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翌日も、茉都香は結局帰らなかった。私は食料品店で見繕った弁当と惣菜をアルコールで流し込み、〈現子槽〉の魚を眺めては、ベランダに出て煙草に火をつけた。日中の冴え冴えと澄んだ青色は、入り組んだ都市の迷宮を前にしても衰えることがなく、紫煙を次々に飲み込んでいく。安易な代償行為は気持ちがよかった。私に酒と煙草の味を教えた茉都香は、仕事に支障をきたすことを気にしてほとんど口をつけなくなったようだが、こうしていると彼女と寝食を共にした日々が思い出された。
基幹集積都市構想が生まれる前の二〇三六年から大学院卒業までの六年間を、私は茉都香と同じ部屋で過ごしていた。ニーズの一致から偶発的に始まったルームシェアだったが、私たちは互いを励ましつつ息の詰まる時をやり過ごし、誕生日や年末年始を共に祝った。当時はまだ、二〇二七年の春に始まり二〇三〇年末まで続いた第一次ダフネ禍の爪痕が残る中、経済復興と社会システムの変革が声高に叫ばれ続けていた時期だった。対人援助職の需要はうなぎ上りで、それは心理職を志した私たちにとっては大きなプレッシャーにもなっていた。だから、仕事の面において茉都香の存在は私を支える柱となって、職業柄幸乃に話せないことについては、卒業後も茉都香を頼ることになった。
彼女は私と同い年だったが、私にとってはどこか姉のような存在でもあった。彼女は物事の楽しみ方をよく知っていて、私をよく導いてくれた。バーに行ってみたり、まだ辛うじて残っていた地下の小さなゲームセンターで遊んでみたり、煙草の銘柄を
報告書をどうにか書き上げ、〈医石〉を通して茉都香に送る。返事を待つ間、気が抜けたのか、異様な気怠さが全身を襲った。私は椅子に腰かけたまま、緑色をしたナンヨウハギの親子を眺めている。
眺めていた。
重ねた手の中で、細い喉が艶かしい蠢きを見せる。
二人の汗が混じり合って滴り落ちる。歯を食いしばり時折喘ぐように口を開く様は、私に噛みつこうともがく獣にも見える。傍らに投げ出された眼鏡はフレームが歪み、いつ傷つけたのか、頬に微かな痛みが走る。
「ぐ、ぃ」
呼吸と嚥下を求めて、包み込んだ皮膚が
彼女はどこか諦めを滲ませて、抵抗は乏しかった。解けた髪は床に絡みつき、膝で押さえつけた腕に強張る以外の動きはなく、腿には肋の硬質な感触が無感動にこびりついている。明かりを消した部屋は色濃い影を落とし、巨大な怪物がいつか私たちを飲み込むのではと錯覚する。そうあって欲しいと私は願い、しかし現実がそれを許容しないことも、私にはよくわかっていた。
「あんたも、私を置き去りにしてまうんやろ」
迸る焦燥が、雨となって窓を打つ。ざらついたノイズはすべてを不明瞭に霞ませる。どこにもいかないでと私は叫び、放逐の恐怖に犯されながら、失うことに怯えている。だからこのように考える。だからこのようにして、磔にする。
虚な永遠でも構わなかった。ただ、約束された平穏が欲しかっただけ。
どうして、こんな風にしかできないのだろう。
激しい雨の音がする。
「……陽織、陽織」
顔を上げると、茉都香の姿があった。わずかに濡れたコートからは、うっすらと湿った匂いがする。彼女は不安げに眉を曲げて、視線が合うと表情が緩む。「寝とったん? こんな電気もつけんで……」ぐるりと天井を指差し、私はぼんやりと視線を動かした。
耳朶を撫でる音につられて窓の外を見ると、あれほど鮮明だった都市の景観は崩れ去り、降りしきる線の連なりに埋もれていた。この光景は現実だろうかとふと思い、確かめるように茉都香を見上げた。彼女はわずかに首を傾げてから、「外? 急に降ってきよってな。あれだけ晴れてれば平気やろ、なんて思っとったらこれや。予報は信じた方がええな」と口の端を上げて笑った。
「……なぁ、茉都香」私は靄のかかった頭のまま、茫然と彼女の名前を呼んだ。考えるよりも先に言葉があり、口をついて出たのは、とうに終えたはずの疑念だった。「私は今、どこにおるんやろな……」
沈黙があった。茉都香は動揺したように目を数度瞬かせ、私をじっと見つめてから「陽織……」と呟いた。
「……アンタ、自分ん言葉嫌ってたやろ。大学ん時から頑なに、
何があった? 茉都香が問いかける。私は真っ先に、わからない、と口にしかけて、息を止める。
……私は、何と言った?
私は、何を求めて言葉を選んだ?
私……わたしは、本当は、何が欲しかった?
虚ろな妄想が、私をここから引き離す。鏡写しの虚像のように、引き裂かれた私がもう一つの頭で幻想する。
見たことのある見たはずのない光景が、目蓋の裏で弾けていく。
埋没する指の熱と大阪の賃貸マンション。血溜まりと多摩の新世団地。サイレンの響く京都の団地。
日中、和やかな食事の風景。
耳鳴りの奥で、存在しない声がぶちぶちと断裂する。陽織、陽織、と私を形作った人たちが重なる声で調和する。幸乃、茉都香、そして父と母が、時を超えてなお人が病み続けるように、私の名前で、彼らの言葉でわたしを呪う。私はわたしを見失い、日の沈む世界で昏迷する。どこに行けばいいのかもわからずに泣きじゃくりながら、混じり合った言葉たちの意味と音が生み出した歪んだ稜線を思い描く。
必死になって押し殺してきた想いがあった。見ないふりをしてきたわたしがあった。
言葉は感覚のスイッチだ。オフにしておけば、記憶を実感せずに生きていられる。
私はあの人たちとは違う、別人になれるはず。
そんな非現実を、私はどこかで欲していたのだ。
目が眩む。茉都香を押し除けて、トイレに駆け込んだ。
「っぉ、げ、え……」
ごぼ、と吐瀉物の塊が、突き出した舌に沿って水の中に落ちていく。饐えた悪臭と滲む涙は、生理的な反射か、私の心が流す血か。
背中をさする冷え切った手の感触さえも、最早何も、わかりはしなかった。
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