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ベランダに続く窓を開けると、緩やかな風に乗って、鉄にも似た独特の空気が微かに匂った。火をつけた煙草の煙は呼吸する都市の風に靡き、虚ろな暗がりに霧散していく。
無軌道な自生と繁殖を思わせる高層建築の連なりの中を、青白い光の波が揺れている。不規則な山嶺の裾野では、賑やかな声に混じって
記憶が都市に宿るなら、そこから出れば良いのだと思っていた。
そうして一度は過去から逃げ出し、今度は未来からも逃げ出して、ここにいる。
今も昔も、同じような夢を見る。
幻からの逃走、空間からの脱却、最果ての安穏、ここではない、どこか。
関東都市圏を出て、中央高速軌道で近畿都市圏へ。半年ぶりの大移動は、憂鬱と不和を端緒に計画された。
あれからもう一月になる。パートナーの
そして私は彼らの不在を知る。自分が何も持っていないことを、言葉によって知らされる。
煙草の先端が赤熱し、うねる灰が手に落ちる。払い退けたその後には、黒ずんだ印が残る。瀉血しても消えることのない呪いのように、頭に刻まれた烙印のように。
「眠れへんのか……」
振り返ると、布団がもぞりと盛り上がり、顔だけを出した
「ごめん、もう寝る」
誤魔化しの笑みを貼り付けて、残り火を灰皿に押し付ける。ジ、と微かな音を立てて、最後の光が消える。
「もう寝るよ」
言葉はまじない。反復は呪い。気がつくと同じ歴史を繰り返し、幾度の懺悔も悔悛も意味をなさない。この身体に根付く血が耳元で囁いている。お前はこのようにあるしかない。お前はここから逃れられない。寄生する彼らは宿主の口を借りて言葉を放つ。私は涙を浮かべて
パブロフの犬はもう死んだのに、私たちはまだ声の牢獄に囚われている。
* *
「いくで、
洗面所から顔を出した茉都香に頷きを返し、開いていた本を閉じる。「今日は何読んでん」「
壁際に据えられた試作型の家庭用〈
灰を一面に塗りたくったような硬質な部屋は、都市恒常性維持管理機構〈
廊下からはコの字に折れ曲がった棟の反対側が見え、堅固に閉じられた薄い水色の扉が並ぶ。あのうちのいかほどが内部に人を擁しているのかは今になってもわからない。茉都香も知らないと言うが、彼女の場合は帰宅事態が稀なので、参考例としての価値には疑問が残る。
これら一連の構造は同型の他五棟にも見られるもので、棟の集合は〝
しかし今となっては、その近郊部も拡大する都市の風景に飲み込まれ、第二次ダフネ禍を経てからは多くの住人が団地を去った。かつては家族単位での入居のみを受け付けていたがそれも変わり、私と幸乃も多摩にある新世団地の一室を借りていた。
空き部屋の暗がりは生活光を上回り、反響する靴の音はどこにも届かないまま消滅する。「寂しい場所や」と茉都香は言い、私は「そうだね」と答えて彼女の後を追っていく。
車両に乗り込み、茉都香がハンドルを握る横で、送られた資料をスライドする。
「どない、今回は」
私は視線を落としたまま首を振る。「難儀だなとしか」
手にしたターコイズブルーのタブレット──循環型連合素子〈
現時点で担当する可能性があるのは三人で、全員未成年。若年のクライエントは終結まで時間がかかるケースが近頃増えてきており、その辺りの最近の動向を考えると、あまり気楽に構えてはいられない。
名前、顔写真、生育歴、既往歴等々、現時点で入手可能な情報は一通り手に入る。逐一想像を巡らせながら厄介な部分を繰り返し見つめていけば、時には共通項が見えることもある。
診断。象形離散症、高次構想不安症、強度遊離性昏迷。
使用言語。
「やっぱり、これ……」確認の意を込めて黒縁眼鏡の横顔を見る。年齢、言語、診断された病名。連結するには、これだけでもう十分だった。
「
道の先を見つめたまま、ため息混じりに茉都香が応える。「その典型やな。みんな仲良く
背後から救急車両のサイレンが鳴り響き、音を置き去りにして駆け抜けていく。私は目に焼きつく赤い瞬きを見送って、今後の流れを思い浮かべる。
すでに確立されたものとして
高リスク状態では、急激な負荷、ストレスによって一気に精神疾患を発症し、重症化する恐れが出てくる。私たちはこの状態を〝
私が近畿都市圏に呼び出されたのも、そういった背景が関連している。人手不足は今も昔も変わらないが、今回は先端技術を扱う関係から、私でなければならない理由があった。
資料を読み込み、チームのチャットを立ち上げて、音声入力をオンにする「提言。
「ええ判断やと思う。昏迷は分析の比重がイチバン重いからな」
妻藤愛理、十四歳。京都の新世団地在住で、地元の公立中学に通っている。個人の既往歴は、幾つかのアレルギー性疾患と季節の感染症の他、内科で胃腸炎の診断が出ているくらいか。手術を要するものはなく、精神科医療の適用もない。
「昨日
「長くなるよ、これ」
私が言うと彼女は「せやろなあ」と笑った。「これまでのことから考えると、昏迷の回復に十回、そん後二十回はやりつつ支援計画決めて、あちこち手ぇ回して……」そこで区切り思案するように間を開けてから、「毎度のこととはいえ、途方もないこっちゃな」と膨らませた頬から空気を吐き出して、言った。
先端精神科学研究センターは、高層建築物の山間に複数の建物が接続して形成されている。受付や事務局のある中央棟と、それを取り囲む背の高い三つの研究棟。加えて、台形の実験棟が二つ。目的の場所は、第二実験棟内部に存在している。
「セッティングは完了しとるそうや。着いたらすぐやるけど、ええな」
頷き、先を行く背中を追う。一度地下通路に入り、出た先はもう第二実験棟だ。入り口で茉都香が認証を済ませ、私は臨時職員用IDで通過する。棟内部はいくつかのブロックにわかれており、そのうちの一つが〈投影分析区画〉となっていた。三度扉を開けた先に〈
「箕作君」
他の職員とやりとりをしていた男性に茉都香が呼びかける。彼はそれに顔を上げると、話していた職員に断りを入れる仕草をしてから小走りに寄ってきた。「主任、お疲れ様です。先生も」会釈に会釈で返答する。箕作君は茉都香のチームの副主任を務めていて、たまに茉都香が帰宅する時はこうして代役を担っている。「優秀な副主任や」と度々自慢してくるほど、彼女自身信を置いている相手だ。
「早くから色々ありがとう。ほんまに助かるわ。よう眠れたし」
呑気に伸びをする様に箕作君は苦笑して、「ずっとここで寝泊りしはるのはどうかと思いますよ」と言った。
「愛理さんのことは牧田さんが見とります。あとは接続するだけです」
箕作君が私に目を向ける。同じように私の様子を見た茉都香は、小さく口角を上げて言った。
「ほな、始めよか」
準備室でフェンシングの防具に似た専用の防護服に着替える間、茉都香は観察室から無線で毎度の定型文をよこしてきた。『槽に入って〈現子〉の注入が始まったら、こっちからは何が起きとるかわからんくなる。音声は届くし、アンタのバイタルも観測可能やけど、そっちの状況把握は難しい。せやから、アンタが見たものは極力報告するように』嘆息が続き、『まぁ、釈迦に説法やけどな』と小さくぼやく。
「まぁ、万が一もあるから」
腕部の空洞に手を差し込みながら私は言った。何が起こるかは毎回想像もつかない。症状によって大まかにパターンは見出せるが、それだけだ。余計な先入観を抜くにしても、やってみなければわからない部分は常に多い。
時代の波に埋もれつつある古典的な理論や手法の方が、却って良いのではと思うケースは未だに存在し、同時にそれではどうにも道筋を掴めないものもある。時の流れ、社会の変容。それらに適応すべきは本来的に私たちの方であり、それをなくしては、個人と集団、環境が築く連環に手を伸ばすこともできなくなる。
仕事だから、と私は暗示する。それ故私は切り替わり、それ故私は滅びを知らぬ病たちと相対する。疲れ果てうんざりしたところで、逃げ出すことの叶わない頭蓋の檻で、膝を抱えて蹲る。
最後の接着部を確認し終え、〈現子槽〉へと進入し、マーカーで示された
指示が遠くで復唱され、槽内部の注入弁が開放される。そこから噴出するものに色も形もありはしないが、気泡が浮かぶ音と共に皮膚が泡立ち、私は状況の変化を自覚する。まるで存在を失くした霧のように、視界がぼやけ、曖昧になり、私の視線は塞がれる。視線が対象物の存在を規定するのなら、〈現子〉が真っ先に奪うべきものはに他ならない。
『変換開始。健闘を祈る』
獣の唸り声のような駆動音が内臓に響く。何も見えない。しかしそれも、今のうちだ。
爛れて腐り落ちたような夕焼けが、陰を貫いて滲んでいる。
ひっそりとたたずむ陰影は暗く黒く、溶け出した油彩画の茜色が、空を焼いて街を焦がす。炎の揺らぎに見えるのは、安定しない抽象の現れだろうか。目の前には果てのない廊下が直線に伸び、正面も背後も、延々と同じ景色が続いている。
巨大な生物の臓腑を思わせる廊下の奥で、無限の扉は沈黙し、茹だる赤色の渦に絡めとられている。建築物の拡張する構造に秘められた人の蠢きはどこにもない。
『また妙な構造に出たな。どないや』
茉都香の声に意識を引き戻され、奥にむけていた視線を手元に戻す。油断していると、現出している光景の異常性に文字通り心を奪われかねないのがこの手法の難儀なところだ。他者の心に触れることそれ自体が精神的な巻き込まれの危険を孕んではいるものの、視覚的に提示されることで得られる情報量は言葉とは比べ物にならない。再び気を引き締め、マニュアルに従って構成要素を並べていく。「種別は人工物。形態は住居、おそらく団地。色彩は鮮明、象形は部分的に融解。閉塞、自己完結、平面への拡張」
『混乱、っちゅうよりは、内部への抑圧か……』
即座の反応に肯定の意を示すと、先に進むように指示が下る。
耳を澄まし、目を凝らす。等間隔で並ぶ扉の前を二十ほど通過するが、これと言った変化は訪れない。音はなく、変形もなく、ひたすらに同じ景色が持続する。変わらないもの、歪まない日常。時間が移ろう気配もなく、ずっと同じ──いや。
一箇所だけ、異なる色の震えが見える。落日の色ともまた違う、生活の光だ。
「パターン変化。生活光、一」
報告しながら注視する。他の家が明かりを落としていることを鑑みれば、あれは大きな差異だと言える。単調なパターンの中に突然異なる事象が現れたら? それは掘り下げるべきものに他ならない。現実でも幻想の海でも、それは変わることがない。
接近すると、不意に一人の少女が出現した。件の部屋の前、髪を肩のあたりで切り揃えた、七歳くらいの女の子だ。こちらに背を向けて現れたが、私が立ち止まって見つめていると、振り返ってにこりと笑う。
笑ったように、感じた。……顔が暗闇に穿たれているにも関わらず。
硬直する私を意に介することなく、少女は滑らかな動作で玄関に駆け寄ると、背伸びをして扉を引き開け、柔らかな光の漏れる室内へと消えていった。
報告には『追跡せよ』が続く。当然、追わない手はない。
ゆっくりと接近し、扉の前に立つ。傍らには格子を隔てて窓があり、暖かな光が煌々と
「侵入する」短く伝えて、ノックをしないまま取っ手に手をかける。扉は軽く、すんなりと開いた。玄関には靴が三足。女性と、男性と、女の子。丁寧に揃えられて、手入れも行き届いている。傍の棚には小さな白い花弁をたくさんつけたカスミソウが生けられており、写真立ても一つ置かれていた。並んで座る三人の顔は、曖昧に霞んで、はっきりとしない。
廊下の奥からは楽しげな声が聞こえてくるが、言葉はうまく拾えない。足を踏み出し進んでいくと、徐々に聞き取れるようになってきた。「──ね、愛理」「ママは──」「ああ──」朗らかな笑い。穏やかな団欒がそこにあり、私はそれを目の当たりにする。
料理をする母親と、ソファでテレビを見る父親、テーブルで絵を描く女の子。なんてことない、平穏なワンシーンが平凡な絵画を思わせて描かれている。居間の入り口に立ち、私はそこで繰り広げられるやりとりを俯瞰する。
「オムライス大好きやもんね、愛理」
「ママは隣で、パパはウチを肩車や」
「ああ、そういえば、この水族館行きたいって前に言うとったなあ」
顔のない家族が、大切なはずなのに思い出しきれない体験をなぞるバグのように、幾度も同じやりとりを繰り返していた。吐き戻し、吐き戻し、ドロドロに崩れるほどに繰り返し。その円環がどこまで続くのかは、おそらく誰もわからない。
そこから見えるものは何かと、茉都香に伝えるためにも注意を巡らせる最中に、ふと──記憶の間隙を縫って、眼球の底を針で突き刺す痛みに囚われる印象が、心をよぎった。目が眩むほどの、強烈な
……私はこの光景を知っている?
思わず呻き、マスク越しに額を抑える。突然の疼痛が意味するところは? 拍動する血脈に集中が乱れる。初めてのことに意識が困惑する。これ、これは……私は、何を知っているというのだろう?
「ああ……」
そして唐突に、熱に浮かされた幻の中を、雷鳴の閃きが穿っていく。想起されるイメージがある。刺激される郷愁があり、降り注ぐ涙の海を泳ぐ、一筋の怒りがあった。
私は、知っている。忘れていただけ、知らないふりをし続けていただけ。だからこそ殺したままにしておきたかった。二度と心が暴れ出さないように。
でも、そんな願いは、とうに期限を過ぎている。
こんな壊れた回想を私もしたことがあったのだと、私は思い出す。
『陽織……? どないしてん、なぁ』
「わ、私は……」
震える声がそう口にした途端、それまで同一の間隔で巡っていた言葉たちが、唐突に乱れ、散り、停止して、その形を崩し始めた。声の繋がりが乱れ、徐々にノイズを増し、「ねパっ行族やスえっはオマ車ラ愛てんいばきうムで言大マもにときい好あを前うこやそウ水ん館チ理たあ肩なは隣たあイ」そして、一切の意味を放棄する。
「……え?」
顔をなくした人たちが、私のことを見つめている。
『
『おい、何が起きとる! 報告しぃ! 陽織!』
声が聞こえる。けれど何も口にできない。喉の奥で詰まり、絡まり、息もできない。肌が一斉に痺れ硬直し表皮から冷たいものが浸食してくる。粘つく汗が滲む。心臓の鼓動がどくどくうるさい。どうして、どうして。
「どうして、私が──」
妻藤愛理だった。そうではなかった。こんな部屋知らない。……よく、知っている。
爛れて腐り落ちたような夕焼けが、陰を貫いて滲んでいる。
居間に隣接した畳部屋で目を覚ますと、障子を隔てて話し声が聞こえてくる。床には電源のついた中古の二つ折り携帯ゲーム機が放置され、私は画面上で動くドットのキャラクターを眺めながら、遠くで交わされる言葉の断片をぼんやりと拾っている。
「……実はあんま料理得意やのうて、せっかくやし教えて貰えへんやろか、と」
「そんなら、次ウチに遊びきた時お夕飯一緒にどない? 陽織がどうかはわからんけど……」
同じ棟に住むというその
他愛のないやりとりだったのだと思う。日々の不満を共有し、感情を脚色して伝達する。世間話の域を出ない、表面的な話題の数々。世相のこと、野菜の値段、団地の近くに新しくできた公園のこと。中学生の私には事情をはかりかねる内容も多く、気に止めるべきことは何もなかった。それどころか、私は活気を失っていた母が、再び笑顔を見せるようになるのを、嬉しいとさえ感じていた。
夕方、日は傾いて遠く地平の陰から室内を覗いていた。それだけが唯一の視線で、強烈に焼きついている色だった。焼け爛れて空間ごとケロイドと化すような、鮮烈に醜悪な色彩だった。
大切なことほど沈黙を好み、逃避と拒絶を重ねて身を隠す。内実は甘い果肉で包み込み、語るべきことの本質は、表情や仕草の端々に潜めている。非言語による隠微な対話を重ねた後に、何よりも雄弁な静寂が、目を塞ぐヴェールのように揺らいで下りる。私の記憶には、ルビンの壺のぼやけたシルエットしか残らない。
それはきっと、密やかな逢瀬だった。腐臭にも似た甘い香りだけが、空間を隔ててもかすかに匂う。
私が母を殺した日。
私はそれを、いつまでも憶えている。
私は思い出した。
失意の底でテーブルに向かう女がいる。それを見つめるのは、誰だったろう。
私は覚えている。
あの頃は無邪気で/幸せで、無知で穏やかで、それでよかった/楽しかった。なのに二人が/お父さんが、引き裂かれて/死んじゃって、夜も近いのに暗い部屋で母が/お母さんが、顔を覆って/泣き叫んで、私はただ、何もできない/助けられない。
だから、景色が変わる。ぐずぐずのとろとろのどろどろに攪拌されて元の形もわからないくらい失って、それで。
目を開けると、お母さんが死んでいる。
わたしのせいじゃない。
限界だった。
「茉都香ぁっ!」
『緊急離脱! はよせえ!』
ぜんぶが消える。何もかも悪夢のように、わたしの頭を掻き回して、消える、消えていく。たぶん、そこには何も残らない。わたしもきっと、最初からそんなに必要じゃなかった。
そんなことを考えたのは、誰だったろう。
『陽織、陽織!』
わたしを呼んでいる。私を呼んでいる。
お母さんが、私を呼んでいる。
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