第16話 あの子が水着に着替えたら その7【第3章終了まで、あと2話】
手に握りしめた一枚の写真、それは先ほど
写真の中の
とてもではないが『憧れのグラビアアイドルと初めて会えました!』なんてファンの顔ではない。
チェキを渡してくれた女性スタッフが物凄く気まずそうな表情をしていたのが印象的で、その隣で綾乃は思いっきり頬を引きつらせていた。
――俺は今、どんな顔をしているのだろうか?
写真と同じ仏頂面か。
多少はマシな顔をしていたのか。
それとも、あるいは……
「それでは、これを持って『
「今日はわざわざ足を運んでいただいて、本当にありがとうございました」
件のスタッフによる終了宣言に綾乃の声が続く。
さらに『お疲れさまでした』と他の参加者たちが唱和した。
大樹は口を開きはしたものの、声が出ていたかどうか自分でもわからなかった。
スタッフに連れられて隣室に向かう綾乃の背中を目で追い続けた。
その姿が完全に見えなくなった瞬間、全身に妙な重さを感じた。
カメラを首から外して傍にあった机に置き、ぐるぐると肩を回す。
大きく大きく息を吐き出すと、胸の奥に溜まった澱んだ熱が口から溢れ出た。
それでもなお、胸中に滞留する言語化し難い不快感を意識せずにはいられなかった。
「今日はお疲れさまでした。いかがでしたか、初めての撮影会は?」
大樹の肩を叩きながら、穏やかな声で尋ねてきたのは最初に顔を合わせた中年の綾乃ファン『がらんどう』だった。
いい人だと思った。
いい人だと思っていた。
いい人だろうと思っている。
でも――綾乃に向けて一心不乱にシャッターを切っていた姿を思い出すと、心の中にドス黒い感情が湧き上がり、ぐるりとうねる汚濁を飲み込むために苦労を要する。
「え、ええ……その、とても楽しかったです」
ひきつった声で賛同する。
同時に写真をポケットに突っ込んだ。
綾乃の仏頂面をファンの目に晒すことは避けたかった。
「そうですか、それはよかった。ところで、これから打ち上げに行こうという話があるんですが……どうされます?」
「……打ち上げ?」
言葉の意味は知っていたが、この流れで出てくるとは思わなかった。
打ち上げと言うのは試験が終わった後とか、部活の試合の後のようなタイミングで行うものだとばかり考えていた。
――似たようなものなのか?
ちらりと『がらんどう』の後ろに目をやると、突っかかってきた男を含めた残りの3人の参加者たちが集まっている。
ファン同士の交流会ということだろうか。
視線を正面の中年男性に戻した。
「クスノキさん?」
彼は純粋に善意で誘っているのだと思った。
今日一日の記憶を振り返ってみても、そう認めることは吝かでもなかった。
初めて出会った見知らぬ高校生に、ここまで親身になってくれる大人というのはあまりお目にかかれない。
『黛 あやの』という共通の趣味を持った仲とは言え、逆の立場だったら……きっと大樹は目の前の男のようには振る舞えないだろうと思った。
学校の中で『黛 あやの』について語るのは気が乗らなかった。彼女に関する話題が増えると、大樹は席を外すようにしていた。そこで語られている内容は、綾乃を褒め称えるよりも、綾乃を性欲の対象とすることに主眼が置かれることが多かったし、あるいは芸能人として活動している彼女に対する妬心を愚痴り合うなんて不毛な行為に喜びを見出すことも少なくなかった。平たく言えば時間の無駄どころか、きわめて不愉快だった。
おそらく、これから目の前の男たちが催す『打ち上げ』は違うのだと思う。
彼らは純粋にファンである……と言うよりは信奉者の類に見えた。
綾乃に対する罵倒を口にすることはないだろう。
しかし――彼女に対する賛美を耳にすることも厭わしかった。
――何でだよ。
厭わしいと感じてしまった自分自身に反発が湧いた。
理由はすぐに思い至った。
ここにいるのは大樹を除いて『黛 あやの』の最古参ファンたち。
大樹が知らないデビュー当時の綾乃のことを見て知って、支えてきた者たち。
彼らと言葉を交わせば否応なく劣等感を刺激されることは容易に想像できたし、そこで自分がおかしなことを口に出さない保証はなかった。
例えばリアル『黛 綾乃』との関係性を仄めかすとか。
絶対にダメだと思った。彼らの後をついて行ってはいけない。
『参加者同士で揉めるの厳禁』
綾乃が送ってきたメッセージだ。
ぎゅっと目をつむって、歯ぎしりして、胸に手を当てて、呼吸を整えて。
そして――
「いえ、その……これから用事があるので、俺は先に失礼させてもらいます」
どうにかして口から拒絶の言葉を絞り出した。
しかも大樹自身ですら『ウソつくの下手すぎだろ』と呆れるほどのわざとらしさ。
撮影会が時間どおりに終わらない可能性は考慮していたから、この後に用事なんてあるわけない。
「そうですか……それは残念」
「……すみません」
「いえいえ、お気になさらず。えっと……」
「何か?」
「いえ、同じく『あやのん』のファン同士、せっかくこうして縁ができたのですから何かお困りごとがあったら遠慮なく相談してください」
「……」
「連絡先は、さっきお渡しした名刺に書いてありますので」
「……はい」
善意の言葉が辛かった。
ただひと言『はい』とだけ。
それだけ口にするのが精いっぱいだった。
フラフラと定まらない足取りで会場を後にして、そのまま歩き続けた。
――これから、どうするんだっけ?
ここに来るまでにたどった道を引き返す。
電車に乗って地元に戻り、家に帰って飯食って寝る。
明日は平日で学校がある。さっさと帰る以外に何があるというのか。
わかっている。わかっているのに……大樹の足は駅に向かいはしなかった。
それどころか、どこを歩いているのかすらわからなくなっていた。
知らない街の知らない道を、トボトボと歩いていた。
目的地は――目的地なんてなかった。
あえて言うならば、どこかに行ってしまいたかった。
消えてしまいたかった。
「ん?」
頬に水滴を感じた。
見上げると空は黒い雲で蓋されていて、瞬く間に雨が地上に降り注いできた。
周りを歩いていた他の人影は、誰もが雨を凌ぐ場所を探して散っていった。
たったひとり、大樹だけが残された。
雨に濡れても別に構わなかった。
少しは頭が冷えるかと期待していたのに、茹った脳みそはまるで収まらない。
不快だった。
何もかもが。
自分が綾乃のために選んだ水着を、撮影会で着ると聞かされて。
自分が撮影会に参加することを知った綾乃と喧嘩して。
自分に向けられた綾乃の笑顔は、他の参加者に向けられるそれと変わらなくて。
自分が選んだ水着を綾乃が着ていなくて。
自分が何もできないまま立ち尽くしているのに、綾乃は他の連中と楽しそうにしていて。
そして――
『アンタ、何しに来たの?』
きゅっと握りしめた綾乃の手の感触と一緒に、桃色の唇から零れた侮蔑の言葉が甦った。
心底呆れ返った眼差しと、怒りすら込められた瞳の輝きがまざまざと思い出される。
――俺は、何をしに来たんだ?
今さらながらに疑問に行き当たった。
答えは――見当たらない。
情報が公開された瞬間、反射的に申し込んでいた。
あの時は、何も考えていなかったように思う。
でも、それから考える時間はあったはずだ。
「仕事、見に来たんだろ」
綾乃と口論した時、本人に直接伝えた。
『お前が普段どんな風に仕事しているのか、自分の目で確かめたかった』と。
嘘をついたつもりはなかったが、何を見たかったのかとツッコまれたら答えられなかっただろう。
別に構わないと思っていた。
撮影会に参加して綾乃と相対すれば、答えは見つかると確信していたから。
今から振り返ってみれば、とんだ楽観に過ぎなかった。
おそらく、自分は自分にとって都合のいい綾乃が見たかった。
それは、ただの甘えだったと思い知らされた。
綾乃はプロのグラビアアイドルで、仕事に全力で取り組んでいる。
だから、大樹が勝手に思い描いていたような姿を見せることはなかった。
気づいた時にはもう遅くて、その浅はかさを綾乃に指摘され、散々にかき乱された心のド真ん中を撃ち抜かれて。
大樹は今、こうして雨の中を彷徨っている。
何もかも自業自得と嗤うほかない。
「……そっ」
「くそっ……」
「なんなんだよ、なんなんだよ! どーすりゃよかったんだよ、畜生!」
心の奥から湧き上がる感情のままに吠えた。
どうせ誰も聞いていない。何を言おうとも雨がすべてかき消してくれる。
だから、今は、今だけは――
「大樹くん、どうしたの?」
「え?」
大雨の中、背後から名前を呼ばれて驚いた。
こんなところに自分の名前を知っている人間がいるわけないと思い込んでいた。
もし知っている人間がいるのなら、それはきっと綾乃に他ならないと――
「……」
「やだ、その顔ウケる。私のことなんてすっかり忘れてたって感じ」
「……
車道の脇に寄せられて止まっていた車の窓が開いていた。
中から顔を覗かせていたのは、先日ショッピングモールで行動を共にしていた『
彼女は、綾乃に告白してフラれた『
「なんか色々拗らせてるみたいだけど、とりあえず乗っていきなさい」
ひどく優しげな声と眼差し。
大樹の前で音もなく車のドアが開いた。
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