油断しないで! まだ、いる」


 ミーナが新しく矢筒から矢を引きだし、周囲に警戒の視線を向ける。

 あちこちの方角から、いくつもの遠吠えが共鳴するように鳴り響いた。

 今度は距離が近い。いつのまにか包囲の輪が狭まっている。


「まずいな……わたしだけならなんとかなるんだけど……おじさん、走れる?」

「私は片目がよく見えない」

「えっ、そうなの」

「もう片方の目もあまりよくない。ちゃんと走れるかどうか」


 そこまで言ったとき、ミーナの背後の麦畑が鳴り、大きな黒いなにかが飛びだしてきた。

 オオカミ――には、とても見えない。

 グルの知っているそれより二回りほど大きく、黒い毛は逆立ち、まるで獰猛なイノシシのようだ。

 なによりそのワニのような顎門から張りだした上下の双牙は、サーベルタイガーを思わせほど大きく、鋭い。


「下がって、おじさん!」


 ミーナが振り返って、自身に迫り来るオオカミに矢を射掛ける。

 しかしオオカミは素早く跳びすさって、放たれた矢は地面に突き刺さった。

 すると今度は、麦畑のさまざまな個所から相次いで何頭ものオオカミが飛びだしてきた。

 三、四、五頭――来る方向は違えど、事前に打ち合わせたようにミーナに殺到する。

 

 しかし、ミーナもその連係を予測していたのか、すぐに弓を打ち棄て、腰に差した鞘から刃物を抜いた。

 二十センチ以上もの分厚い片刃を持つ、鉈や短刀と呼びたくなるような大型ナイフだ。

 ミーナはナイフを上段に構えて地面を蹴り、飛びかかってきた一頭のオオカミとすれちがいざま、手にしたそれを一閃させた。

 鋭い風切音が後ろのグルの耳にも届き、額にそれを受けたオオカミは血飛沫を上げて地面に崩れた。が、そのオオカミはすぐに立ち上がった。分厚い頭蓋骨を斬りつけられたぐらいでは致命傷にはならないらしい。

 ミーナは斬りつけた勢いそのままべつの一頭にも一撃を食らわしたが、やはりダメージは浅い。


 そうしている間にも、グルにはべつのオオカミたちがじりじりと迫ってきていた。


 ――人は死ぬ。必ず死ぬ。死は避けられない。


 グルは、常日頃から教団の信者たちに言い聞かせていたブッダの教えを思いだした。

 生老病死。

 生まれて、老いて、病を得て、死ぬ。

 どんな偉人も、生物も、この宿命からは逃れられない。存在するものの一切はみな苦しみであり、常在ということはありえない。

 諸行無常。それこそがこの世の法(ダルマ)であると、かのブッダは喝破した。

 

 近づいてきた黒いオオカミたちが、大きな牙のあいだからよだれまみれの舌を蛭のように伸ばし、勢いをつけて飛びかかろうとする。


「おじさん! 伏せて!」


 遠くからミーナの声。

 オオカミの一頭が高々と跳躍して正面からグルに襲いかかり――そして目前で突如炎上した。

 一頭まるごと、空中で火だるまになったのである。

 なにが起きたかわからぬまま、グルはその炎の明るさと熱に驚き、腰を抜かして尻餅をついた。

 燃え上がったオオカミは、グルの傍らに倒れ伏し、少しのあいだ苦しげにもがいていたが、やがて動かなくなった。黒焦げの死体となっても火はまだ燃え続けている。


 ――一体……なにが起きた?


「大丈夫? おじさん!」


 ミーナが駈け寄ってくる。

 集まっていたオオカミたちは、先ほどの炎を警戒して一旦距離をとっている。


「いまのは、ミーナが?」

「そのまま頭を下げておいて!」


 ミーナは尻餅をつくグルの前に立ち、遠巻きにこちらを見るオオカミたちと対峙する。

 そして、左手を開いて前方に突きだし、


「火!」


 と短く叫ぶと、その手のひらが急激に明るくなり、手から少し離れたところの空中にサッカーボール大の火球が出現した。

 マグマのように赤々とたぎったそれが、手のひらから弾かれたように射出される。

 煌々とした白い光と熱波を放ちながら、火球は目にも留まらぬ速さで十メートルほど離れたところで身を低くしていた一頭のオオカミに直撃し、先ほどと同じように火だるまにしてみせた。


「あの炎は、まさか――不動明王の迦楼羅炎か」

「かるら……? なに言ってるの、火だよ火! 本当はこんなとこで魔法を使いたくなかったんだけど――火!」


 ミーナがふたたび火球を発射する。が、それを予測していたオオカミたちはみな散り散りになり、畑に逃げ込んで姿を隠す。

 標的を逃した火球は、そのまま麦畑に突っ込み、小さな爆発を起こして炎上した。


「ああっ、人の畑なのに!」


 撃った本人が一番動揺している。


 ――魔法だと? やはりここは、私の知っている地球ではないのか。


 肝心のオオカミたちは一頭のみ残して、ほかの者はみなまだ燃えていない畑に飛び込んで身を隠してしまった。

 ミーナはふたたび、残っている正面の一頭に「火!」と火球を放つが、距離が空いているため、かわされてしまう。また麦畑のべつの個所が爆発し、黒い煙と炎を上げた。

 火球をかわした一頭は、距離を詰めてこようとせず、むしろミーナが一歩を踏みだすと後ろへ下がる。襲いかかってくるそぶりを見せない。

 グルは用心深く頭を低くしたまま言った。


「あれは囮なんだろう」

「だね。それと、私たちが逃げないようにしてる。賢いよ」

「その火とやらは何発もだせるのか」

「無理。すごく疲れるし。それに、外すとまた畑を燃やしちゃう」

「しっかりとコントロールはできないのか」

「左手だし」

「右手で撃てばいいだろう」

「ああもう、右手じゃ撃てないの! わたしは!」

「魔法とやらは不便なものだな」

「当たり前でしょ。なんでもできる魔法なんてないんだから。っていうか、おじさん、魔法知らないの?」


 どうやらこの世界では、魔法というものはポピュラーなものらしい。

 畦間の左右に広がる麦畑が、剣呑にがさがさと鳴っている。オオカミたちがふたたび飛びかかろうと虎視眈々と狙っているのだ。


 ――人は死ぬ。必ず死ぬ。死は避けられない。


 グルはまたブッダの教えを思いだし、次いでもう一つ、ヴァレリーの墓標に刻まれたある言葉を思いだした。


 ――だが、死ぬのはいつも他人である。


 そしてこうも思った。


 ――弟子たちを導くグルが、そう易々と死ぬことはたとえ王法がそう決めても仏法が許さぬ。


 グルのなかに、天啓のように閃くものがあった。

 黙って立ち上がると、目の前にあるミーナの背中を、勢いよく突き飛ばした。


「えっ!?」


 不意を打たれたミーナは、前方へつんのめってばたばたと両手を振り回し、こらえきれず畦間に倒れ伏した。


 ――さあ、私のためにケダモノどものエサになるがよい。

 ――身を犠牲にして覚者を救った者として、来世では立派な人物に生まれ変わるだろう。


 パーリ経典にある本生譚(ジャータカ)には、腹を空かしたトラの親子の腹を満たすために、ある王子が崖から身を投げてエサとなった逸話がある。その王子は生まれ変わり、釈迦となったという。

 倒れたミーナがオオカミに食われているあいだに逃げようとグルは思ったのだが、いざ走りだそうとした瞬間、今度はグルの体が後ろから何者かに押された。


「なにっ!?」


 あえなくグルも地面に倒れ、背中に重石を載せられたように動けなくなる。

 冷たくざらついた地面を頬に感じながら、なんとか首を振り向けると、オオカミが背中にのし掛かっているのが見えた。

 本来ならば一瞬にしてグルのうなじは噛み切られていたであろうが、一本の矢がその上顎と下顎を貫き、オオカミはうまく口の開閉ができないようだった。

 最初にミーナが畑に向けて射って倒したと思ったオオカミだ。まだ生きていたのだ。

 それは目を血走らせ、よだれとも血とも知れない泡混じりの液体を口からあふれさせて必死にグルに噛みつこうとしているが、できない。


「グル!」 


 ミーナが起き上がって、グルにのし掛かっているオオカミの首筋にナイフを激しく突き刺した。

 頸動脈と神経を断たれたオオカミはどうと後ろへ倒れ、傷口から血をあふれさせながらぴくぴくと足や口を痙攣させ、今度こそ死んだ。


「大丈夫だった? 怪我とかしてない?」


 ミーナがグルの上体を助け起こす。


「グル、ありがとう……助けてくれて。グルが庇ってくれなかったら、わたしどうなっていたか……」

「……いや」グルは澄まして答えた。「女性を護るのは男として当たり前のことだよ。私の犠牲で、きみが助かるのなら安いものだ」

「本当にありがとう。今度は私がグルを助ける」


 ミーナがナイフを構えて周囲を警戒する。

 まだ危機は去っていない。いまも正面に一頭、畑の中に何頭ものオオカミが身を潜めている。あるいは数は当初より増えているかもしれない。

 ミーナの『火』がむやみに使えない以上、じり貧になるのは確実だった。

 しかも、もうじき夜が来る。

 暗闇で、夜目と鼻のきくオオカミに敵うはずはない。


 ――魔法。もっと魔法とやらが使えれば――


 そこでグルははっと気づいた。

 自分にもあるではないか。

 仏教では、悟りを得ると六神通と呼ばれる、超人的な能力を得られるという。

 グルはそれを超越神力と呼ぶ。


 人は誰でも神秘の力を持っている。普段は心に隠れているそれは、功徳やサマディなどの修習を通して悟りを得ることで、誰でも使えるようになる。

 最終解脱者として無明の闇を越えたグルはもちろん使えるはずだし、なにより絞首刑を逃れたことでそれは完全に証明された。

 六つある能力のうち、神足通と呼ばれるものは、好きな場所へ自由に行くことができる能力のことだ。

 空を飛んだり、壁をすり抜けたりすることもできる。


 グルは早速地面に結跏趺坐し、瞑目して呼吸に集中した。

 もう一度ムーラーダーラ・チャクラを開いて、眠っていたクンダリニー(生命エネルギー)を上昇させるのだ。

 閉じられたまぶたの向こうで、ミーナがオオカミたちと戦っている音が聞こえてくる。

 グルは雑念を捨て、必死に瞑想に集中しようとするが、しかしなかなかチャクラは開かない。


 ――落ち着け。私の力はこんなものではないはずだ。


 さらに呼吸に集中するため、グルは鼻をつまんで何度も深呼吸した。

 すると、徐々に尻の辺りが熱く、むずむずとしてきて、グルの体は結跏趺坐したまま思わず跳ねた。

 最初はつつかれた虫のように小さく跳びはねるだけだったが、その着地のショックでさらに肛門近くのムーラーダーラ・チャクラが刺激され、次第に強くはねるようになっていく。

 ダルドリー・シッディと呼ばれる、空中浮揚の前段階の現象だ。

 

 回数を重ねるごとにジャンプは大きくなっていき、そしてある段階を越えると着地の衝撃を感じなくなった。

 無重力になったように、自身の重みを感じなくなる感覚――死刑のときに感じたものと同じだ。

 目を開けると、グルの体は結跏趺坐の姿勢のまま宙に浮き上がっていた。

 地上から一メートルほどの高さであったが、空中で体を上下に揺するとさらにもう一段階高いところへ浮き上がれる。

 下界では、オオカミに囲われているミーナの姿が見える。


「ミーナ、こっちだ」


 上空から呼びかけると、ミーナがこちらを振り仰いで目を丸くした。

 グルが上昇しながら手を差し伸べると、ミーナは右手に握っていたナイフを鞘にしまい、オオカミたちに背を向けてこちらへ駈けだした。

 勢いをつけてジャンプ。

 ミーナは目いっぱい上空に手を伸ばし、グルの差しだした手につかまる。


「しっかりつかまるんだ。いいねっ!」

「うんっ……!」


 グルは一瞬彼女の重みを感じたが、両者はたちまち一体となり、グルの神足通はミーナの体をもやさしく包み込んで力強く上昇させた。

 地上から五メートル、八メートル、十一メートル――悔しそうにこちらを見上げて吼えるオオカミたちの姿も、どんどん下界に小さくなっていく。

 暮れなずむ夕焼けの空に、手を繋ぐ二人のシルエットが舞う。


「すごい……グル、空を飛べるんだね」

「最終解脱者にできないことはないのだよ」

「最終……? 本当はすごい魔法使いなの?」

「フフ、魔法使いか。まぁ、そんなところだ」


 グルはミーナの体を引き上げ、その肩につかまらせながら言った。


「さあ、きみの家まで行こう。方向はどっちだ」

「えっと、あっちのほう」

「日の暮れないうちに行くぞ。いいねっ!」

「うんっ」


 二人は一体となりながら、闇が侵しつつある方角へ飛んでいった。

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尊師転生 ~絞首台で万事休すだったけど空中浮揚で異世界に行けたのでシャンバラ目指す~ 朽木サイガ @kutiki

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