第13話 あの子が水着に着替えたら その4【第3章終了まで、あと5話】
――何だ、今の?
撮影会が始まって以来、
その彼女がふいに
順番が回ってきていないにもかかわらず。
今までに見たことのない顔だった。ひと言で表現するならば、エロい。
大樹は思わず心臓を抑えた。心臓の鼓動がおかしい。呼吸がおかしい。
全身からおかしな汗が噴き出して、顔だけでなく頭全体が強烈な熱に晒された。
勘違いだと思った。
見間違いだと思った。
その証拠に――大樹の目の前で綾乃が笑っている。
きっちりメイクを施された整いすぎた顔立ちに浮かんでいるのは作ったところのない表情ではあったが、先ほど垣間見た強烈に心をかき乱してくる顔ではなかった。
ただ、それはそれとして。
今の表情だって十分にショッキングではあった。
なまじ長きにわたって綾乃と関わってきただけに……夏の太陽を思わせる彼女の笑顔に嘘がないことがわかってしまった。
綾乃は、今、心の底から楽しそうで、嬉しそうで。
彼女を黙って眺めているしかない自分が歯がゆくて、不甲斐なくて。
あの喫茶店で本人を前に『仕事ぶりが見たかった』と宣言していなければ、とっくに背を向けて逃げ出していたかもしれない。
「『あやのん』さぁ、学校の授業ついていけてる? この前ヤバいって言ってたでしょ?」
「もうっ……えっと、正直ちょっとヤバいです」
「仕事も大切だけど、勉強も大切だよ」
「勉強を頑張ろうとすると、みなさんと会うチャンスが減るんですよねぇ」
「僕らのことを考えてくれるのは嬉しいけど、ちゃんと自分のことを考えなきゃ」
「わかってますから。いつも気にかけてもらって、本当にありがとうございます」
「それはそうと、身体引き締まってるね。凄くイイ。今日の『あやのん』ずいぶん気合入ってない?」
「ありがとうございます。久しぶりの撮影会ですし、今日のために頑張って仕上げました」
「『週マシ』に載って地上波デビューも決めて、もうイベントに顔出さないかもってみんな心配してるよ」
「安心してください。そんなことありませんから」
「それ、SNSにあげていい?」
「ちゃんと自分で言います」
「わかった。我慢するから、なる早でお願い」
「了解です。早ければ今夜にでも」
「そこまで早くなくてもいいと思うよ」
「あはは。ちょっとせっかちでした?」
撮影者は大樹を羨んでいた男。
被写体はもちろん『あやのん』こと綾乃。
ふたりの会話は弾んでいたし、シャッター音が途切れることはなかった。
――何で綾乃の学校の成績なんて知ってるんだ!?
仲良く話をしていることもショックだったが、話している内容もショックだった。この場では大樹と綾乃以外が知るはずもない綾乃の日常に関する話題を、ごく自然に共有している。
何よりもショックだったのは――綾乃が会話を嫌がっていないこと。
身体の話も、成績の話も。どちらも大樹はあまり触れないようにしているのに。
ときおり怒っている風に見せてはいる綾乃だが、別に感情を激発させているわけではない。
何なら学校で見かけるクラスメートからの弄りに対する反応よりも、よほど穏やかで軽やかに対応している。
だからだろうか?
話せば話すほどにふたりは打ち解けて……笑みは柔らかくなり、瞳は輝きを増していく。
綾乃の眩しい顔が自分以外の人間に向けられているところを目の当たりにさせられて、大樹は胸の奥にドロドロとうねる黒い感情を自覚させられて。
知らず知らずのうちに奥歯を噛み締めた。
強く強く、それこそ歯が砕けんばかりに。
口の中に血の味が広がっていく。
甘やかな恋心ではなく。
苦み走った恋心でもない。
その感情の名前を、大樹は知らなかった。
「あの人、どこからあんな情報を……」
口の端から漏れた呟きは、呪いじみた響きをまとっていた。
ファインダー越しに綾乃を凝視していた大樹は、その不穏な声色に疑問を抱くことはなかった。
隣でシャッターを切っていた『がらんどう』が苦笑する。
「『あやのん』の成績ネタは鉄板ですから。あとフィットネスあたりも。今日の天気を尋ねるようなものですよ」
「天気って……」
要するに定番の挨拶みたいなものだ。
気負う必要はない……なんて冷静になれない。
『見られるのも仕事の内だから』
『プライベートまで見せる必要ないだろ?』
そんな会話をした気がする。
大樹は当然のことを口にしたつもりだったが、綾乃にとってプライベートへの介入は些細な話題に過ぎないのだろうか。
根本的な部分でズレを感じた。
この撮影会に端を発する自分たちのいさかいは、大樹が考えているよりもずっと深刻な問題なのではないか。
俄かに湧き上がってきた不安は、瞬く間に心を侵食してゆく。
「……そういうの、どうやって調べてるんですか?」
「どうって……普段からSNSで呟いてますからねぇ、彼女は」
『がらんどう』のあっさりした返事に、後頭部を殴られたような衝撃を覚えた。
綾乃のSNSなら大樹だって毎日欠かさずチェックしている。
今日だって、ここに来る前に数日前まで遡って見直した。
でも――それが話題のネタになるとは考えもしなかった。
なぜなら、綾乃がSNSに投稿する内容のほとんどは、大樹にとってあまりにも当たり前のことばかりだったから。
『アイツ、つまんねーことばっか呟いてるな』なんて呆れていたほど。
甘かった。認識が甘すぎた。
綾乃がすぐ傍にいることに甘えていた。
誰よりも自分が綾乃に近しいと思い上がっていた。
そう、思い上がりだ。綾乃に思いを寄せていながら、彼女の言葉を軽んじていた。
普段『あやのん』に会うことのできない彼らは、大樹よりも遥かにどん欲に『
自分に興味を、それも好意的な興味を向けてくれる人間を嫌いになることは難しい。
『黛 綾乃』は本質的に寂しがり屋で孤独を嫌う。
高校受験への日々を彼女と共に戦った大樹は、綾乃の性根を身に染みて理解している。
素っ気なかったりツンツンしたりして見せても、心の内では傍にいてくれる人を強く求めている。
それが大樹がよく知る、そして恋焦がれる『黛 綾乃』だ。
高校に入って劇的に変貌した彼女だが……内面まで完全に作り替えたとは思えない。
ましてや今の綾乃は――今の黛家は少々どころではない厄介な問題を抱えていて、きっと彼女は中学生の頃よりも重く大きな孤独を抱えている。
心身ともに成長した姿に惑わされていた。
理解が足りなかった。
共感ができなかった。
すべては自分の怠惰ゆえに。
ならば、変わらぬままに日々を過ごす大樹よりも、よほど熱心に自分に心を寄せてくれるファンたちとの方が会話だって弾むことは、もはや必定。
ましてや、大樹と綾乃はショッピングモールの一件から喫茶店で揉めて以来、ロクに言葉を交わしていない。
「なんてこった……」
喉を震わせて零したかすれ声は、幸か不幸か誰の耳にも届かなかった。
愕然としながら、再びカメラを構えて綾乃に向ける。
あまりにも情けない自分に憤りを覚えた。
あまりにも傲慢に過ぎる自分を悲嘆せずにはいられなかった。
ファインダー越しでなければ、彼女の顔をまともに見ることが出来ない。
「あ、『あやのん』……ちょっといいかな?」
「どうかしましたか?」
小首をかしげる綾乃に、男は少し身を乗り出して提案する。
スタッフの身体がピクリと揺れ、室内に緊張が走った。
「うん……そろそろショーパン脱いでもらっていいかな?」
不躾な男の声が心の底から耳障りだった。
叫び出したくなるところを、必死にこらえた。
『他の人の邪魔をしないように』
『撮影会の妨害は絶対にNGだから』
『本当にダメなことはスタッフが止めるから』
綾乃があらかじめ送ってきたメッセージが大樹を押しとどめた。
そして――綾乃は笑顔を崩さなかった。スタッフも動かなかった。
綾乃は素直に頷いて、かすかに頬を赤らめて、ちょっと唇を尖らせて。
怒っているようで怒っていない。
拗ねているようにも、揶揄っているようにも見えた。
こんなに近いところにいても、彼女の胸中を窺い知ることはできなかった。
「そうですね……じゃあ、そろそろ」
躊躇いはほんの一瞬だった。
躊躇っていると言うよりは、焦らしているように見えた。
フロントのホックを外し、布地の少ないショートパンツを脚から抜き取った。
見るからに不自然な動作なのに、何ひとつ違和感がない。熟練の技を感じた。
ゆっくりと身体をくねらせて、豊かで柔らかな胸の揺れと撓みを見せつける。
手慣れた一連の動作から生まれる、絶妙な肢体のうねりに生唾を飲まされた。
その瞬間、大樹は要求した男や綾乃を責める権利を失ったと思い知らされた。
見惚れた。
欲しいと思った。
彼女をメチャクチャにしたいと願った。
今この瞬間、大樹の脳内から理屈が吹き飛び、ただ欲望の滾りだけがあった。
――違う、そうじゃない。
ここにいる誰かにケチをつける権利なんて、もともと存在しないのだと気づかされた。
『アンタを特別扱いなんてしないから』
何度となく目を通しておいたはずの綾乃の言葉が、今になって大樹の頭蓋を焼いた。
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