第3話 汗

 Aさんが亡くなってからは、Aさんの魂が俺の家に宿っているような気がしてし仕方がなかった。人の気配がして、常に見られているような気がした。


 猫はとりあえず母親の近くにいることが多いのだが、時々、気が付くと俺の傍にいることがあった。そして、俺の顔をじっと見ている。


「もしかして、〇〇のおばさん?」

 俺は猫に聞いてみた。すると、ニャーと答えた。それからは、猫を『おばさん』と呼ぶようになった。シェリーと名前を呼んでも反応しないのに、これは不気味だった。その日から、猫は俺の部屋にいつもいるようになった気がする。胡坐をかくと膝に乗ってくる。俺も子どもだったから、猫が大きく重たく感じた。俺は猫がAさんだと思い込んでいて、敬語を使うようになっていた。


「おばさん、何で僕の部屋に来るんですか」

 猫は目をそらしてそのまま俺の膝に寝ていた。まるで、膝に石を乗せる拷問のようだった。

「来ないでもらえないですか?」


 その頃になると、猫はいつも俺について来るから、母はからかって「あんたは、昔から〇〇の小母さんに気に入られてもんね」と言っていた。母も猫がAさんの分身のように感じていたらしい。


「〇〇の小母さんのことを話してると、シェリーがじっとこっちを見てるのよ。きっとわかってるんだなって思って。前に高校の時の友達が来た時も、ずっと一緒にいて話を聞いてるから、やっぱりそうなんじゃないかなって気がする」

「怖い」

 俺は言った。

「〇〇の小母さんは、あんたのこと気に入ってたから、仕方ないんじゃない?かわいそうだから相手してあげなさいよ」

「嫌だ」


 Aさんは、俺に会うと「聡史君、背が伸びたね。足が長くなったんじゃない?」、「聡史君って、草刈正雄に似てるよね」、「女の子にもてるんじゃない?」と外見のことを盛んに言っていた。うちの母という人は、もともと俺のことをかなり軽視していた。俺は母にとってはいらない子どもだと思うくらいだった。

「もう、昭子の家の子になれば?」

 母は笑って言ったが、俺は嫌で仕方がなかった。本当に母親が俺をAさんのところに置き去りにするんじゃないかと恐怖を感じていた。


 ある時期、猫がちょっとおかしくなってしまった時期があった。大きな声で鳴き続けて、俺にまとわりついて来たかと思うと、床にくねくねと体を押し付けてもだえ始める。そして、俺の部屋におしっこを噴射して去って行く。俺は学校に行くと猫のおしっこ臭いと言われるようになってしまった。今思うと、シェリーは発情期だったようだけど、俺の家族は誰もそんなことは知らなかった。俺はシェリーを煙たがるようになった。


 そして、親に相談して、部屋に内カギをかけるようになった。すると、猫は廊下で俺を待っていて、夜中ずっと、ニャーニャー泣いている。すると、兄がブチ切れて猫を外に放り出してしまった。それまで室内でしか飼われていなかったのに、外に出てオス猫に追い掛け回されて、どんな気分だっただろうか。すごく気の毒な気もするが、俺はようやく解放されて熟睡していた。すると、猫は一晩外に出されていて、翌朝平然と戻って来た。その時から、猫は大人しくなった。きっと、外に出されて反省したんだと思った。


 それから、猫は俺がいない間は、俺の部屋にいるようになった。家に帰ると猫が俺の布団の上で寝ている。俺は毎回、猫を追い出す。すると、1月くらい経って、俺が猫を持ち上げた時、乳首が大きくなっていることに気が付いた。妊娠していたんだ。俺は母親に言いたくなかったけど、そうじゃないかと伝えた。 


「うちじゃ飼えないから、捨てて来て」母は平然と言った。

「え?親ごと?」

「そう。外で産めばいいじゃない」

「でも・・・」

 俺はしぶしぶ猫を捨てに行くことになった。親に反論なんてできなかった。俺の家族は誰もが身勝手な独裁者だった。俺は猫を無理やり段ボールに入れて、蓋をして、自転車の荷台に括った。可哀そうだから、段ボールにはタオルを入れてやった。餌は家にあったキャットフードを全部置いてきた。俺は段ボール箱にふたをしたまま、神社の建物の床下に下すと、素早く自転車で逃げた。かわいそうというよりも、具合の悪い猫を置き去りにしたという、罪悪感がひどく俺を苦しめた。


***


 その夜のことだった。耳元で猫がゴロゴロ鳴いていた。そして、俺の布団に入ってきた。いつものように、わきの下の匂いを嗅いで、服の上から噛みついた。そして、頭を俺のわきにぐりぐりと押し付ける。俺はその夜、カギをかけないで寝てしまったから、猫が入って来たんだと思った。神社から戻ってきたしまったんだ。ちょっとほっとしていた。眠かったからそのまま寝てしまった。


 朝起きると、もう猫はいなくなっていた。俺は家族とは不仲だったから、猫のことは特に何も話さなかった。俺は本当に無口で一日ほとんど喋らない日もあるくらいだった。


「昨日、猫捨ててきたんだろ?」

 中学生の兄が尋ねた。

「うん」

「どこに?」

「〇〇神社」

「あ、そう」

 兄は、猫を捨てたという事実さえわかればよかったみたいだ。それ以上聞かなかった。

 でも、猫がもう戻ってきてるというのを、言い忘れてしまった。俺は兄が苦手だったから、いつも言いたいことが言えなかったんだ。


 その日の夜も、猫が部屋に入って来た。ドアの内鍵を閉めたはずなのに、猫は俺の部屋にいた。きっと鍵の閉め忘れだろうと諦めた。猫はしばらくゴロゴロしていてうるさかったが、眠ってしまうと、重いだけで特に不都合はなかった。猫は脇の下の匂いを堪能すると、俺の腕と腰の間あたりのくぼみにすっぽりと埋まって休んでいた。そうしていると、邪魔ではなくなった。仲良く共存できそうだった。そろそろ、出産だから、俺も手荒な真似をするつもりはなかった。


 それから、毎晩、猫はやって来た。決まって俺の脇の下の匂いを嗅いで、顔をこすりつけていた。考えてみたら、昼間はどこにいるんだろうと思った。最近は昼間見ていなかった。きっと、家と外を出入りしているんだ。うちの実家は玄関に鍵を掛けていないし、引き戸だから、その気になれば猫だって入って来れる。


 毎晩そうやって俺の布団に入ってくる猫はいじらしかった。あの夜も、すぐに部屋に入れてやればよかった。そうすれば、兄貴に外に出されることもなかったんだから。


 俺は猫を撫でてやろうと思った。俺のわきの下にぐりぐりと鼻を押し付けているから、胴体を触ろうとして手を伸ばした。


 あれ?


 触ってみたら、それは、まるで人間の髪の毛みたいだった。硬くて太い女の人の髪だった。俺は暗がりで目を開けた。すると、布団に這いつくばりながら、俺の脇の下に鼻をぐりぐりと押し付ける小母さんがそこにいた。


 わぁ! 


 俺は声を上げた。でも、大きな声は出せなかった。

「聡史君ってワキガなんじゃない?」

 小母さんは言った。答えられなかった。

「そうだよねぇ?」

 俺は恥ずかしくなって目を瞑った。その人はハアハア言いながら、俺のわきの匂いを嗅いでいて、シャツを噛んで、汗を吸っていた。しばらくすると、疲れたのか、俺の脇の下に収まって、すやすやと寝息を立てて眠り始めた。


 俺はそのまま眠りについた。

 今でも時々、俺の脇の下を嗅ぎに来る人がいる。それが猫なのか、小母さんなのかは怖くて確かめられない。

 


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汗のにおい 連喜 @toushikibu

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