第10話 あの子が水着に着替えたら その8

 際どい水着姿になった綾乃あやのは、そのまま大樹たいじゅの隣に腰を下ろした。

 ほんのわずかにベッドが揺れる。

 至近距離にほとんど裸同然の綾乃がいる。

 すぐ隣から体温を感じる。触れていなくても感じる。

 反射的に視線を逸らした大樹に、綾乃から強い声が飛んだ。


「大樹、ちゃんと私を見て。これが、私の仕事」


「……」


「大樹!」


 口が開かない。

 身体が動かない。

『はい、わかりました』と素直に頷けなかった。

 綾乃の水着姿は、否応なく今日の撮影会を思い出させる。

 17歳の少女に男が群がり、誰もが憚ることなくカメラを構えて、綾乃は彼らに応えて微笑みかけて、和気藹々と言葉を交わして……大樹はその一部始終を目の当たりにして、ショックのあまり呆然自失で雨の中を彷徨う羽目になったのだから。


「なぁ、綾乃」


 努めて横を見ないようにしながら、逆に問いかけた。

 綾乃は、そんな大樹の態度を叱りつけることはしなかった。


「何、大樹?」


「お前さ……どうしてグラビアアイドル……になったんだ?」


『グラビアアイドルなんかに』と口から出かけた言葉をギリギリでひっこめた。

 横合いからずっと綾乃の視線を感じる。

『どうしてそんなこと聞くの?』『どうして私を見てくれないの?』

 非難交じりの声が聞こえた気がしたが……それは大樹の妄想の産物に過ぎなかった。

 彼女はずっと前を向いたままだったし、大樹を詰ったりはしなかった。


「グラビアアイドルになったのはスカウトされたから」


「それはあの日に聞いた。でも、俺が知ってる昔の綾乃だったら、断ってたんじゃねーかって。ずっと疑問だった」


 大樹が知る限り『黛 綾乃まゆずみ あやの』という少女は潔癖症ではないにしても性的な話題を嫌う傾向があった。

 彼女が頑なな態度をとる原因は容易に想像できた。

 年齢に比して人目を惹く豊かな胸を持ち、男たちの不躾な視線あるいは欲望に晒されてきたからだと思っていたし、現に何度となく彼女が揶揄われる場面には遭遇してきた。

 せっかくきれいな顔をしているのに、全然似合っていない眼鏡で覆い隠していた。

 性的な話題だけでなく、根本的に男性そのものを避けているようにすら見えた。


――俺、我慢してたんだよな……


 正直なところ、告白を合格発表の後に回すことに迷いはあった。

 どちらかだけが受かって、もう片方が落ちたら……と心配もした。

 受験直前に何を浮ついたことを考えているのかと呆れ、それ以上に悩んだ。

 でも、それでも……どれだけ考えても、タイミングを前にずらすことはできなかった。

 教育ママのもとで学業に追い立てられていた綾乃の負担にだけはなりたくなかったから。

 気の回しすぎだとは思わなかった。

 大樹の知る当時の綾乃は、そういう少女だったのだ。

 なのに――綾乃は唐突にグラビアアイドルになった。寝耳に水どころの騒ぎではない。

『太陽が西から昇るようになった』とか『海の水が蜂蜜になった』とか、それくらいのレベルの……つまり、まさに驚天動地だったのだ。

 彼女に『私、グラビアアイドルにスカウトされたから』と言われた、あの日。

 驚いた。

 戸惑った。

 高熱でおかしくなったのかと思った。

 頭の中が真っ白になって、告白どころではなくなって、そのまま現在に至ってしまうほどに。

 綾乃の突然の変貌、その理由をずっと考えていたけれど……どれだけ考えても筋が通らない。『百聞は一見に如かず』『聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥』なんて言われなくてもわかっていた。

 聞けなかった。

 どんな答えが飛び出してくるか、想像することすらできなかったから。

 綾乃の口から語られる真実に、自分が耐えられる自信がなかったから。

 でも――今は違う。

 知らなければならないと思った。

 何も知らないままでは、どうにもならない。

 何で両想いだとわかったのに悲しげな涙を零すのか。

 何で両想いだとわかったのに『ごめんね』なんて謝るのか。

 恋焦がれる少女のことを知りたいと言ったフワフワした感情ではなく、もっと切実に『黛 綾乃』を知らなければならないと思った。


「それは……うん、私、そういうことも全然話してなかったね」


「その……差し支えなければ教えてほしい。こんなこと、今聞くことじゃないと思うんだけど」


「別にいいよ。ちゃんと話し合おうって言ったばっかりだし」


「なんか、すまん」


 言い逃れしづらい状況を綾乃が作ったから、聞きづらかったことをこれ幸いと尋ねる。

 あざとい自分に嫌悪感すら覚える。自分の口から出た謝罪の言葉に誠意を感じない。


「だから、謝らなくてもいいって。えっと……スカウトされたっていうのは嘘じゃないけど、それだけなら大樹の言うとおり断ってたと思う。でも……」


「でも?」


麻里まりさん――えっと私をスカウトした人で、今は私のマネージャーやってくれてる人なんだけど」


「マネージャーって、あの凄い人か?」


 撮影会を取り仕切っていた女性の姿が脳裏に甦った。

『凄い』以外の表現が思いつかない人だった。何かオーラ出てた。

 主役であるはずの『黛 あやの』より目立ってどうするんだとさえ思った。

 マネージャーがいるとは聞いていたが、あの人がそうなのか。全然ピンと来ない。


「凄い人って……うん、その人。私より存在感あるよね」


 くすくすと笑う綾乃の声に嫌味はない。

 彼女自身が麻里というマネージャーを認め、尊敬しているのだろうと窺い知れた。


「はぁ……まぁそれはいいとして、そのマネージャーがどうしたんだ?」


「街を歩いてたらスカウトされて、『とりあえず話でも』って言われて一緒に喫茶店に入って、そこで色々話をして」


「話って、どんな?」


 ここが、ここからが核心だと察した。

 固唾を飲んで隣からの声を待った。


「……私、あの時プチ家出してたんだよね。お母さんと喧嘩して」


「家出? そ、そんな話聞いてないぞ!?」


 家出。

 プチ家出。

 予想外の言葉に声が裏返ってしまった。

 ただ……驚きはしたが、同時に腑に落ちもした。

 学業と正反対の道に進もうとしている綾乃を、あの教育ママが許すはずがない。

 過去を振り返る夢の中で覚えた違和感の正体はこれだった。友人として一緒に勉強していたはずの大樹にさえ煩わしげな視線を向ける母親が、娘の変節をいかにして許容したのか。

 そこが、どうしても一本の線にならない。

 無理やり繋げるならば、それはきっと――


「ま、それはいいとして」


「いや、よくないんだが。なんで喧嘩なんかしたんだ?」


「……褒めてくれなかったから」


「え?」


「お母さん、私が高校に合格しても褒めてくれなかったの。まぁ、昔から全然褒めてくれたことなんてなかったけど……合格発表見て帰ったら、あの人なんて言ったと思う?『ボヤボヤしてる暇なんてないのよ。高校なんてたったの3年。大学受験まであっという間なんだから、すぐに勉強始めないと』って。せっかく頑張って合格したばっかりなのに酷いと思わない? だから、私、言っちゃったんだ」


「……なんて?」

 

「『そんなに大学が好きなら、お母さんが行けばいいじゃない』って。それで家を飛び出して街を歩いてたら麻里さんに声かけられて。むしゃくしゃしてたし、ちょっと自棄にもなってたし、だったら話ぐらい聞いてもいいかなって。あと……興味もあったし」


「……」


 言葉が出なかった。わかるとは言えなかった。

 大樹はただ、想像することしかできなかった。

 家と学校、そして塾だけが綾乃の世界だった。

 勉強勉強と頭ごなしに押さえつけられて気が休まる暇もない日々が続いた。

 綾乃は耐えた。頑張った。

 しかも、ちゃんと結果を出した。

 なのに――せっかく志望校に合格したのに、褒められもせず休みも貰えず『次は大学。休んでる暇なんてない』なんて言われたら、反発したくなるのも無理はない。

 綾乃は母親に従順だったように見えたが……それでも限度があったのだ。

 大樹が同じことを言われたら――


「俺だったら喧嘩になってたわ。お前、よく我慢したな。ごめん、俺、そんなの全然気づいてなくて」


「ううん。私も家のこと言わないようにしてたし」


 顔を見ることはできなかったが、声に苦みが混じっていた。

 確かに、あまり人に話したい内容ではないだろう。

 その点で綾乃を責めるつもりはなかった。


「それで、ブチ切れしたときに偶然スカウトされて受けたってことか?」


「それもあるけど、それだけじゃないの。麻里さんに言われたの」


「なんて?」


 自分だったらどんな言葉をかけるだろう?

 想像しようとして、できなかった。

 慰めるべきなのだろうか?

 奮起を促すべきなのだろうか?

 もっと気の利いた答えがあるのだろうか?

 わからなかった。わからなかったけど、そこで聞かされた言葉が綾乃を変えた。

 その言葉を、知りたかった。


「『あなたはまず、自分を好きになるべきだ』って。周りの人がどうこう以前にね。あれは刺さったなぁ」


「自分を好きに……」


「うん。私は……私のことが大嫌いだった。お母さんに支配されてる自分が嫌い。ストレス溜めて周りに当たり散らす自分が嫌い。男の人たちにいやらしい目で見られる自分が嫌い。何も悪いことしてないのに身体を縮こまらせて人目から隠れて、仕方がないってあきらめて……そんな自分が世界で一番大嫌いだった」


「綾乃……」


「でもね、麻里さんが言ったの。『あなたの人生は最後までずっとあなたと一緒。あなたは嫌でもあなたに付き合い続けなければならない。だから、自分自身のことを嫌いなままでいると、人生そのものがずっと辛いままだ』って」


 自分を嫌い続けていては、たとえどんな道でどれだけ成功しようとも決して幸せになんてなれない。

 学業だろうと運動だろうと。

 あるいは他の道であろうと。

 麻里という女性は、綾乃の話を聞いてそう答えたという。


「それは……」


「反論できなかったなぁ。あれは」


 綾乃の口ぶりは相変わらず苦いままだったが、それでも当時を懐かしむ優しさが混じっていた。

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