5
回数を重ねる度に、世界は複雑さを増していく。
日没の風景は早朝の学校や夜の路上と混淆し、拡大する団地の一棟はその構造を蠢かせる。蠕動する臓器のように、階段は伸張し、廊下は歪み、刻一刻と形を変えていく。最初の不気味な穏やかさは形を潜め、迷宮と化した心を私は一人で歩いていく。
無数の扉と窓の連なりからは、色とりどりの声と光が漏れ出ている。私はその前を慎重に進みながら、一つ一つに耳を傾け、時には扉を開けて、小さな女の子と一緒にそれを眺めている。最初は私たちにも言葉は必要だったが、次第にそれも要らなくなった。扉の中にはかつて感じた言葉があり、私たちはそれをまた感じている。部屋を出る時女の子はそこに残り、私はまた次の部屋へと入っていく。
再開された妻藤愛理との接触は、最終的に七回に及んだ。
うち五回は拡大する団地を基礎に。残りの二回は、キャンバスに描かれた油彩画を思わせる一室で、ただひたすらに沈黙を続けた。探索中の報告に関しては、私と愛理さんが馴染んだ時点で、頻度を減らす提案をした。茉都香、箕作君、他のスタッフの同意を経て、報告書の分量が増えることを代償に案は可決された。
愛理さんが昏迷から回復した段階で、私の役目は終了した。そこから一週間は、治療計画と方針を決めるための会議に参加することになったものの、程なくして私は東京に帰ることになった。
虚想分裂症の症状は寛解し、私は連続した生活を取り戻した。とはいえ、治癒したわけではなく、私の中に生まれたものが再び蠢き出す予感は残っている。きっと、長い付き合いになるだろう。私が〝
あれから時が経ち、私は四十歳を迎えた。
初老と呼ばれる境界、あの時の母と歳が重なり、また一つ一つ、実感を伴った体験が積み上げられていく。これまでのことは良くも悪くもしっかりと今に接続し、無数の点の連なりが私を一筋の線にしてくれる。これを成長と呼ぶか老いと呼ぶかは、今はまだ保留にしたい。二十年後にはきっと、その意味もわかるはずだ。
五年のうちに幸乃との暮らしもわずかに変化し、穏やかさを取り戻りながら、少し先へと進めたような気がしている。その一例として、私がリハビリとして故郷の言葉で話すようになった影響か、幸乃が関西の文法や単語が映った画面を前に唸っているところを時々見かけるようになった。今では〝箒木陽織の言葉〟と題されたノートが数冊、机の上に積まれている。
高可塑性投影分析を用いた伝承性精神病質による〝
『アンタも懲りんな、ほんまに』
画面越しに茉都香が肩を竦める。「反対やった?」と私が聞くと、彼女は『いや』と首を振って、
『また組めて嬉しいわ。頑張ろうな、陽織』
いつも励まされてきたあの声で、力強く言った。
未来を生き残るための繋がりをつくる。それは人でも、モノでも、文化でも、言葉でも良い。何か依拠できる存在を、人が、これからの世代が持てるように。それが今の私の寄る辺、私を生かす呪いの力だ。
これから先、多摩にある新世団地にも、子供たちの声が聞こえるようになる日が訪れるだろう。私たちはその様子を眺めながら、共にゆっくりと年老いていく。私と幸乃はそんな夢を描き、語り合って、もう一度、人工代理母を利用することに決めた。
「ほんまに、これでよかったと思う……」
手続きを終えた途端に不安に駆られ、私は茫然と呟いた。幸乃はしな垂れた髪の奥から私を見つめ、腕に指を這わせてから、そっと抱きしめた。
「……大丈夫。私たちの天使だもの」
ね、と囁く彼女に、ゆっくりと抱擁を返す。強張りが解けて、私は静かに嗚咽する。
「うん、そうやね、幸乃……」
柔らかく、暖かく──きっと、私たちは呪われていく。
けれどそれは、私たちを生かしてくれる、天使の呪いとなるのだろう。
産まれるのは一年後。季節遅れの桜が、豊かな色をつける頃だ。
未来を見れば、いつかは分島鉋が描くようなディストピアや終末が訪れるかもしれない。いつかまた、ダフネ禍のような災厄が、私たちを襲うかもしれない。可能性は常に付き纏い、私たちは逃れる術を持つことができない。人が言葉で語り、想像する力を有する限り、永遠に。
それでも、太陽が落ちゆくどん詰まりの世界でも、天使たちが舞い降りるのなら、まだ大丈夫と言い張っていられる。虚妄の中に、仮初の希望を抱いて死んでいけるのだと。
私はそう、信じている。
日没する処の天使たち 伊島糸雨 @shiu_itoh
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