第26話 わたしの号泣案件
もうNHKプラスでも配信が終わってしまったのですが、先週の土曜日に「100分de水木しげる」という、漫画家・水木しげるの特集をやってまして、例によってNHKプラスで視聴していたのですが、なんかね……ぽろぽろ泣いちゃうんですよね。
水木しげるを知ってますか? 『ゲゲゲの鬼太郎』の原作者として有名です。鬼太郎は半世紀の間に6度もテレビアニメ化されているマンガで、なかなかそういう作品はありませんね。この国に住んでいる人なら、第1期から第6期までどれかは目にしたことがあるんじゃないでしょうか。私は子どもの頃、第2期の再放送を見てた年代ですね。
子どもの頃のわたしは『ゲゲゲの鬼太郎』を描いている人だと知ってはいたのですが、鬼太郎のマンガ自体は読んだことがなく、水木しげるのことは妖怪図鑑を描いている人だと認識していました。水木しげるは日本に妖怪ブームを作った人なんです。その半生は、水木しげるの奥さんである武良布枝さんのエッセイ『ゲゲゲの女房』と、これを原案にしたNHK連続テレビ小説「ゲゲゲの女房」でわたしは知りました。漫画家(しかも売れない漫画家)の妻の視点から見た昭和史、としての「ゲゲゲの女房」は傑作です。
それはともかく、今回の特集では水木しげる作品のうち、
「のんのんばあ」「のんのんばあとおれ」を宗教学者、釈徹宗さん
「墓場鬼太郎」「ゲゲゲの鬼太郎」をフランス文学者、中条省平さん
「ラバウル戦記」「総員玉砕せよ!」を漫画家・文筆家、ヤマザキマリさん
「悪魔くん」「河童の三平」を俳優、佐野史郎さん
がそれぞれ読み解いてくれます。とれもこれも、非常に興味深いものばかりでしたが、この中からひとつ、
「総員玉砕せよ!」
戦争中、ニューブリテン島(現パプアニューギニア)の水木しげるが所属した部隊が「玉砕」した事件に取材した戦記マンガです。玉砕とは全滅を耳に心地よく言い換えた言葉ですから、「玉砕せよ」とは「全員死ね」という意味の美語です。
作中、水木しげるの分身である丸山二等兵は、
「天国みたいなところ」
と聞かされた、ニューブリテン島ズンゲン守備の任務につきます。しかし、ここはむしろ「地獄」といっていい場所でした。十分な糧食のない部隊では陣地構築で兵隊が死に、疫病で兵隊が死に、食糧調達で兵隊か死んでゆきます。連合軍の攻勢が激しくなると戦闘でも兵隊が死んでゆきます。
ついに丸山二等兵の部隊は、陣地守備のため戦略的には必要のない玉砕命令を受けて攻撃を敢行、一度は全滅を免れますが、軍上層部からは「敵前逃亡だ」と怒りを買い、再度の玉砕命令を受けて、生き残ったわずかな人数で敵軍に突撃、全滅します。
玉砕の翌日、ひとり生き残った丸山二等兵は戦場をさまよっているところを、連合軍に発見され射殺――物語は終わります。
丸山二等兵は戦死しましたが、現実の水木しげるは前年に左腕を負傷していたため前線にはおらず、死ぬことはありませんでした。でも、多くの戦友をなくしたのです。「小便をするように人が死んでゆく」と語っていたというのですから、凄まじい戦争体験だったといっていいでしょう。
わたしが泣いてしまうのは、丸山二等兵が死んでゆく最後の場面です。戦闘から一夜明け、戦場をさまよう丸山の顔はくちびるが腫れ上がり、口からは舌が飛び出し、目も眼窩からこぼれ落ちそうに膨れあがって描写されていますが、これは腐乱死体の人相です。生きているあいだは決してこのような表情になりません。なぜ、丸山はこんな表情に描かれたのか?
『総員玉砕せよ!』は1973年に描かれましたが、これは戦後、紙芝居や貸本漫画でなんとか食いつないできた水木しげるが、1968年前後に「悪魔くん」や「ゲゲゲの鬼太郎」の大ヒットで人気漫画家となったことと無関係ではありません。戦争で起こった出来事に向かい合うことができるようになったということなのだと思います。
はるか南洋の島で亡くなった友人は異郷にだれ知ることのない骸をいまも晒したままなのに対し、戦後、平和で豊かになった日本で、漫画家として大成功している自分の立場がとても腐敗したもののように感じられたのだと思います。生き残ってしまって申し訳ないと。
だから、『総員玉砕せよ!』の中で、主人公の丸山二等兵(水木しげるの分身)は生きながらにして腐敗しているのだし、最後は敵兵に見つかって殺されなければならなかったのです。『総員玉砕せよ!』最後の数コマには、戦友たちの死に対する水木の悔恨の念と鎮魂の願いが込められているのです。
これが泣かずにいられるでしょうか。
89歳で亡くなったわたしの祖父は召集され海軍の兵隊になりました。内地勤務で戦場には行きませんでしたが、戦闘機の機銃掃射に追いかけられたとか、戦争の話は聞かせてもらいました。小学校時代の先生は焼夷弾が街に降る様子がとてもきれいだったと話してくれましたし、戦争は人を悲惨と滑稽とが表裏一体となった不思議な心理状態に陥らせるもののようです。
凄惨ではあっても、どこか可笑しい『総員玉砕せよ!」は戦争の異常を描き切った傑作漫画だと改めて思ったのでした。
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