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 配置を変えるから休めと言うのが、立場上の上司にあたる茉都香から出された指示だった。報告書と数日前の私の様子が、彼女をその判断に導いたようだった。

 これまで他者の内に見てきたすべては、私の中にこそ実在している。混成訛語クレオール伝承性精神病質ジェナテマも……形は違えども、私が同一のものを抱えていることにもう疑いの余地はない。

 数日様子を見る中で、起きている間に意識の空白が生じることが何度も続いた。眠りは浅く、疲労が噴出するように目の下には色濃い隈が現れたが、少量の汎用安定剤が思考の波を幾分穏やかにしてくれた。考えがまとまるまでには、それなりの時間を要することになった。

 虚想分裂症きょそうぶんれつしょう、というものがある。

 これは混成訛語クレオール話者かつ伝承性精神病質の高い人が過冷却フリーズアウトを起こして発症する精神疾患の一つに数えられるもので、虚実入り混じった妄想が現実の生活上で発作的に生起することを主な症状としている。妄想の中にある時、罹患者はぼうっと夢現ゆめうつつの様子でいることが多く、外的刺激には反応して我に返るが、妄想の内容は覚えていない。

 現実への耐えられなさが原因として挙げられる点では、遊離性昏迷にも類似する。まるで感染症のようだった。転移や逆転移の連鎖を想定すれば、確かにそれは厄介なウイルスに思えなくもない。世代を、時間を超えて引き継がれ、言葉こそがそれを伝達する。私たちはその時々での対処を続けるしかない。

 人に現実への耐え難さを示すのは喪失であり、その体験を語ることを私たちはきっと拒むだろう。身体に潜む癌を指さして、「これはいつかあなたを殺す」と糾弾されては堪らない。癌もまた肉の一部であるが故に、除去において流れる血潮に耐えることができないからだ。

 仕事だから、と暗示する。神秘を暴くように視線のメスで臓腑を開き、横たわる患者は微睡のうちに赤く冷たい夢を見る。けれど、私はそこで執刀医と患者を兼任しており、どちらの身体も奥底に深く縫い付けられて、その役目から逃れることはできない。

 自分が通らなかった道は、却ってくっきりとよく見える。

 私がとりわけ避けていたのは、父と母の話だった。

 典型的な仕事人間の父と、役割に拘束された母だったと思う。どちらも別の意味で必死に過ぎて、幼いながらに胸焼けに似た思いを感じたものだった。

 父はよくお金を稼ぎ、生活を支え、時たま会うときはたいてい優しく、けれど家に帰ることはほとんどなかった。対する母は親としての自覚が奇妙なほどに強く、その意識を口に出すことはほとんどなかったものの、空気がひりつく時も多かった。

 両者とも、私に対してそれぞれなりの愛情を注いでくれたと思っている。ただ、それらがうまく噛み合ったことは私の記憶では皆無に等しかった。唯一覚えているのは、幼い私を「天使」と呼ぶというもので、どこかズレたその感触は、今でも不思議と忘れることがない。

 私はほとんどの時間を母と二人きりで過ごしていた。だから、父との思い出は幼少期のものが占めていて、そこから先は見る影もない。父の愛情はわかりにくく頻度も乏しかったが、それ以外にどうすればいいのか彼自身困惑しているようだった。

 そこに来て、月桂冠を象った新型ウイルスが世界的に流行し、多くのことを変えてしまった。弱者を殺し、あらゆる資源を圧迫し、経済を停滞させて、心さえ壊していく。〝非常事態〟は三年続いた。三年のうちに、私は中学生になり、不通とすれ違いの応酬は父と母を引き裂いた。私の親権は母に渡り、父は養育費の支払いを命じられた。父と会える頻度はそれまでと変わらなかったが、私たちは別々の存在になり、〝箒木〟の姓だけが唯一明らかな繋がりとなった。

 私が学校に行っている間、母がどのように過ごしていたかを私は知らない。ただ、母は離婚以降口数が少なくなり、どんな時でもぼんやりとしているようだった。父への不満もなく、何かを楽しげに語るでもなく、ただ漠然と。まるで白昼夢を見続けているかのように。

 寂しさや怒りややるせなさは言葉にならないまま意識を漂い、息苦しさを伴って私に襲い掛かった。それでもどうにかやっていられたのは、それぞれが持つ歪さが、私をどうにかしてしまうために計画されたものではないとわかっていたからで、母には私が必要かもしれないと思っていられたからだった。「私が何とかしなければ」そんな拙い使命感があの頃の私を埋め尽くしていた。

 だから、母が家に女性を連れてきたのにはひどく動揺した。それまでまったくそんな気配を見せなかったのに、本当に突然現れたから。その人はその日を境に度々家に来るようになって、母はどんどん活力を取り戻して行った。私も何度か話したが、素敵な人ではあったのだと思う。

 けれど、二人の関係が変化していくのを盗み見た時、私は激しい裏切りにあったと思った。母が生き生きとしていくのは嬉しかった。母はもっと自由になって良いはずだった。それは、母にとって救いであったに違いなかった。……にもかかわらず。

 どう思い返しても、許すことができなかった。あの人の視線には慈しみがあり、母の言葉には私に向けるものとは違う愛があった。母はあの人の前でだけ、親としての役割を脇においていた。

 まるで、私の努力や存在が、いかにちっぽけかと思い知らされたようだった。

 私だけの母は死んだのだと思った。それからと言うもの、私は可能な限り母を避け、母の言葉で語るのを拒絶した。あの人は変わらず母を訪ね、私が高校生になってからは、気を遣ってか家ではなく外で会うようになっていった。それが余計に、腹立たしかった。

 幼稚なエゴだと自覚はあったが、父や母のような失敗・・を繰り返してはならないと強く思った。今でこそ、私が母に対して無力感を覚えたように、母は父に対して、父は家族に対して同じような想いでいたのではないかと考えられるが、当時の私にそのような余裕があるはずもない。結局、大阪の大学に入って茉都香と暮らし始めてからも、幸乃と暮らすようになってからも、家に帰ることはなかった。

 そして今年、母は脳梗塞で倒れ、発見が遅れてそのまま逝った。還暦を迎える少し前のことだった。

 今でも罪悪感が残っている。路頭に迷わず、正しく嘆き、「行かないで欲しい」とより良い形で伝えたかった。

 そう、同じことを、何度も何度も願っている。



 近畿都市圏中央ターミナル──旧大阪駅から、電車に乗って京都まで。そこから幾度かの乗り換えを経れば、故郷へと辿り着く。最後に乗った電車は事前の予約に応じて運行される自動操縦の一両編成で、貸し切り状態のまま、私はゆったりと車窓から覗く景色を眺めていた。

 帰郷するのは半年ぶりとなる。最後に来たのは母が死んだ時。季節はまだ春で、慌てて買ってきた喪服が嫌に重たかったのを覚えている。幸乃は『一緒に行くよ』と言ってくれたけれど、私はそれを断った。未だ膿み続ける確執を、これからの生活に持ち込みたくなかったからだ。

 父が葬儀に来ることはなかった。連絡を絶ってから、五年以上が経過していた。

 今となっては、どこで何をしているのかも、私にはわからない。

 街を離れると、胸を打つ空虚は肌を這う寒さに変わる。コートのポケットに両手を埋め、肩を窄めて息を吐く。

 第二次ダフネ禍は、過疎地や少子高齢化の進む地方都市を、緩やかに、けれど確実に滅ぼして行った。私の故郷も例に漏れず、母が死んだ段階で住民は二百人を切っていたという。福祉などのインフラは正常に機能していたというが、私には緩慢な自殺をしているようにしか見えなかった。

 私が住んでいた頃には活気のあった駅も、すっかり寂れてシャッターに覆われている。降りたのは私だけで、広い駅舎も無人となり、自動案内ロボットが駆動の時を待って項垂れていた。前回使用されたのはいつなのだろう。もう案内すべき場所が残っているのかも、彼にはきっとわからないはずだ。

 駅前のロータリーは、ひび割れたタイルの隙間をまばらに伸びる草が埋め、人気のない通りが真っ直ぐに続いている。靴裏の擦れる音は風に攫われ、やっているのかもわからない雑貨屋や飲食店が、閉ざされた扉の奥にわずかな明かりを灯していた。

 私たちが住んでいた団地は、駅からほど近い場所にある。適切な方角に身体を向け、わずかに上を見てやれば、それらしきものが目に入る。十三階からなる個性に欠いた扁平の建造物が規則正しく連なっており、荒涼とした空の下では、それもどこか異様に映る。

 団地の脇に出るまで、歩いてさほどもかからない。近づくにつれて団地の全貌はくっきりと現れ、一方で俯瞰の景色は減退していく。加えて、道に沿って侍る街路樹の、その色褪せた幹と枝のうねりは、まるで背伸びする歪んだ骨格標本のようで、一帯の荒廃と忘却の印象を加速させていた。

 アスファルトの青褪めた歩道では、先客というべきか、老年の女性が一人、団地の棟を見上げて佇んでいた。鍔の広い帽子を被り、全身を暗い色で覆うさまは、喪に服しているようでもある。先の住人が昔懐かしさから戻ってきたのだろうか。表情は帽子の陰に隠れて、遠目にはわからなかった。

 団地の敷地の周囲は、柵によって高く隔たっている。工事のマークが等間隔に続くが、その内部で作業が行われた形跡はない。母の死から間もないうちに、住民は皆退去し、解体も改築もできない遺物だけが残されることとなった。これをどうにかするだけの余裕はどこにもなく、もはやこの街も世間から隔絶されている。再生の見込みもないままに、なだらかな曲線を描く崩壊をただ待ち続ける以外には、もはやどうしようもないのだと思う。

 四号棟七階の、左から三番目。それが、私の記憶にある実家の位置だ。道路に面していたこと、この辺りでは団地の棟が最も高かったことも相まって、私の家のベランダからはそれなりに遠くが見渡せた。三畳あるかないかの小世界でも、幼い私にとっては大きな世界への接点だったのだ。

 自立する以前の子供にとって、家庭は世界のほとんどすべてを意味している。そのように論じられるが故に、家が安全な場所であることが重要であり、同時に外へと世界を広げていくことにも意味があるのだと、私たちの論理は展開される。仕事によって対象化された家を見て、子供と親を見つめていく。しかしその間には設定された壁があり、私と彼らは区別されて、それ以上のことはない。

 形式によって守られるものがある一方で、それではどうしようもないがのある。その代表格とは私自身の問題であり、私個人の歴史そのものだ。

 あの家に住んでいた時のことを思い出す。

 朝目覚めた時の食事の匂い。窓辺の日差しの温もりに、夕暮れ時の哀しげな色。夜の闇と月の陰りに、夜風の香りと私の名呼ぶ母の声。

 学校と家を行き来しながら、時折近所の複合商業施設に出かけては、映画を見たり食事をしたりするのが私の日々のすべてだった。かつての私の小世界はそのように構成されて、そのパターン自体には不満も不足もありはしなかった。漫然と悠然と、憂鬱な時間を食いつぶす以外を知らなかったというのは大きいが、それを一種の適応として見ることも可能ではある。

 十四歳のあの日まで、私は父とも母とも良好な関係を築けていた。葛藤に対して私は自身のそれを言葉にしないように努めていたし、母はじっと耐えることを選び、父は回避的な言動に至りやすいパーソナリティの持ち主だった。つまるところ、それらが偶然表面的な釣り合いを取ったというだけの話なのだが、和やかなやりとりをすることも多く、私はそれで良いのだと思っていた。その形が歪さを孕んだギリギリの均衡であったと気づいたのは大学で専門的なことを学ぶようになってからで、その発見は、私が親や家の文化、故郷の言葉に対して忌避的に振る舞うことを加速させる一因となった。

 これまでのあらゆる記憶が沈鬱に塗り潰されて、私は東へ逃げ出した。そして今度は、これから先に訪れるであろう喪失を恐れて、西へと逃げ帰ってきた。

 現実を受け容れ難く、不安に耐えられないのはいつも私の方だった。

 父も母ももういない。清算と決別を、私はそろそろすべきなのだと思う。


 最初に気配があり、その後に足音が続いた。私は古びたガードレールに腰かけ、黙ったまま棟と空を見つめていた。

「──すっかり寂しなりはったねえ、ここも」

 そうですね、と声に出すと、女性は少女のようにくすりと笑う。声は私ではなく団地へと向かい、過去に対して告解するように言葉が続く。「私な、ここに最後までしがみついとったんよ。でも、半年くらい前にいよいよ引き剥がされてもうてな。二十年の住処がのうなって……」

「……寂しかった?」

 そりゃあもう、と女性は言った。ガードレールが軋み、隣に座ったのだとわかった。

「ほんまはね、別のとこにちゃあんと生活できる場所借りとったさかい、ここには心安めに来とった、というべきかもしれんけどね。こん場所が私は好きやったよ。通ううちに、なんや愛着湧いてもうたんやねえ」

 声の端々には郷愁が宿り、積み重ねた生活の年月が醸成したであろう慈しみにあふれている。一切は懐かしき記憶、もう届かない過去の光となって、今の自分の確からしさを、その輝きによって補強するかのように。

 この場所以外での歴史を父や母と築いてこなかったという後悔と罪悪は、そこに至るまでを私が選び、他の選択肢を見てこなかったことの証左でもあった。私が捨て、私が殺したものがあり、その可能性はとうに潰えている。亡骸さえも、私はまともに見て来なかったのだ。

 未だ抱え得ぬもの。それが生の歳月によって育まれるのか、この歳になっても、私は確信を持てずにいる。

「こう言うと、自慢に聞こえるかもしれへんけど──」

 沈黙を経て、女性が再び口を開いた。耳を傾ければ、確かに少し、得意げではあった。「小説、書いとるんよ」

「小説、ですか」

 鸚鵡返しに口にすると、「そお」と間延びした声が返る。

「今世に出とるやつのほとんどは、ここで書いたんよ。四十とかそこらん頃、どおにもならんようになってもうてね。休むか、新しことせなあかん思て、ここに来たんやわ。そんで、しばらくふらふらしとってんけど、ええ人に会うてな。親友……みたいなもん、かな。今も書けとるんは、そん人のお陰。もう、亡うなりはったけどね。倒れてはるん見つけて、通報してんけど、あかんかった。まだ最近のことや」

「……その人のために、ここに来るんですか」

 女性は自嘲気味に笑ってから、「そないたいそうなものやあらへんのよ」と言った。

「ただ、あん人と話したこととか色々思い出すとな、楽しかったぶん、寂しなるし、辛くもなるけど、ほんでもなんや、やる気ぃ出るさかい。老いてもまだやらなあかんことぎょうさんあるわ、て思い出す。そんために来る。自分んためにね」

「その人は……」

 子供がいたのか、と反射的に尋ねようとして、ぐっと言葉を飲み込んだ。俯き、それは適切な問いなのかと、わけもなく不安になる。未知であることの恐怖だと思う。けれど、その未知こそが私をここへ連れてきたのだと思い直して、私は言った。「その人は、子供がいたんですか」

 女性はしばらく何も言わなかった。そこにどのような感情があるのか、私はあえて考えようとは思わなかった。

「おったよ。一人、娘さんが」

 ややあって、女性は言った。

「顔はもうわからんけど、あん人が時々、『私の天使が』なんて言うてたのをよう覚えとる。娘さんがおらん時、聞こえないところで、眉を下げてね」

 それから迷うように間を開けて、言葉を続けた。

「私は今も子供はおらんけど、ある時、子供んことの話になって。私がどうなんやろ、て言うたら、あん人はこう言うたんよ。『まるで呪いや。天使がくれた綺麗な呪い。こん場所で生きるのに、必要な呪いや』って」

 私は、思わず呻いている。

 天使の呪い。現実に繋ぎ止め、磔にする呪い。

 その言葉に籠るもののいかほどを、私は理解できるだろうと考える。習俗が、信念が、言語が、教育が、他者との関わりが、世代を跨いで人を呪い、同時に祝福をもたらしていく。生き苦しさの枷として、生きていくための支えとして。

 ルビンの壺の、曖昧なシルエット。その印象こそが私を裏切り、希求した母の表象を殺し尽くしてしまった。そこには私が定める罪があり、けれど、幼い私のエゴもまた明らかだった。

 いかな理由も意味を失い、人を疎んだまま生きていくのかとずっと考えてきた。正しく向き合うこともできず、間違い衝突しすれ違うことすら選ばないのに、どうして許すことができようか。保留と諦念の重なりに、私は自分を手ずから追い込んでいたのだと思う。

 しかし、ここに来て初めて、何もかも虚妄に成り果てたのだと思い知らされる。

 許し以外の道を、私は自ら捨ててきたのだと。

 私はただの呪いでなしに、他者の糧になっていたのだと。

「すっかり付き合わせてもうたね」

 隣を見ると、視線が合った。皺の刻まれた目元が瞳を細め、柔らかな微笑みを形作った。

「〆切前の、ええ息抜きになったわ。ありがとう」

 またね、と言って、女性が背を向ける。私は逡巡してから一言、

「お名前を伺っても?」

 彼女は半身で振り向くと、秘密めかして、このように。

「──分島。分島鉋わけしまかんな。次会うたら、またお話ししましょ」

 遠ざかる背を私は見送る。かつて幻視した甘い香りは、流れる時の凍える風に消えていく。


 思い出されるのはいつも、曖昧な映像と、ざらついた感情のディティールばかりだった。一つ一つはまとまりを欠き、離散してしまって文脈も持てない。それは意味もなく漂う亡霊で、息を吹き掛ければ即座に霧散する煙のようなものでしかない。

 けれど、情動は映像を牽引し、喜怒哀楽のうちに記憶を宿す。大切なものの遺物を前に、私はこのちっぽけな頭で過去を体験し、幸福や安穏だけでなく、怒りや憎しみさえも発見する。宙ぶらりんはおしまいにしよう。そのために私は過去に来たのだから。そう言って自らの内奥に手を伸ばし、赤子のように身を丸めたわずかな愛おしさを、大切に大切に抱きあげるのだ。

 荒廃の予感は連綿と続くけれど、そこに織り込まれた願いの糸は、先を行く天使たちに編まれ続けている。母が灯した夕陽はとうに落ち、私の空には残照が満ちる。私はこの熾火を陽光に変えて、どこかの誰かに託すだろう。

 天使の呪いを繋いでいく。

 そんな手前勝手な空想に生かされて、私たちは過ぎ去ったものと決別する。

 さようなら、お母さん。

 これから何度でも、私はそうしてあなたの残り香を手放すでしょう。

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