第12話 あの子が水着に着替えたら その3

 ぎゅっと目を閉じて、大きく深呼吸。吸って吐いて、また吸って吐いて。

 雲散霧消していた気合を繋ぎ合わせて、千々に乱れた意識を集中させて。


「すぅ……はぁ、すぅ~~~~~~はぁ~~~~~」


 ゆっくり目蓋を開くと……ようやく室内を観察できる程度には落ち着きを取り戻せた。

 私室を思わせる部屋のド真ん中に、いかにもな椅子が置いてある。

 綾乃あやのは椅子に腰かけたり、身体を背もたれに預けたり。

 向かい合っている撮影者の要望に応えて様々なポーズをとっている。


――綾乃……


 苦々しい想いを飲み下しながら、視線を上に向けた。

 天井は大樹たいじゅの部屋よりも高くて、照明が遠かった。

 その分だけ照度が強く、直接見たら目眩がした。

 たったそれだけのことに気づくために、かなりの時間を要した。


「脇撮りしなくていいんですか?」


 ふいに耳打ちしてきたのは『がらんどう』だった。

 大樹の次の順番だった彼は、とっくに撮影を終えている。

 他の参加者が綾乃にカメラを向けている中で、この中年だけが大樹に寄り添っている。

『どうして?』と思わなくはないものの、聞き捨てならない単語を耳が拾っていた。


「『脇撮り』って何ですか?」


 その問いに『がらんどう』は大きく目を見開いた。

 眼鏡を外して目元を揉んで、再び眼鏡をかけ直す。


――変なことを聞いちまったかな?


『やっぱりいいです』と続けようとしたところで、後ろに立っていた男は綾乃に群がっていた撮影者たちを指さした。


「ほかの皆さんのように、横から『あやのん』を撮影することです」


「あ……ああ、言われてみれば。確かに順番じゃないのにみんな撮ってますね」


 これまた今しがたまで、あまり気にしていなかった。気が回っていなかった。

 順番を決めたはずなのに、順番が回ってきていない人間も綾乃にカメラを向けてシャッターを切っている。

 あの番号札は何だったんだと首を傾げてしまう。

 当の綾乃に促されて、1時間も前から待ち構えていた身としては、特に。


「被写体である『あやのん』はあくまで順番の相手の要望にしか応えませんが、撮影者の邪魔をしない限りは横から撮っても構わないルールなんですよ」


 例えばフラッシュなどは禁止らしい。

 綾乃と会話できるのも順番の人間だけ。

 他にもあれやこれやと禁止事項はあるが、基本的には『順番が回ってきた撮影者の邪魔をしない』という点に集約される。

 言われてみれば『なるほど』と思わされる。

 まんまと一回チャンスを無駄にした件は大樹が間抜けすぎたと言っても、ひとり頭50秒ごとの順番だけでしか撮影できないとしたら、これはなかなか恐ろしいシステムだ。

 1時間1万5千円の価格設定が、実質5倍の扱いになってしまう。

 5人で時間を頭割りすると、ひとりあたり約12分。

 頭の中で計算してみるだけで、ゾッとする。

 初参加の大樹にとってはありがたい情報だったが、素直に感謝を口にできない。

『がらんどう』に対して思うところがあるわけではない。

 単に大樹の中で感情を整理できないだけだ。


「あなたはいいんですか?」


 どうにか絞り出した言葉は、質問のカタチを取っていた。

 この撮影会に参加する条件はみんな同じはず。

 ならば、『がらんどう』だって同じ料金を支払っている。

 同じ金額であっても大人と子どもでは重みが異なるとは言え、初対面の大樹なんか無視して綾乃を撮影すべきなのではないか。

 わざわざ見知らぬ他人の面倒を見なくても――なんて、ついつい捻くれた思考に流れてしまう。


「お気になさらず。参加者の中に楽しめていない人がいると『あやのん』の笑顔が曇ります。それは私の望むところではない。そういうことです」


 返ってきたのは、あまりにもきれいに整えられ過ぎているのに自然体の答えだった。

 自分も最初に参加した時は、撮影に専念することなんてできなかった。

 今日初めて出会った中年は、そう続けながら懐かし気に目を細めた。

 どこか遠いところを見つめているような、迂闊なことを口にできない雰囲気があった。


「はぁ……その、今さらなんですけど、色々ありがとうございます」


「どういたしまして。考えてみれば初めての参加なのにトップバッターというのも良くなかったかもしれませんね。他の方のやりようを見てからの方が、クスノキさんもやりやすかったかもしれない」


 顎を撫でながら、そんなことを口にした。

 相変わらず眼差しにも口調にも偽りの色は見当たらない。

『がらんどう』氏は根っからの『あやのん』ファンで、撮影会を愉しむために参加者の誰よりも心を砕いている。

 さっき綾乃に何回も名前を呼ばれた大樹に『羨ましい』と露骨に嫉妬して見せた男とはまったく異なる人種だ。

 彼ら全員をひと言で『綾乃のファン』と括るのは危険かもしれない。

 少なくともこの中年男性は綾乃のことを大切に思っていることが、ひとつひとつの言動の端々から窺えた。

 その落ち着きは、常日頃から大樹が求めて得られないものに似ていた。

 心の中で荒れ狂っていた方向性を失った闘争心が、急に恥ずかしいもののように思えてくる。

 大樹は他の参加者どころか綾乃に気を遣う余裕なんてない。それどころか逆に気を遣われている始末で――

 

「なんか羨ましいです」


「私が……ですか?」


「ええ。その、余裕があるというか、周りに気配りできる人って凄いと思います」


「そんな風に言われるほどのことでもないんですが……」


 素直に褒めたら恐縮された。

 親子ほども年が離れている大樹の言葉を軽んじるところがない。

 

――そういうところが大人、なんだろうな。


 誰かに似ていると思った。

 アルバイト先の喫茶店のマスターに似ていると思った。

 どれだけ時を重ねれば自分はこの領域に辿り着くのか。

 とてもではないが想像がつかない。そんな日が訪れるとすら思えない。


「ほら、ゆっくりしている暇なんてありませんよ。早く『あやのん』を撮らないと」


「……そうですね」


 今は綾乃の撮影会の真っ最中で、自分が集中すべきは彼女の一挙一動に他ならない。

 わざわざ足を運んだのは、綾乃がどんな仕事をしているのか自分の目で確かめたかったからだ。

 当の本人にもそう告げたし、嘘をついたつもりもなかった。

 だから、反省なんてやっている場合ではないと思い直した。

 ここで考えがまとまらないようであれば、ここで記録だけでも収集して後からじっくり考えればいい。

 ふたり揃ってカメラを綾乃に向けると――ファインダー越しの綾乃は笑っていた。

 しかし、その笑顔は大樹に向けられたものではなかった。

 グラビアで目にするどこかの誰かに向けられた笑顔でもなかった。

 彼女の笑顔は、彼女の正面でカメラを構えている名前も知らない男に向けられていた。


「……ッ」


 急に得体の知れない苦しさを覚えた。

 ぎゅっと胸が締め付けられて、呼吸ができない。

 足元が定まらず、天地がひっくり返ったかのような衝撃に翻弄される。

 闘争心とか気配りが云々とか、大樹の中に渦巻いていた心が一瞬で纏めて握りつぶされた。


「……」


『綾乃』と名前を呼びたかった。

 名前を呼べば、彼女は自分の方に振り向いてくれるかもしれないと思った。

 でも、だからこそ――それは、それだけは絶対に許されない。

 撮影の邪魔になる。ひいては綾乃の足を引っ張ることになる。

 声をかけることはできない。出来ることは、ただ見守るだけ。

 

――クソッ……


 手を伸ばせば届く距離が縮められない。

 見守るとは言ったものの、見れば見るほどに焦燥が募った。

 本当は目を背けたかった。なにも見たくなかった。

 それでも、見た。

 見なければならないと自分に言い聞かせながら。

 ただじっと見つめているとスタッフだけでなく綾乃自身にも怪しまれるだろうから、カメラ越しに見つめた。

 綾乃の仕事ぶりを見るために自分はここにやってきたのだと、心の中で何度も何度も繰り返した。きれいごとを何度繰り返しても、胸の奥に燻るドス黒い炎は消えてくれない。

 傍から見てもハッキリわかるくらいにリラックスしている綾乃の姿を見ていると、指が震えた。

 少なくとも、最初に自分と相対していた時に彼女が垣間見せた緊張感は跡形なく消えてなくなっている。


「いや~、今日の『あやのん』は最高だよ」


「ありがとうございます。たくさん撮ってくださいね」


 お世辞ではない心からの賛辞を正面から受け止めて微笑む。

 恐縮するでもなく、世辞に顔を顰めるでもない。

 何もかもが、ありのまま。


――綾乃、あんな顔もできるんだな……


 学校で友人たちに見せる顔の方が、よほど作り物だと思った。

 今ここでカメラを構えたファンに向ける笑顔の方が、遥かに自然で魅力的だった。

 あんな顔を学校で見せたりしたら、それこそ冗談抜きで暴動が起こりかねない。

 あんな姿を、あんな、あんな……


「凄いな、アイツ」


 小さな声が零れた。

 隣の『がらんどう』が反応を見せなかったから、きっと大樹以外の誰の耳にも届いていない。

 称賛の声であり、感嘆の声であった。

 それ以外の感情も含まれていたが……大樹自身も気づくことはできなかった。


 整った顔に浮かぶ柔らかい表情。

 時おり見せる、弾けるような笑顔。

 耳に心地よい、透明感のある明るい声。

 肩肘張るところもなく、作ったところのない自然な姿。

 撮影者がカメラのシャッターを切る音は止まることなく、絶え間なくフラッシュを浴びせられることに綾乃が嫌悪感を覚えている様子はない。

 たとえファインダーが自分の胸や素肌を這いまわるように捉えていても、特に意識しているようでもない……どころか、わざと指を水着に引っ掛けて挑発する素振りまで見せている。

 男を恐れるどころか、男を手玉に取って転がしている印象すらあった。

 自分と向かい合っていた時よりも、今の綾乃はずっと楽しそうだった。

 認めざるを得なくて……歯ぎしりが止められない。

 自分はシャッターなんて切れない。指が動かない。

 あんな綾乃を――綾乃の笑顔を残すことを本能が拒否していた。


――え?


 一瞬、ほんの一瞬。

 綾乃の視線が眼前の撮影者から外れた。

 濡れた眼差しは大樹に向けられていて――そして、彼女の笑顔は蕩けていた。

 

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