第14話 あの子が水着に着替えたら その5【第3章終了まで、あと4話】

 あっという間に時間が過ぎてゆく。

 繰り返し順番を呼ばれて綾乃あやのの前に立ち、黙ってカメラを構える。

 50秒。

 たったの50秒。


――まただ、また指が動かねぇ。


――まだだ、まだ終わってねぇ!


――まだ、まだチャンスは……


 回を重ねるほどに焦燥が募る。

 気持ちは空回りする一方で、身体は言うことを聞かなくて。

 ルーティーンが何度となく繰り返された後、スタッフが割って入ってきた。

 何かやらかしたかと頭の片隅でぼんやりと考えていたら『移動します』と告げられた。


――そういえば、そんなこと言ってたな。


 綾乃から事前に送られてきたメッセージを思い出そうとして、うまく思い出せなかった。

 衝撃に次ぐ衝撃によって、大樹たいじゅの頭はまともに機能しなくなっていた。

 先頭は綾乃で、そのすぐ後ろにスタッフが続く。

 さらに後を大樹たちが付いて行った。


「ここは……」


 誰かの声が大樹の耳を震わせた。

 眼前に広がっていたのは、ひどく非現実的な空間だった。

 天井から明かりが吊るされているのは先ほどと同じだが、床はタイル張りだった。

 大人の全身が写せるほどの大きな鏡とシャワーのノズルがあって、バスタブがあった。


「風呂?」


「はい。次の撮影はこちらになります」


 大樹の口から無意識のうちに零れた言葉に、スタッフが頷いた。

 赤い三角ビキニだけを身にまとった綾乃がバスタブの淵に腰を下ろす。

 白い手が伸びてシャワーのノズルを掴み、おもむろに胸元に引き寄せる。

 自然と左右の胸のふくらみが中央に寄せられて、その存在が強調された。


――風呂……風呂って……


「では1番の方、どうぞ」


 声に促され、大樹は綾乃の前に立った。

 すかさずカメラを構えてシャッターに指を沿える。

 ファインダー越しに眩しい笑顔が覗き込んでくる。

 いつまでたっても見飽きることはなく、見慣れることもなかった。

 でも……いつもなら胸を高鳴らせてくれるはずの綾乃の顔が、今は苦しかった。


「クスノキさん、調子はいかがですか?」


 穏やかな声が耳をくすぐってくる。

 綾乃の声色は、いつも大樹が耳にしているものではなかった。

 他の参加者と言葉を交わすときと同じ、余所行きの声だった。

 優しい響きは……しかし、大樹の心を揺らすことはなかった。

 手を伸ばせば届くほどの距離を無限大に隔てる壁を感じる。


「……別に」


「肩の力を抜いてください、ほら」


 綾乃は苦笑を浮かべていた。

 そんな表情を見せないでほしかった。

 自分だけが雰囲気に溶け込めていないことを思い知らされるから。

まゆずみ あやの』は誰に対しても親しげで、積極的に言葉を交わし合っている。

 撮影会の直前に参加者同士で語り合った『黛 あやの』評に間違いはなかった。

 ……ただし、大樹を除く。

 大樹だけが、イベント開始以来まともに彼女と話せない。

 口は見えない固いひもで結ばれて、喉には鉛を流し込まれたように詰まっていて。

 話すどころか、もはや直に顔を見ることもできない。

 カメラを介さなければ、正面に立つことすら儘ならない。

 ここは――今の大樹にとって天国に限りなく似た地獄だった。

 

――俺だけが……俺だけが……


 心の中で荒れ狂っていた情動は、すでにどこかへ消え去っていた。

 でも、どうにもならない。

 心が動かない。

 綾乃と至近距離で向かい合っているのに。

 生まれて初めての異常だったから、対処法もわからない。

 頭の中は霞がかったように曖昧で、身体はまるで命令を聞かない。


 なぜ。

 なぜ。

 なぜ。


 わけがわからない。

 どれだけ考えても、答えは出ない。

 考えている場合じゃないとわかっていても、考えずにはいられない。

 結果――ひたすらに沈黙。立ち尽くす以外、他にできることは何もなかった。

 

「それで、ポーズはどうされますか?」


「……」


 会話はおろか、もはや返事もできない。

 綾乃は指示を求めているのに、答えることができない。

『あらかじめちゃんと考えてくるように』と念を押されていたのに。

 最初に撮影の順番が回ってきてから、ずっと変わらない。変われない。

 異変をきたしている大樹を前に、綾乃はそっと息を吐いて自らの意思で動き始める。

 面積の少ない水着は、柔らかさを存分に湛えた白い肌を覆い隠すことはできていない。

 少し動くだけでも危なっかしいと綾乃自身もわかっているだろうに、まるで遠慮がみられない。


――俺に見せつけてるのか?


 妄想が脳裏をよぎった。

 今までに見ないほどの大胆な仕草。

 時おりチラチラと様子を窺ってくる瞳。

 呆然としたままの頭に火が灯りかけて――消えた。

『特別扱いはしない』とメッセージにあった。

 だから、これは勘違い。

 ただの思い上がり。

 カメラを顔から離して、ふるふると頭を振った。

 くだらないことを考えていては失礼にあたる。

 綾乃はただプロとして仕事をしているだけなのだ。


「「「「おお~~~~~」」」」


 周りから歓声が上がった。

 次々とシャッター音が響き渡った。

 綾乃はほんのわずかに眉を顰め、すぐに表情を戻した。

 大樹もまた、カメラを定位置に戻してファインダー越しに綾乃と向かい合う。

 バスルームに反響する音が高まるたびに、綾乃の肌は色を増す。

 大樹を見つめる瞳は潤み、口元にちらりと覗く舌が艶めく唇を舐める。

 見たことのない表情、見たかった表情。何度となく夢に見た表情ばかり。

 まるで誘惑されているように思えたが、まるで現実味がない。

 大樹は何度となくシャッターに添えた指に力を込めた。

 

「50秒です。次の方、どうぞ」


 無情なスタッフの声に遮られ、大樹は綾乃の前を後にする。

 心が重く痺れている。

 残念に思っているようにも、ホッとしているようにも感じられる。

 どちらが正解だろうか?

 胸に手を当ててみても、答えは出なかった。


――まぁ、いいか。


 列の最後尾――と言っても、すでに列は崩壊していた。

 誰もが前のめりになって『黛 あやの』にカメラを向けている。

 最初は積極的に話しかけてきてくれた『がらんどう』も、すっかり自分の撮影にのめり込んでいた。

 別におかしいとは思わなかった。

 薄情だとも思わなかった。

 バスルームに移動してからの綾乃は、それほどに魅力的だった。

 蠱惑的と表現すべきかもしれない。

 目にする者の心を問答無用で鷲摑みにし、理性を奪う。

 抗うことなど許されるはずもなく、誰もが綾乃に夢中になっていた。

 大樹もまた、ずっとカメラを構えていた。

 ただひとり、他の参加者の後ろから。


『アンタだけを特別扱いとかできないから』


『他の参加者とかスタッフとかと揉めるのは絶対にダメ』


『撮影会をぶち壊しにしたら許さないから』


 思考も儘ならない頭の中を占めていたのは、綾乃が送りつけてきたメッセージの数々。

 いったいどんな意図が彼女の内にあったのか、今となっては窺い知れない。

 それでも、綾乃の気遣いがありがたかった。

 あらかじめ伝えていてくれたから、大樹は今、どうにか平静を保っていられる。

 自分勝手な衝動をまき散らして彼女の足を引っ張ることだけは避けられそうだった。

 もし――もしも、それを実行に移してしまったら、間違いなく『楠 大樹くすのき たいじゅ』は終わる。

 自分自身を構成していたすべてが崩壊する。綾乃に顔向けできないどころか、二度と顔を会わせることすらなくなるだろう。確信があった。


――バカじゃないのか、俺……

 

 ほうっとため息が聞こえた気がした。

 綾乃の口から零れる吐息の温度を感じた。

 湿り気を帯びた、甘い吐息が凍り付いた脳みそに吹き込まれた。

 大樹の順番ではないから、至近距離ではない。

 それでも、間違いなく感じた。勘違いなどではなかった。

 他の参加者と歓談し、写真を撮られながら……綾乃は熱を帯びていた。

 肢体だけでなく、心も。色づく肌だけでなく、ほころびた表情を見ればわかる。

 気づいているのは自分だけではない。

 だからこそ、誰もが綾乃にのめり込む。

 いつしか、バスルームから声が失われていた。

 シャッター音だけが鳴り響き、時おり思い出したように酸素を求める喘ぎが聞こえた。

 綾乃の傍に控えていた女性スタッフすら我を忘れていたようで、身体を震わせて『……50秒です』とかすれた声で交代を告げていた。

 

『彼女はこれからもっともっと上のステージに昇っていくに違いありません』


 そう嘯いていたのは誰だったか。

 つい先ほどのことのはずだったのに、記憶は既に曖昧になっている。

 聞いた時は大げさだなと呆れたが、今となってはその言葉の正しさは認めざるを得なかった。

『黛 あやの』は逸材だった。

 不世出と呼んでも差し支えはなかろう。


 バスタブは玉座で、シャワーヘッドは王杓。

 バスルームに君臨する半裸の綾乃には、間違いなく風格があった。

 裸の王様ならぬ裸の女王様。

 しかし、それは決してネガティブな意味合いではなかった。

 何もなくとも、何もせずとも、ただそこにいるだけで人目を集めずにはいられない。

 たった17歳の少女を相手に、誰もが彼女の前に傅くに違和感を覚えることはない。

 声をかけられることに喜びを覚え、微笑みかけられると天にも昇る心地を味わうことができてしまう。


 天才。

 天稟。

 天職。

 天性。


『グラビアアイドルになる』と初めて聞かされた時には不安を覚えた。

 今となっては、思い上がりの末のバカバカしい笑いの種でしかない。

 最も近くで彼女を見てきた大樹こそが、綾乃のことを一番理解できていなかった。

 この光景を目の当たりにすれば、彼女の本領が発揮される分野は明らかだった。

 ただ……一歩間違えれば信仰の対象として祭り上げられかねない危うさがあった。

 それだけは指摘しておくべきかもしれない。

 

――でも……


 いやが上にも盛り上がる中で、大樹だけがひとりだった。

 ひとり綾乃を見つめていた。少しだけ寂しかった。

 その瞳に、もはや光はなかった。

 その瞳を、綾乃だけが見つめていた。

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