第9話 たりなかったもの その4

「ごめん……ごめんね、大樹たいじゅ


 涙とともに零れ落ちた綾乃あやのの声。

『もう一回言ってくれ』なんて頼み込むまでもなく、『ごめんなさい』がリピートされる。

 聞き間違いだと思いたかったが、聞き間違いではなかった。

 耳鳴りがする。視界が真っ暗になって、身体を支える力が完全にゼロになった。

 ベッドに腰を下ろしているはずなのに、なぜか宇宙空間に放り出されたような奇妙な浮遊感(もちろん宇宙遊泳なんてしたことないが)に吐き気を覚えた。

 わけがわからない。

 わけがわからないが――とりあえず死にたくなった。

 さっきの沈黙の際も死にたくなったが、あの時の比ではなかった。


「あ、そ、そう……その、変なこと言って悪かったな」


 自分の喉を通って出た声にすら現実味がない。

 その声はひび割れていた……というよりも、粉々に砕かれていた。

 こんな声を出す機能なんて人間につけるのはやめて欲しかった。

 自分の声なのに、耳にするだけで心まで砕け散りそうで――


「え?」


 綾乃が間の抜けた声を発した。

 ぽかんと大口を開けて、眉を顰めて、首を傾げて。

 頬を伝って流れ落ちる涙と表情が全然噛み合っていない。

 違和感はあったが……とりあえず状況を把握できてなさそうな顔だった。


「いや、えっと、ダメ、なんだろ?」


 大樹の声は相変わらず砕けていた

 ひと言口にするたびに自傷感半端なくて。

『俺はいったい何を言っているんだろう?』と泣きたくなってきた。

 綾乃と違って涙をこぼさないのは、せめてものプライド――


「だ、だ、だダメじゃないよ、何言ってるの大樹バカじゃないのそういうところだよ勝手に自己完結してわかったつもりのなるのダメって言ったばかりじゃないバカバカバカバカ」


 頬を紅潮させた綾乃が怒涛の如く言葉を連ねる。

 メチャクチャ早口であったし、声は涙で濡れていた。

 総じて聞きづらいことこの上なかったが『ダメじゃない』という部分だけは聞き取れた。

 大樹の心臓をぶち抜いていた言葉が溶けて消えた。

 ホッとひと息つきたかった。

 でも――それどころじゃなかった。

 大樹は大樹でもういっぱいいっぱいだった。

 感情の赴くままに言葉が口をついて溢れてくる。

 

「じゃあ何が『ごめん』なんだよ。わけわかんねーよ。お前、俺を殺す気か!?」


 理不尽な罵声を、綾乃は正面から受け止めた。

 その佇まいに大樹は息を呑まされた。


「綾乃……」


 涙はいつしか止まっていた。

 静謐な眼差しと、整いすぎた顔。

 一片の隙も見当たらない、完璧な美貌。

 圧倒的なまでの美には、問答無用で人の言葉を奪う力がある。

 あっという間にすべて霧散した。激した大樹の言葉も、感情も。

 

「好きだよ、大樹」


 艶めく唇から紡がれた言葉は肯定を意味していた。

 声は決して大きくはなかった。

 待ち望んでいた、求め焦がれていた言葉だった。

 聞き間違えるなんて、あるはずがなかった。


「好きだよ。私も、大樹が大好き」


 向けられる瞳には、間違いなく愛情があふれていた。

 勘違いする余地はない。その愛情は恋愛感情だ。

『ライクかラブか?』なんて問い返す必要はない。


「お、おう……その、ありがと」


「うん」


 嬉しそうに微笑む綾乃が面映ゆくて見ていられない。

 喜べばいいのか、悲しめばいいのかわからない。

 綾乃の涙は、うれし泣きには見えなかった。

 だから、目を逸らすことはできなかった。


――勘違いとか、思い違いとか。もう、そういうのは御免だ。


 一年以上にわたって感情の齟齬に振り回され続けてきた。

 下手に気取って知ったかぶって、『わかった』なんて間違っても口にできない。


「で、でもよ……じゃあ、何が『ごめん』なんだよ」


 その疑問は当然のものだと思った。

 大樹は綾乃が好きで、綾乃は大樹が好き。

 友情はもちろんのこと、お互いに恋愛感情を抱いている。

 ならば、何も問題はない。謝る必要はない……はずなのに。


「大樹」


「おう」


「後ろ向いて」


「おう?」


 綾乃は答えなかった。

 それどころか、おかしなことを言い出した。

 訝しげな眼差しを向けてしまった自分は悪くないだろうと思った。


「後ろ向いてて。私がいいって言うまで、ずっと」


「……その、何が『ごめん』なのか教えてほしいんだけど」


 意味不明な涙と言葉の意味を早く知りたかった。

 これからの付き合い方とかも話し合いたかった。

 恋愛感情を確かめ合ったのならば、自分たちは彼氏彼女の関係になるはずだから。

 答えを聞きだすまで、綾乃から目を離したくなかった。

 綾乃は、それでも『後ろを向け』を繰り返す。

 後ろを向いて何になるのか?

 せめて、それくらいは教えてほしかった。


「お願い。後ろ向いて」


「……わかった。でもよ」


 頑なな態度に大樹が折れた。

 ここで意地を張っても、どうにもならない。

 綾乃には会話する意思がある。説明はあるはずだ。

 ならば、ここは彼女の意思を尊重するのが良いと思った。


「何?」


「カーテン、引いていいか?」


「え……あ、うん、お願い」


 大樹は綾乃に従って後ろを向く前に、カーテンを引いた。

 綾乃の向こうの窓と、自分の正面の窓。

 その両方のカーテンを。

『後ろを向いていてほしい』という言葉の意味は『見るな』ということだ。

 目を開けていたら窓に映った綾乃が見えてしまう。と言うか外から見えてしまう。

 それはきっと彼女の欲するところではなく、そして彼女が思い至らないところでもある。

 だから大樹の方から口にした。

 綾乃は本気だ。

 とても大切なことを大樹に告げようとしている。

 だから周りに目がいかない。現に窓の存在に気づいていなかった。

 念のために他の窓も確認したが、幸いなことに残りのカーテンは閉まっていた。

 窓の外から誰かに覗き見られる心配はないことは救いだった。

 綾乃に背を向け、大樹は自ら目蓋を下ろした。


――いったい何だってんだ?


 不満を口の中に抑え込んでいると、シュルシュルと音がした。

 視界を閉ざされた大樹の耳は、その微かな音を敏感に拾った。


――何の音だ?


 変な動きを見られたくなかったので、心の中で首を傾げた。

 聞いたことがあるような、ないような。

 とても不思議な音色だった。

 ファサっと音がした。

 視界を閉ざされた大樹の耳は、その微かな音を敏感に拾った。


――何の音だ?


 心の中で首を傾げ――なかった。

 何か軽いものが床に落ちる音だった。

 落下したのはスマートフォンのような重量のある個体ではない。

 硬さを感じさせる音でもなかった。

 軽いもの。

 柔らかいもの。

 それこそ空気抵抗があって……布のような……


――服を……脱いでる!?


 衣擦れの音。

 脱いだ服が床に落ちる音。

 間違いない。確信があった。綾乃は服を脱いでいる。

 でも――何で綾乃がいきなり脱ぎだすのか、わからなかった。


「あ、綾乃?」


「待って、もう少し」


 ん……ん……

『待て』に続いたのは綾乃の声だった。

 何か無理をしている時に出るような、鼻にかかった声。

 わずかに甘みを含んだ、耳から脳を蕩かす声だった。

 緊張感が背中を押してくる。

 異常な熱量を感じた。

 

「綾乃、お前……何やって」


「もういいよ、こっち向いても」


 問いを遮って、綾乃からOKが出た。

 しかし、大樹は振り向かなかった。


――これ、振り向いてもいいのか? 本当にいいのか?


 想像に間違いがなければ、綾乃は服を脱いでいる。

 頭の中は既に混乱の極致にあったが……雑誌で、インターネットで、そして昼間の撮影会で目にした彼女の肢体が鮮烈に思い出される。

 全身が震えた。

 見たいと思った。

 思わないわけがない。

 数えきれないほど想像した姿が、すぐ後ろにある。

 決して覗き見ではない。本人が『見ろ』と言っている。

 後ろめたいことは何もない。見ない方が失礼にあたるというもの。


 同時に、怖いとも思った。

 声に従って振り向いてしまったら、取り返しのつかないことになるのではないか?

『ごめん』と謝る言葉、そして涙。いきなり服を脱ぎだして。

 抗い難い欲求と恐怖の狭間で、大樹の身体が硬直する。


「大樹!」


 あまりにも切実な声。

 弾かれたように振り向いてしまった。

 身体が勝手に動かされるような感覚は、昼間も体験したものだった。


「大樹……目を開けて」


 やはり抗うことはできずに目蓋を開けて――そのまま大きく目を見開いた。


 綾乃がいた。

 うなじが見える程度にカットされたショートボブの黒髪。

 透きとおるような白い肌。

 見るだけで柔らかい触り心地が手に感じられる、豊かに盛り上がった胸元。

 ウエストはキュッとくびれていて、腰を経て程よく肉がついたスラリと長い脚に続く曲線はため息が出るほど美しく、そして妖しい魅力を帯びていて。

 かつては似合わない眼鏡で隠されていた大きな黒い瞳と、すーっと通った鼻梁。

 桃色に艶めく濡れた唇。輪郭すら完璧に美しい。


まゆずみ  あやの』ではなかった。

黛 綾乃まゆずみ あやの』がそこにいた。

 違いは――表情だった。


「綾乃……お前、その水着」


 綾乃は服を脱いだだけではなかった。

 胸元と腰回りはちゃんと水着で覆われていた。

 ただし、魅惑な肢体に比して布地の面積は心もとない。

 本来なら隠されていなければならないはずの部分の大半が露わになっている。

 トップスはチューブトップだった。ストリングレス――水着を固定する紐の類はなく、首筋から鎖骨の一帯、豊満なバストの上半分どころか下半分まで視線を遮るものは何もなく、ただひたすらに柔らかさが強調されて目を惹きつける。

 ボトムスはトップスのデザインに合わせてある。

 撮影会で身に着けていた赤のビキニに比べれば露出度は低いように見えて、左側はひもで結ばれているだけ。肌がはっきり見えて危うさは負けず劣らずと言ったところ。


「うん……大樹が選んでくれた水着」


 はにかむ綾乃の言葉にうなずいた。

 ショッピングモールで大樹がセレクトした水着。

 それは――今日の撮影会で着るものとばかり思っていた水着だった。


「お前、何でそんな恰好を」


 してるんだ?

 その言葉は声にならなかった。

 

「大樹、私の話を聞いて」

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