第15話 あの子が水着に着替えたら その6【第3章終了まで、あと3話】

「それでは……今からチェキタイム開始です」


 スタッフの女性がそう口にしても、誰ひとり身じろぎひとつできなかった。

 唯一の例外は、バスタブから身を乗り出していた綾乃あやのだけ。

 きょとんとして、首を傾げて唇を開いた。


「えっとみなさん、チェキタイムですけど」


 その声に弾かれるように、カメラを構えたままだった参加者たちは身体を震わせて、お互いに顔を見合わせた。

 誰もが一様に魂を抜かれたような表情を浮かべている。

 撮影会に慣れているはずの彼らが、『まゆずみ あやの』最古参ファンであるはずの彼らが、心ここにあらずな風情を隠すことができていない。

 ひとり離れていた大樹たいじゅは、後ろから彼らを見ていた。


「あの……チェキタイムって何ですか?」


 撮影会の概要を理解できていなかったから、申し訳なさから目を逸らしつつ、呆然としたまま立ち尽くしていた『がらんどう』に声をかけた。

 スタッフましてや綾乃本人に尋ねるのは憚られたし、他の参加者たちとは会話するきっかけが掴めないままだった。

 おそらく今後もそんな機会は訪れないだろう。


「あ、ああ、えっとチェキはわかりますか?」


 眼鏡の位置を直しながら訪ねられて、大樹は首を横に振った。

 指をチョキにしてみたが、あまり深い意味はなかった。


「いえ。写真を撮るって書いてありましたけど、さっきまでのとは違うんですか?」


 首から下げていたカメラを掲げると『違います』と答えが返ってくる。

 中年男性は胸を抑えている。顔色は悪くないから動揺を鎮めようとしているのだろう。

 あまり急かすべきではなさそうだったので、口を閉ざしたまま様子を見ていた。


「チェキというのは撮影したその場でプリントできる某社のインスタントカメラのことで、要するにスタッフが用意してくれたチェキで『あやのん』を撮るという時間なんですが、この撮影会の場合はスタッフがツーショットの写真を撮ってくれることになっておりまして、つまり……そういうことです」


 あと、軽い挨拶や会話なんかもできるとのこと。

 後頭部を掻きながら説明してくれた『がらんどう』は、どこか浮き足立って見えた。

 先ほどまでとは気配は異なるものの、落ち着いたように見えて落ち着けていない。

『あまり大人っぽくないな』と思いながら、同時に『無理もないな』とも思った。


「ちなみに『あやのん』は握手もしてくれます」


「……それは特別なことなんですか?」


「まぁ、人によりますね」


 撮影者との身体的接触を嫌うアイドルも存在するから、チェキタイムと言っても絶対に握手できるとは限らない。

 むしろ握手はない方が普通と考えておいた方がいい。

『あやのん』は例外。

『がらんどう』は熱く語ってくれた。

 よほど綾乃に入れ込んでいることが窺える。

『いい年こいた大人が……』なんて呆れたりはしない。

 綾乃が見せた姿には、問答無用に人の魂を掴み取るほどのパワーを感じた。

 至近距離でアレに当てられて正気を保てと言う方が難しかろうとさえ思えた。


――握手ねぇ……


 チョキのままだった手を開き、握る。

 ぐー、ぱー、ぐー、ぱー。

 異常は見あたらない。

 アイドルの握手会というのは聞いたことがあった。

 CDをたくさん買って列を作って……みたいな光景がインターネットに掲載されていたのを目にした覚えがある。


――つまり、アレの写真版か。


 山ほどCDを買わなくともツーショットを撮ってもらえたり、握手をしてもらえたりするのなら、なかなかお得なのではないかという気がした。

 参加費にプラスして別料金がかかるにしても。

 メインの目的は会話とか握手とかそっちの方であるように思えたし、それはあながち間違いでもなかろうと思った。

 見知らぬ男と握手することに綾乃は嫌悪感を抱かないのだろうか?

 痺れた頭のどこかから、忌々しい声が聞こえた。


「ちなみに有料ですけど……クスノキさんは?」


「一応振り込みました。説明読んでもよくわかりませんでしたけど、念のため」


「それは重畳。ほら、列に並びましょう」


 促されるままに綾乃の前に形成されていた列に並ぶ。

 ……とはいっても、参加者はたったの5人しかいないのだが。

 ちなみに撮影会だけ参加して、チェキタイムをスルーする人間はいなかった。

 列の先頭に立っていた男が綾乃に近づき、その手をしっかりと握りしめた。

 綾乃もまた男の手を握り返している。

 手を添えるだけではなく、きゅっと握りしめている。

 自分だけが握っていると思っていた綾乃の手を、自分以外の男が握っている。

 胸が苦しい。心臓が痛い。吐き気がする。

 ドロドロとした醜い心が喉を通って口から溢れそうになる。

 咄嗟に手で口を塞がなければ、大惨事になっていたかもしれない。


――綾乃……


 そんな姿を見たくなかった。

 でも、目を離すことはできなかった。

 現場の綾乃を見たいと本人に告げたのは、ほかならぬ自分だったから。


「そっと触れるだけっていう人もいるんですがねぇ」


 後ろから感嘆のため息交じりな声が漏れ聞こえた。

『大枚叩いて嫌々握手するさまを見せつけられるとか、罰ゲームかよ』と思った。

 綾乃はそういう類のアイドルには含まれていないらしい。

 握手している男も綾乃自身も笑顔だし、時間も結構長い。

『ファンを大切にしている』と語られていたが。確かにサービス精神は旺盛なようだった。


――いや、違うか。


 大樹がよく知る綾乃は、単純な利害関係だけを追求するタイプの人間ではない。

 気難しい性格をしていることは言うまでもないが、自分を支えてくれる相手には最大限応じる性格の持ち主だ。

 そうでなければ、自身の高校受験を前に大樹が苦手とする教科の穴埋めをギリギリまで手助けしてくれたりはしないはずだ。

 かつては大樹で、今はファンたち。

『黛 綾乃』を構成していたひとつひとつの要素が『黛 あやの』として欠かすことのできないパーツと置き換わって、今の彼女を形作っている。

 それは――ずっと前から始まっていて、今も続いている。

 きっと、これからも続くのだろう。

 綾乃がグラビアアイドルである限りは。


――いいこと、なんだろうな。


 自分以外の男と仲睦まじく会話する姿なんて見たくなかった。

 自分以外の男と親しげに握手を交わす姿なんて見たくなかった。

 でも――ファンを蔑ろにする綾乃も見たくなかった。ウソではない。


「クスノキさん、どうぞ」


 矛盾を飲み下そうと悪戦苦闘していると名前を呼ばれた。

 どれだけ耳にしても、綾乃の声で『クスノキさん』呼ばわりは慣れない。

 かつては『くすのきくん』だった。いつの間にか『大樹』になっていた。

 さん付けは……酷く距離を感じる。意図的に遠ざけられているような気分になる。


 小さく咳ばらいをしてから、綾乃のもとに歩みを進める。

 差し出された手をそっと握ると、じっとりと汗が滲んでいた。

 綾乃の白くて滑らかな手が、キュッと大樹の手を握り返してくる。

 毎日の登下校の際に握る手と同じはずの白い手が、いつもよりも艶めかしい。


「今日はいかがでしたか?」


「……こういう撮影会は初めてでしたけど、楽しかったです」


 初対面という設定を貫き通した。

 自分と綾乃の関係は隠し通さなければならない。

 ふたりの関係、それは同じ学校に通う――なんだろう?

 心の中で首を傾げる。自分と綾乃の関係を適切に表現する言葉が思いつかなかった。

 それはずっと大樹を苛んでいた違和感であり、ずっと目を逸らし続けている事実でもあった。

 友だちで片づけるには距離が近い。

 告白していないから恋人ではない。


――俺と綾乃……綾乃にとって、俺ってなんなんだ?

 

 唐突に突き付けられた問いは、大樹から言葉を奪った。

 現実逃避気味に思い悩んでいると、綾乃が身体を寄せてくる。

『あっ』と後から声が聞こえた。さっきの男より距離が近いと気づかされた。

 怪しまれることはするなといった本人が、いったい何をする気なのかと身構えていると――


「アンタ、何しに来たの?」


 艶めく唇から、心底呆れ返った声が漏れた。

 ほんのわずかな言葉の裏には、怒りがあり、失望があった。

 ギョッとして視線を下ろすと、笑顔を浮かべた綾乃の眼差しとぶつかった。

 その顔は他の参加者に向けられるものとほとんど同じであったが、目が笑っていない。

 かすかに細められた漆黒の瞳の中には咎めるような、責めるような、詰るような光があった。


「……何だよ、それ」


「……」


 絞り出した大樹の声にも、苛立ちに似た感情が滲み出た。

 あまりにも穢れた声が自分の喉から放たれたことに驚いたし、眼前の綾乃の顔もまた驚きに満ち溢れていた。

 吐いた唾は飲み込めず、覆水は盆に返らない。

 もちろん、時を巻き戻すことはできない。


――違う。こんなことを言うために来たんじゃない。


 謝りたかったし、弁解したかった。

 できなかった。

 今はイベントの真っ最中で、彼女は『黛 あやの』で。

 自分はただの一参加者『クスノキ』に過ぎない。

 迂闊に言葉をかけていい状況ではなかった。

 すぐ隣に立っている綾乃との間には、無限の距離が広がっていた。

 繋がっているはずの手には何の意味もない。


「……」


 もはや言葉もない。

 何かが致命的に間違っている。

 理由はわからなかったが、確信せざるを得なかった。

 強張る綾乃の顔が何よりも雄弁な証拠だったが……過ちの正体を掴む時間はなかった。

 

「写真撮ります」


 ことさらに素っ気ないスタッフの声に、大樹たちは並んでカメラに向かい合う。

 あらかじめ目にしていたとはいえ、想像していたよりも距離が近い。

 ずっと撮影会を見守っていた女性スタッフと目が合った。

 本能的に『怖い』と思ったが、表情を変えることはなかった。

 フラッシュが焚かれて、カメラから白い紙が吐き出される。

 撮影した女性と大樹と綾乃、三人の前で徐々に色づいて姿を現した画像を見ても――やはり表情は動かない。

 映し出されたふたりは、どっちも負けず劣らずの仏頂面だった。

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