第2話 匂い

 俺はその猫がちょっと気味が悪くて、苦手だった。俺に動物が懐いたためしがないのだが、その猫は時々俺の部屋にやってきた。まるで、Aさんが俺の部屋に来たような気分になった。


 Aさんっていうのは、かなり不気味な人だった。優しそうでまともに見えるのだが、心の病がある人なのでちょっと変だった。


 俺は小学生だったけど、何となく、Aさんが俺狙っているような気がしていた。俺が食べ物を持っていくと、部屋にあがって行かない?と誘われた。


 そして、家にあるお菓子などを出してくれた。そのお菓子というのが、かりんとう、寒天ゼリー、南部せんべいなど、あまり子どもが好まないものばかりだった。俺は断れなくて家に入るのだが、居間は俺の実家と同じくらい散らかっていた。彼女の場合は、病気で掃除できなかったんだろうと思うけど、部屋にいろいろな物が積み重なっていた。物を捨てられないタイプだったらしい。


 俺に「学校はどお?」とか、「今学校で何をやってるの?」ような話を聞いてくるのだが、あまり話題が思いつかなかった。すると、最終的には、毎回Aさんの猫の話になった。猫がこの間こんなことをしたとか、まるで我が子のことのように話していた。家にいる便所コウロギを捕まえた話もしていて、俺はそれからは、猫が汚く見えてしまった。そもそも、猫は自分でお尻をなめているくらいだから、もともと汚いのだけど、Aさんは猫とキスしたりしていた。今なら、猫はパスツレラ症やトキソプラズマ症のような菌を持っているから、過度な接触はやめた方がいいと言われるけど、当時はそんな知識もなかった。


 そんな時、彼女は自分が結婚を約束した相手に振られたことを俺に話した。俺はまだ12歳くらいだったから、正直言って、聞いていてしんどかった。


 その男とは、Aさんが高校を卒業して、働かないで家にいた時に知り合った。家に来ていたデパートの外商の男だったそうだ。口がうまいからすっかり夢中になってしまい、親に内緒で結婚を約束していた。彼女はお嬢様だから、そういう人とは結婚させてもらえないだろう。ちょっとした禁断の恋だ。もう、駆け落ちしましょうか、というところまでなって、相手の男が行方をくらましてしまったそうだ。結婚しなくてよかったと思うのだが、彼女にとってはショックだったようで、両親からは恥知らずと罵られた。


「やっぱり、結婚を考えられないような相手とは付き合うのはやめた方がいいわよ。やっぱり、つり合いって大事だからね」

「はあ」

「聡史君のご両親はお見合いでしょ?やっぱり結婚はお見合いがいいと思う。恋愛結婚だと、どんな人かわからないしね」

 1980年辺りは、まだ25%くらいはお見合い結婚だった。だから、それほどおかしなことを言っているわけではないが、俺はまだ小学生だった。女の子ならまだいいのかもしれないけど、俺にとってはほとんど意味のない話だった。彼女の場合は、この大恋愛で人生が狂ってしまったのだから、どうしても伝えたかったらしい。


「聡史君はきっと女の子を泣かせるようになるかもね。もてるでしょ?」

 こんな風に言われても困ってしまった。

「全然」

 俺は手持無沙汰なので、そんなに好きでもないお菓子を食べ続けていた。


 そこに行くと1時間くらいおばさんの話を聞かされて、最後はお小遣いをもらって帰るというのがお決まりだった。大体、500円くらいだった。子どもだから現金は欲しい。俺は決まった小遣いをもらっていなくて、それは大きかった。大体、月1回くらいはおばさんの家に行かされていた。


 亡くなった時は、悲しいというより、霊になってどこにでも自由自在に行けるようになったら、俺のところに来るんじゃないかという恐怖が先だった。


 俺には猫そのものがAさんに思えてならなかった。俺が部屋にいると入ってくることがあった。引き戸だったから、爪をかけて開けて入ってくる。そして、座っている俺の脇の匂いをクンクンと嗅いで、俺の脇の下に頭をねじ込んで来る。Aさんにされているような気分になって怖かった。


 一応、頭をなでてはやるが、猫というより、中年女性の頭を撫でている気分だった。


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