第8話 たりなかったもの その3

 大樹たいじゅ綾乃あやのの行き違い、その根本の原因となっていたのはお互いを信頼するが故のディスコミュニケーション。

 何も言わなくてもわかってくれているに違いない。

 わざわざ言葉を尽くさなくとも察してくれるはず。

 信頼とか信用とか。

 最もらしい言葉に乗せられて、いつしか意思確認すら怠るようになった。

 相手の気持ちを慮っているつもりで自分勝手に都合よく思い込んで、知らず知らずのうちに心がすれ違い……結果として大樹も綾乃もご覧の有様であった。

 ふたりが向かい合っていたのは、お互いの脳内で勝手に作り出した虚像に過ぎなかった。

 その虚像は精巧に形づくられていたものの、決して本人ではなかった。

 些細な設計ミスが致命的なトラブルを引き起こしてしまった。

 なまじ距離が近しかっただけに、表面上は問題なかった。

 おかげで状況が一層ややこしいものになってしまった。


「始まりは、あの日か……」


 大樹の声には慨嘆が混じっていた。

 高校受験を終えて、合格発表を一緒に見に行こうと綾乃と誓いあった。

 その誓いは――果たされなかった。

 決して不義理を働いたわけではない。

 病気だった。

 インフルエンザだった。

 身体を動かすこともかなわないほどに質が悪い奴だったし、何なら死の淵が見えるほどに追いつめられた。

 あんな苦しみを自分から綾乃に移したら……なんて考えたら、とてもではないが顔を会わせる気にはなれなかった。

 

――それでも、あの日ふたりで合格発表を見に行けていれば……


 何度そう思ったか、わかったものではない。

 とことん祟られていると恨みのひとつも言いたくなる。

 だいたい本来ならば一緒に合格を祝い、大樹はそこで――


「そっか……あそこからか」


「うん」


 綾乃は床にお尻を下ろしたまま首を縦に振った。

 深みのある漆黒の瞳を大樹に向けたまま。

 唇をキュッと引き締めて、次の言葉を待っている。


――あの日から……だったら、俺は……


「俺さ……」


「うん」


「俺……俺は……」


「うん」


 喉につかえた言葉が出てこない。

 あの日伝えることができなかった想いがあった。

 胸の奥にずっとしまわれていた想いがあった。

 一年以上もの時を経て色褪せることなく、ただひたすらに膨らみ続ける想いが。

 綾乃は、じっと大樹を見つめたまま頷き返してくる。

 言うならここだと思った。

 ここで言えなければ、きっともう機会は訪れないと直感した。


「俺――綾乃が好きだ」


「うん……うん?」


 頷こうとした綾乃の首が途中で止まる。

 首だけでなく全身が石造のように固まった。

 ギギギと持ち上げられた顔には困惑の表情が載せられていた。


「た、大樹……今、何て言ったの?」


 今までに聞いたこともないような声だった。

 不安があり、不審があり、戸惑いがあり、隠し切れない喜びがあった。

 他にも様々な感情がブレンドされた、ちょっと表現しようのない声色。


「綾乃が好きだ」


「も、もう一回言って」


「綾乃が好き」


「もう一回」


「だから俺は綾乃のことが好きだって――何回言わせんだよ、お前!」


 言葉にするたびに顔は熱を帯び、目はチカチカして。

 口の中はカラカラで、身体を支えている手は震えていて。

 ――にもかかわらず、ひと言ごとに全身に不思議な力が漲っていく。


――やっと言えた!


 万感の思いが胸の奥から溢れかえった。

 想いを告げるだけで、後から後からエネルギーが湧いてくる。

 行き場を失ったエネルギーは、あっという間に臨界点を超えて暴走しそうでもあった。


「そ、それはえっと……ライク的な意味? それとも――」


「そっちじゃねーよ! もう一個の方に決まってるだろ!」


「つまり、その……ラブ?」


「そう言ってるだろ! 疑問形やめろ!」


 漲っていたはずの力が急速に抜けていく。

 半ば怒鳴りながらも……ここまで疑われるとは思っていなかった。

 なんとなく、綾乃は自分のことを好いていてくれているとばかり思っていたのに。

 それが恋愛感情か友情かはともかくとして、嫌われてはいないと思っていたのに。

 ディスコミュニケーション。

 嫌な単語が脳裏によぎった。

 好意的に見えた綾乃の反応は、すべては大樹の妄想に過ぎないのではないか。

 ここ一年と言えば、特にふたりの間で感情の齟齬があった時期でもある。

 時を追うごとに高まっていた自分の想いに偽りはない。

 でも――綾乃が自分をどう思っているか。これは定かではなかった。

 まったく見当違いの思い違いをしている可能性を考えずにはいられなかった。

 それどころか――

 

――この流れ、マズくないか?


 頭の中のどこかから声が聞こえた。

 彼女の疑問形が断るための口実を探しているように聞こえてしまったから。

 ライク的な意味とか言われるのは、特に嫌な予感しかしない。


 疑い出したらキリがない。

 勝手な思い込みは厳禁だ。

 そういう話が出たばかり。

 ちゃんと綾乃の口から答えを貰わなければ。

 何度も何度も心の中で自分に言い聞かせた。

 そうでもしないと正気を保っていられない。


 頭の後ろの方から心臓の音が聞こえる。

 おかしな言い回しになるが、他に表現のしようがない。

 ドクドクなどと言う生易しい音ではなく、もはや爆音だった。

 ごくごくまれに耳にする悪質なバイクの走行音に似ている。

 全身を駆け巡っていた熱い血液が、急速冷却されていく。

 雨の中を歩いていた時よりも、心身ともに震えが走っている。


――落ち着け、落ち着け……


 それでも――待った。

 綾乃の答えを。

 桃色の唇から紡がれるはずの答えを。

 一縷の望みに賭けるなんて贅沢を口にするつもりはなかった。

 たとえ大樹を絶望の谷に突き落とす答えであったとしても、本人の口から聞きたかった。


「その……大樹」


「なに?」


「えっと、何でいきなりそんなこと言うの?」


 綾乃の声には何らかの感情が含まれているように聞こえた。

 しかし、どのような感情が含まれているかは理解できなかった。

 否定的なニュアンスを感じなかったのは救いだったが、あまり意味はなかった。

 永らく拗らせていた想いを告げた大樹の脳はとっくの昔にオーバーヒートしていて、まともな判断能力を失っていたから。


「何でって、そりゃ……あの日からすれ違い始めたっていうのなら、あの日に言おうとしてたことを最初に言わないとって」


「あの日から!? 大樹、そんなに前から私のこと好きだったの!?」


 心底ビックリ仰天な綾乃の声に、大樹は眉を顰めた。

 耳朶を震わせる声が裏返っていて、余計に彼女の動揺を顕しているように聞こえて。

 それはそれとして、勘違いを正さなければならないと思った。

 コミュニケーション不全が問題の始まりだと認めるなら、手間を惜しんではならない。


「ちげーよ。好きになったのはもっと前。一緒に合格したら告白しようって思ってたんだよ」


「も、もっと前って……ち、ちなみに、いつぐらいから?」


 恐る恐る、びくびくと。

 下からのぞき込むように。

 今の綾乃の態度は、中学生時代の姿を思い出させる。

 懐かしくはあったが……この状況では、全然ありがたくなかった。

 真実を口にするのは照れくさくて、でも、ウソをつく気に離れなくて。

 喉を震わせて絞り出した声は、自然にぶっきらぼうなものになってしまった。


「知らねーよ。気が付いたら好きになってたんだから。それでよ……」


「あ、うん」


「その……答えが聞きたいんだけど」


――こういう時に『返事は今すぐでなくていいから』とか言うの、無理じゃね?


 急かしてはならないと理屈ではわかっている。

 綾乃にとっては脈絡なく告白されて青天の霹靂なのだ。

 心を整理する時間が必要だと想像できるが、とてもではないが身が持ちそうにない。

 漫画とかラノベだと『焦らなくていいから、俺、いつまでも待ってるから』とかカッコつけて言いたくなるタイミングだが、このまま放置されたら大樹は遠からず精神に異常をきたす自信があった。


「……そうだよね。うん、答えなきゃね」


「ダメならダメってハッキリ言ってくれ。別に怒んねーから」


「……」


 沈黙が圧し掛かってきた。

 率直に死にたくなった。


――この展開、嫌な予感しかしないんだが……


 綾乃が俯いていてくれてよかったと、わけのわからないことを考えた。

 今の自分がどんな顔をしているのか、絶対に見られたくなかったから。

 なぜなら……このタイミングで口を閉ざすとか、どう考えても断りの言葉を探しているようにしか――


「嬉しい」


「え?」


「嬉しい……好きって言ってくれて、すごく嬉しい。そっか……好きな人に好きって言ってもらえるの、こんなに嬉しいんだ。私、知らなかった」


 聞き間違いかと思ったが、聞き間違いではなかった。

 なけなしの勇気を振り絞った告白に『嬉しい』と答えてくれている。

 綾乃は両手を重ねて胸を抑え、何度も何度も頷いている。

 演技には見えなかったし、嘘を疑う余地はなかった。


――『嬉しい』って、『嬉しい』って言ってくれたよな、今!?


『好きな人』とも聞こえた気がした。

 聞き間違いとか錯覚を疑う余地はなかった……と思う。

『もう一回言ってくれ』と言いかけて、眼前の光景に言葉を失った。

 綾乃の瞳の端から、透明な水滴が頬を伝って流れ落ちていく。

 とてもきれいだと思った。

 こんなにきれいなものを見たことがなかった。

 だから、大樹は今にも天に昇りそうな心持ちに至って――


「ごめん……ごめんね、大樹」


 次の瞬間、綾乃が放った謝罪の言葉が心臓に突き刺さった。

 もはや痛みすら感じなかった。

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