尊師転生 ~絞首台で万事休すだったけど空中浮揚で異世界に行けたのでシャンバラ目指す~

朽木サイガ

第1話 尊師目覚める



   犀の角のようにただ独り歩め。

           ――『ブッダのことば スッタニパータ 中村元訳』



       卍



「ねぇ、おじさん、独りなの?」

 軽やかな声で呼び起こされ、尊師(グル)は覚醒した。


 グルは地面に結跏趺坐していた。急に、ずしりとした体の重みを下腹の辺りに思いだした。

 周りは一面、背の高い、黄金色の穂を実らせた麦で囲まれていた。涼しい風が吹いて、さらさらと葉擦れが聞こえる。

 どうやら麦畑の只中にいるようだが、三メートルほど先にある麦垣を掻き分けて、一人の少女が顔を覗かせていた。


「おじさん、もう暗くなるよ。ずっとそんなとこにいたら体が冷えちゃう」


 少女が心配そうに青い瞳を瞬かせて言った。その髪の色は、周囲の麦よりも一等明るい金色だ。

 グルは結跏趺坐したまま、しばし唖然としていた。ここは一体どこなのか。どうして自分はここにいるのか。この少女は一体?


 ――そも、私は、一体何者であったか。


 眠りすぎたあとのように頭が重く、うまく記憶が巡らない。


「私、は……」


 やっとのことで絞りだした声は、しわがれて、とても自分のものとは思えなかった。言葉がうまく出てこない。まるで長らく喋っていなかったようだ。


 ――そうだ、私は長いあいだ囚われていた。看守とも口を利かず、ひたすら独房でサマディを続けていたのだ。


「私は……生きて、いるのか」

「え?」


 麦垣から顔を覗かせている少女が、一瞬目を丸くした。そして一旦その顔が向こうへ引っ込み、やがて立ち並ぶ麦の上にその顔が再度現れた。しゃがみ込んでいた状態から立ち上がったのだ。


「へんなこと言わないでよ。死んだ人間は生き返ったりしないんだから。でも、そんなとこにいたら本当に死んじゃうかもよ」


 がさがさと麦を掻き分けて、少女がこちらへ近づいてくる。その体が露わになるにつれ、グルの戸惑いは高まった。

 カラーの大きい生成りのシャツに、革製のコルセットで胴回りを締め上げている。そのコルセットの上から張りだした豊かな乳房には鎧のような胸当てをあてがい、革紐がたすき掛けされている。どうやら後ろで矢筒を背負っているようで、頭の横から矢羽根が何本か覗いている。左胸には下は膝あたりまで緑色のスカートをはいているが、その腰元には彫り物のある木鞘に納められたナイフや、小物を入れる革袋が下げられている。靴はモカシンのような、ラフアウトの革を荒く縫い上げたもの。


 シャツもスカートも、合成繊維とは違う、染めが悪くて節の立った風合いの麻のような素材を使っている。頭には、髪の上から鉢巻を巻くように赤いヘアバンドが巻かれ、ほかにも胸当てとセットのように肩に当てる革鎧も見える。

 グルの見慣れた服装とは明らかに違う。まるで中世ヨーロッパの村娘のような恰好だ。


「ほら、もう立って。あんまり遅くなるとオオカミとか出るかもしれない」


 目の目に立った少女が、右手を差しだしてくる。その手首には銀のブレスレットが鈍く光り、反対の左手は肩にかつがれた長弓を支えている。

 グルは呆然としたまま、引き寄せられるようにその手を握った。弓をやっているためか、見た目よりもしっかりとした固い手であったが、暖かかった。女性の手を握るのは何年ぶりだろうか。


「あなた、名前は? あ、私はミーナ」


 少女が手を引っぱってグルを立ち上がらせる。よろめきながらもグルは返答を考えた。素直に名乗っていいものか警戒したのである。


「私は尊師――」

「そんし?」

「いや、周りの者からはグルと呼ばれていた」

「へぇ、それがあなたの名前なんだ?」


 こちらのふらつく足もとが定まると、ミーナと名乗った少女は手を離した。

 

 ――少なくとも、尊師やグルといった言葉には覚えがない者のようだな。まだ若い娘ならそれも無理ない。私の呼び名がマスコミを賑わしたのは二十年も昔のことなのだからな。

 

 そこまで考え、ふとあることに気づいた。


「君は、日本人なのか?」


 色白でくっきりした目鼻立ちから、彼女は西洋人にしか見えなかったが、長く娑婆を離れているあいだに日本語を話せる外国人が増えたのだろうか。

 ミーナはきょとんとして黙っている。


「アーユー・ジャパニーズ? アイム・ジャパニーズ・ピーポー。リブイン・トーキョーコーチショ」


 いまさらながらグルは相手に合わせて言語を変えてみようと思った。


「え、なになに? なんて言ったの? 怖い」


 どうやら法廷で鍛えたグルの英語力は、彼女には高度すぎるようだった。


「日本語ならば通じるのか」

「ニホン? それが、あなたの部族名?」

「部族……? きみは一体なんなのだ」

「なんなのだって、ただのクランジュ族の農家だよ。ウサギでも獲れればって思って森へ行ったんだけど、逃げられちゃって」


 残念そうに弓弦を軽く弾くミーナに、グルはますます混乱した。言葉は確かに通じる。が、まるで意味がわからない。重要な部分の認識がすれ違っているようだ。


 ミーナが先導して、麦をかきわけて畦間に出る。

 よく見るとこれらの麦も、日本でとれる小麦や大麦ではない。ライ麦でもない。それらより稈長があり、グルよりも小柄な彼女の胸元あたりまで穂が伸びている。

 

 ――妙だ。私の記憶では、いまは七月のはずだ。夏場にはもう、秋まきの麦は収穫が終わっているはずではないか。

 

 辺りを見まわす。麦畑と、人がようやくすれ違えられるほどの狭い畦間、遠くには山や、家々らしきものがぽつぽつ見えるだけで、電信柱や車道などは見えなかった。ミーナが急かしたのも無理なく、太陽は山の向こうへ隠れかかり、空がオレンジ色に染まっている。


「私は、どうしてこんなところに……」


 鉛が入ったように重たい額に手をやり、必死に記憶を探る。


「そうだ、私は今朝――」


 拘置所の独居房で朝食を食べ終わったあと、教誨室へ連れていかれて刑務官に告げられたのだ。

 本日執行する、と。

 死刑の執行は、当日の朝に急に告げられるということは知っていた。グルのほかに、共犯者と見なされた弟子たちもそれぞれ執行されるのだという。

 警備隊員に囲まれ、刑場に連れて行かれた。一つ、また一つと必要な手順を消化し、処刑の時が近づいてきても、グルはそれが現実の物とは認められなかった。

 

 目隠しをされ、後ろ手に手錠をかけられ、刑務官に背中を押されて真っ暗闇の刑場を進んでいく。所定の位置につくと、両足を縛られ、首に冷たいロープがかけられる。

 そして、執行を告げるブザーが鳴り響き、グルの足もとの床が、バーンと叩くような音を立てて開かれた。


 一瞬にして体から重みが消え、落下していく――まさにその瞬間だった。

 

 肛門の近くにあるムーラーダーラ・チャクラが突如として開き、眠っていたクンダリニー(生命エネルギー)が熱い昇竜となって脳天まで迸り、目隠しされた視界のなかに光をあふれさせた。それは小さな太陽が頭蓋に飛び込んだような、爆発的な光量だった。

 本来であれば、首にかけられたロープは一秒もせずにグルの喉元に食いつき、その頸椎をへし折ったはずである。

 

 しかし、何秒過ぎてもそれは起きない。むしろ逆に、水中クンバカで水槽の底から浮き上がったょうに、グルの体は重みをなくしたまま上へ上へと徐々に昇っていった。

 かつて渋谷の瞑想場でも似た体験をしたことがある。クンダリニー・ヨーガが成就して、超越神力が発動したのである。

 

 空中浮揚。

 

 それこそがまさに、グルをグルたらしめる代表的な奇蹟であった。

 脳内に迸った光はますます強さを増していき、やがてグルの意識を真白に染めあげ――そして、この麦畑でミーナに声をかけられ、目覚めたというわけだ。


「そうか……やはり、私は」


 グルは己の体を掻き抱き、ぶるぶると震えた。


「グルのほうこそ一体なんなの? なんかへんな服着てるけど」


 ミーナに言われて、グルはあらためて自分の体を見下ろした。教団でよく着ていた、赤紫のみで染められた上下揃いの修行服(クルタ)であった。尊師とその家族のみ許された色である。もはや手錠も、足を縛る縄も、目隠しもない。

 グルはアルカイックに微笑して答えた。


「私か? 私は……この世で唯一の、最終解脱者である」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る