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 ご飯できたよ、と呼ばれて、私はテーブルに向かって行儀よく座る。専用にあつらえられた少し高めの椅子は、私の手がご飯にちょうど届くようになっている。台所で料理をするお母さんの背中は大きい。今日はお父さんもいる休みの日なので、いつもよりご機嫌な感じがする。お母さんがご機嫌だと私は安心するし、私も嬉しい。あまり広くはないけれど、部屋の中も普段よりちょっと明るくなる気がする。暗いのよりも、明るいのが好きだ。みんなそっちの方がいいに決まっている。

 少しすると、お父さんがのそのそとやってきて、「ええにおいや」と言って席につく。お母さんが近くのお父さんにお皿を渡すと、私の前にも料理が並ぶ。温かな湯気に鼻先が湿って、お腹がきゅっと小さくなる。お腹が空いている時の合図だ。グゥ、と鳴るのはもっと空いている時。

 お母さんが前に座り、私のことをにこやかに見つめる。お父さんも私を見ていて、私も二人を交互に見つめていく。「それじゃ、手ぇ合わせて」パチン、と手を叩き、「いただきます」いただきます──

 ──人が床に叩きつけられる独特の音が薄暗い室内に響く。慌てて飛び出すと床に臥した母の姿があって、私は焦燥のままに呼びかける。「母さん、母さん!」微かな呼吸だけが聞こえて私はどうすればいいのかパニックになりかけながらどうにか携帯端末を取り出して番号を入力し叫ぶ「母が倒れとって」医療に従事しておきながら肝心な時自分のことになるとどうしてこうもダメなのだろうと必死に考える。母さんが、母さんが。どうしてそんなに大事なのかもわからない老いた女を見下ろして私は思う。どうしてこの女がここにいてどうして私がここにいるのだろうとぼんやり思い、私はこの光景を知らなければこの人の死すらも遅れて知ったじゃないかと気づいた頃には、高層にあるはずの窓辺を赤い光が突き刺して、遠くでサイレンの音が聞こえている。



 気がつくと、医務室のベッドでぼんやりと身を起こしている。軋む身体を動かして時刻表示に目をやると、あれから一時間が経過していた。

 私はどうやら、槽内部で突然倒れたようだった。常勤の医師から説明を受けたところでは、精神的な動揺による酔いのようなものだろうとのことだ。ただ、影響がどの程度のものかはわからないから、しばし安静にするように、とも釘を刺された。「ようなもの」「わからない」なんとも曖昧な表現だった。〈現子槽あんなもの〉を使っておきながら妙な話だと、微かな頭痛に瞑目する。

 失敗したことははっきりと覚えている。今までになかったことが続き、相応の動揺が胸中を巡った。どうすればよかったのか? 答えは出ないが、よくない状況が最悪の形で重なったことだけは、どうにか理解ができた。

 茉都香は事後処理で走り回っていたようで、医務室に入って私の顔を見るなり頭に手をやって深く息を吐いた。「……妻藤愛理は?」一番気がかりだったことを尋ねると、彼女は眉間に皺を寄せつつ言った。「無事や。脳波も探索前とそう変わっとらん」

 ベッドから身体を出し、縁に腰掛ける。茉都香は立ったまま、壁に背を預けて私を見下ろしている。

「何があった?」

 彼女は足を組み替えて静かに言った。当然聞かれるだろうと思い、考えていたことだが「わからない」他に言いようもなかった。「何か、私の中で、問題が……」把握できる限りを言葉にしようと喉を掻く。「私の……」

 茉都香が髪を撫でて呻く。どうしようかと悩む顔だと思った。「……ごめん、うまく説明できない」

「わかった。今は無理せんでええ。今日はもう何ができる状態でもなさそうやし、具合回復したら先帰り。ウチは今日帰れるかわからへんけど……」

 ごめん、ともう一度口にすると、彼女は苦笑して、「一応こないなことも想定はして組んどるから平気や。もう手は回した。数日間を空けて、もっかいやる。それまでじっくり考えればええ」

 去り際、引き戸を開けて廊下に半歩踏み出しながら「しっかり休みや」と彼女は言った。カタン、と扉の跳ねる音が、場に似合わない軽々しさで、室内に響いて霧散した。


 *     *


 最寄りの地下鉄を経由して茉都香の家に帰る。玄関の扉を閉じた途端に膝が折れそうになって、慌てて踏ん張った。何もかもが重く感じられて、肉体を脱ぎ捨てたいと本気で思う。

 自動で一度点いた電気を手動で消した。光の消えた室内は、昔から不思議と落ち着いた。誰もいない静けさは私を一人の王にして、その権能によって独裁と横暴を許容する。灰色の寂寞が孤独に力を与える──そのような肉感を象徴として祀り上げ、押し寄せる不安を誤魔化してきた。けれど今は、その虚栄さえも衰弱し、私を奮い立たせてはくれなかった。

 心を整えようと開いた本の内容も、まるで頭に入ってこない。幸乃ゆきの……読書家の彼女が「きっと気にいる」と渡してきたフィクションも、今はその暗い色彩を失って、ただ荒涼と色褪せて見える。ひどく退屈で、鬱屈として、脳味噌の奥深くが、得体の知れない穿孔へとゆったり落ちていく気がする。

 どうして、という言葉が頭から離れない。

 あれはなんだったのか。なぜあのようなことが起きたのか?

 目が覚めてからずっと、明らか過ぎるほどに明らかな問答を、時間稼ぎのためだけに延々と繰り返している。今ここにいない亡霊たちの囁きに耳を塞ぎ、私は知らないと譫言うわごとのように呟いている。それがどれほど愚かなことか、私は理解しているはずなのに。

 自分が見た光景が、つくられた現実なのか頭蓋の中の閉じた妄想なのかも、判別がつかなかった。避けてきた母の姿があり、母の死にまつわる決定的な場面があった。裏切り、失望、そして怒り。あの茜色は、私の怒りの炎だったのだろうか?

 記憶は朧げで仔細は定まらず、観測される限りにおいて真実は揺らいでいる。信じていたのに、と幼い私は絶叫し、肋の中の冷たい空洞に、大切なはずのものが崩れ去ったのだと知る。私が母を殺した日──母を奪ったあの女性ひとのことを、私は未だに知らないままだ。

 じくじくと膿み腐るように脳が痛んだ。私は椅子から転げ落ちるようにして、床にへばりつく人型の染みになる。いつもの私、普段の私に戻るようにとどれほど念じても、心に馴染む分岐器の感触はどこにもなかった。伸ばした手は中空を掻き、震える身体を抱くしかない。

 西日が窓辺に差し込んで、緩やかに落ちていく。微かな温もりが投げ出した四肢をなぞり、活性化した家庭用〈現子槽メタリアリウム〉の内部では、小さな熱帯魚たちが戸惑うように旋回する。胡蝶の夢。彼らは夢と現実のあわいを自在に泳ぐ。私は槽に反射する燃える色彩に目を細める。

 魚になりたい、と思った。

 曖昧な存在でも構わなかった。ただ、どこにも行けないような無為な閉塞から逃れたい一心で、歪な空想に縋っていた。


 不意に、床に放った携帯端末が振動し、その薄い画面に名前を示した。

 蓮橋幸乃。今は遠い、私のパートナー。

 画面に触れるとメッセージアプリが起動して、一面に類似のパターンを描く応酬が現れる。その最新の一幕で、彼女は周期を外れた言葉を残していた。


〈いつ帰ってくるの?〉


「……わからないよ、そんなの」

 苦し紛れの掠れた声は、誰に届くでもなく姿を消した。詭弁だとわかっていた。私という存在の需要を鑑みても、必要があれば、関東に戻る算段は幾らでもつけられるはずだった。でもそれをしないのは、頑なに選択せずにいるのは、他ならぬこの私なのだ。

 知り合って八年、一緒になってもう四年が経つ。年甲斐もなく無邪気に過ごした日々があり、死者を悼むように過ごした日々があった。浮かれた甘やかさを享受して、唇の温度で互いの実在を確かめ合った時があり、背を向けて沈黙に埋もれる時があった。休日、新世団地の夕暮れを静寂の中で共に感じた。彼女が好きな滅びゆく世界を体現するように、未来を失った希望の残滓が微かに匂っていた。

 決定的なことは、一年半前の決意から既に起こると定められていたのではないかと、根拠もなく疑っている。

 人工代理母技術による出産を二人で決めた時、私たちには願うべき理想があり、追い求めるべき輝きがあった。互いの血からつくられる生命の息吹になんと名付けようかと語り合い、現実的な問題について額を寄せ合って検討した。感情豊かで笑顔の愛らしい彼女は「私たちの天使が来るね」とどこか夢みがちに呟いた。

 子供をつくることにはずっと抵抗があった。それでも、彼女との間に生まれるのなら、きっとやれると空想した。目の当たりにしてきた数々の破綻と崩壊を振り払っていくのだと心に刻んだ。同じ過ちを繰り返さないように、遍在する悲しみと痛みに囚われないように。擬似子宮の中で育っていく胎児を遠隔で眺めるのが私たちの習慣になり、顔を見合わせて「動いた!」とはしゃぐのが楽しみになった。

 そうやって一年近くが流れていき、間も無く予定日だという頃に、胎児の姿は無機質な子宮の中から消えていた。母が死んだ矢先のことだった。

「残念ながら──」

 向かった先で語られたことの多くが抜け落ちている。稀に起きてしまうということ、もう一度できると説明されたことは覚えているが、耳に残るのは「そうですか」と口にする自分の声ばかりだった。そうですか。それはご愁傷様でした。きっとお辛かったでしょう。

 幸乃は泣いていた。何が起きたか理解した瞬間からずっと、顔が歪むのも構わずに彼女は泣いていた。私は彼女のようにはいかなかった。そうですか。そうですか。駆け寄ってきた彼女が肩を掴んで言う。「ねぇそうですかってなに⁉︎」耳にかけていた前髪は滑り落ちて顔の右半分を覆い、左目は潤って頬には涙の線があった。やるせない感情の昂りが彼女をそうさせたのは重々承知していた。彼女が私に期待した連帯が今まさに裏切られようとしていることもわかっていた。でも、どうにもならなかった。

「もう、終わっちゃったんだよ、幸乃」

 私はそう言って、目を背けた。

 同じ言葉で話したかった。同じ意味で、同じ音で、いつか違う私をつくれるように。呪いと無縁の私でいられるようにと、幾度となく夢想した。そうすればもっと理解できるかもしれないと、幼い私は願っていた。

 でもね、幸乃。

 わたし、どうすればいいかわからないの。人が死んでしまったとき、人が苦しんでいるとき。

 本当は、どうしたらいいのか、わからないんだよ。



 生温い血溜まりの中に爪先を浸している。

 袖に貼りつく不快感と右手の重みが現実を証明し、光の消えた居間にぼんやりと佇んでいる。いつもと変わらない日暮れの質感がそこにあり、唯一鮮明な滴りは、勢い余って絵具をぶちまけたようでもあった。テーブルの上には紫色をした季節外れのヒヤシンスが球根ごと生けられて、横倒しになったガラス容器から水と一緒にこぼれていた。

 手にはまだ、服を裂いて皮膚を破って肉と内臓をかき分けていく生々しい感触が残留し、彼女が好きだった爽やかな香水の香りが鼻先にこびりついている。くずおれる前、重みを増す身体を抱きしめた時の柔らかな強張り、穏やかな温かさ、そして髪と首筋の合間を伝う汗の味を覚えている。艶やかな音階を刻む苦悶の吐息も、形の整った爪の感触も、私はきっと忘れることがない。

 燻る疎ましさと愛おしさ、諦念の底を私の怒りが泳いでいく。すべての母になり得たものたちが行き場を失って衝突し、まぐわうように絡まり合ったまま死んでいくのを目の当たりにする。

 私は魂の不具。彼女のように、私もなりたかった。



 いつの間にか夜になっている。床の上で白昼夢でも見ていたかのように、時間は連続性を失って点々と連なっている。携帯端末の中、幸乃へは「わからない」と一言送られていた。

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