第11話 あの子が水着に着替えたら その2
50秒。
50秒。
それは、一回当たりの撮影時間。
『あっという間に過ぎるから、前もって準備をしてくること』
綾乃は何度も何度も念を押してきていた。
彼女との間に蟠りこそ残っていたものの、基本的に綾乃が善性の人間であることは大樹が一番よく知っている。
だから、アドバイスには耳を貸したし対策だって考えた。
大樹だって決して何もしなかったわけではなかったのだ。
暇を見つけてはストップウオッチを使ってタイムを計った。
何度も何度も繰り返した。傍から変人扱いされてもやめなかった。
もはや本能レベルで50秒前後の時間を把握できると自負していた。
勘違いしていた。
思い上がっていた。
実際に撮影会に赴き、グラビアアイドルとしての『
大樹は呑まれてしまった。
綾乃が、いつも一緒だった想いを寄せる少女が作り出す世界に。
ほんのわずかな距離、手を伸ばせば届く距離で挑発的なポーズをとる綾乃。
バスローブを脱いで露わになった肌、衣服としてはほとんど役に立っていない水着。
初めて目にする彼女の水着姿。
自然に描き出される肢体の曲線。
時を追うごとに膨張する比類なき色香。
何もかもが大樹の心をメチャクチャに揺さぶってくる。
ファインダー越しに目と目が合うと、それだけで意識が飛ばされる。
――俺の知っている綾乃と違う……全然違う……
大樹は心の中で何度も自問した。答えなど出るわけがなかった。
瞳は焦点を結ぶことなく、ただ呆然と立ち尽くした。
この日のために買い求めたカメラに指をかけることもなく。
綾乃の奥で腕を組んで仁王立ちしていた女性スタッフから、気遣わしげな視線を感じた。
しかし――大樹は身動きひとつできないまま、ひとり思考の海に溺れていた。
『黛 綾乃』のことは詳しく知っているつもりだった。
彼女の家族を除けば、きっとこの世の誰よりも自分が一番。
そう自負していたし、それはあながち誤りでもなかった。
『黛 あやの』のことは詳しく知っているつもりだった。
彼女のグラビアはすべて目に焼き付けていたし、たとえどれほど小さなインタビューであっても目を通していた。
事務所の公式ページだけでなく、SNSのアカウントだって欠かさずチェックしている。
――綾乃……
違った。
思い上がりに過ぎなかった。
今日、今、大樹の目の前で水着姿をさらしている少女は、大樹が知っている綾乃であって綾乃でなかった。
圧倒的なまでの生々しい存在感があった。
ひと目見ただけで意識を霞ませてしまうほどの色香があった。
眩しい笑顔があり、優しい心づくしがあり、熱烈なファンの支持があった。
柔らかな曲線を描く白い肌があり、その肌を最大限魅力的に魅せる水着があった。
自信に満ち溢れたポージングの端々に、一年以上に及ぶ活動の成果が如実に表れていた。
撮影会が始まる寸前に『がらんどう』をはじめとする他の参加者と言葉を交わした時の記憶が甦った。
彼らは口々に綾乃を讃えていたけれど、大樹は心のどこかで『褒めすぎだろ』と呆れていたし『こいつら、綾乃のこと何にもわかってないな』と醒めた視線で見下してすらいた。
何もわかっていないのは、自分の方だった。
ひとりのグラビアアイドルとしてファンと向かい合う綾乃は、正しく彼らが口にしたとおりの人物であり、いつも大樹が目にしていたような残念なところがある17歳のJKではなかった。
『黛 あやの』は間違いなくプロであり、大樹はアマチュアですらなかった。
――何でこんなに違うんだ……俺の知ってる綾乃と……
『黛 あやの』のグラビアはすべて目にしている。
大樹の前では基本的に衣服で隠されている肢体も。
カメラを通してファンに向けられる艶やかな笑顔も。
演技なのか素なのか俄かには判断できない他の表情も。
ひとつ残さずチェックしてきたはずなのに、何かが違う。
――エロいってわけじゃない。いや……エロいけど、そうじゃなくって……
単純に露出度の問題で面食らったというわけではない。
これまで綾乃が見せてきたグラビアの中には、もっと面積の小さいものもあった。
もっとアングルが際どいものもあったし、もっとカメラとの距離が近いものもあった。
エロいとかエロくないとか、そういう表層的な問題に今さら戸惑いを覚えているわけではない。
綾乃がグラビアアイドルとしてデビューして以来、大樹の男に火をつけるのはいつだって彼女だった。
身近な人間に欲情する自分を恥じた。
恋焦がれる女性を穢す自分を恥じた。
『合わせる顔がない』と自分を責めた。
だから大樹はいつも綾乃以外のグラビアで心と身体を鎮めようとして――でも、最後に脳裏を占めるのは、いつも彼女だった。
欲情するという点において、対象が綾乃であればよかった。
露出度もアングルも距離もあまり関係がない。
そうして一年と少々の時を過ごしてきても、いつまでたっても綾乃に飽きることはなかったけれど……さすがに、ここまで動揺を露わにすることはなくなってきた。
飽きはしないが慣れはした。
そのはずだった。
俯いていた顔をわずかに上げると、その視線の先には綾乃がいた。
瞬間、唐突に悟った。
『黛 綾乃』が目の前に『いる』のだ。
大樹が知る『黛 あやの』は、あくまで画像データに過ぎなかった。
どこかの誰か(おそらくはプロのカメラマン)が撮影した綾乃の姿には違いない。
でも――グラビアは綾乃を写してはいるものの、それは決して綾乃自身ではなかった。
――あ……
今、大樹の目の前に、綾乃がいる。
中学生のころ、塾で目にしたときから気になっていた。
声をかけて、一緒に勉強して。同じ志望校に合格して。
きっかけは覚えていないが永らく恋心を募らせてきた。
初めての恋は――それが恋だと自覚してからは、ただひたすらに甘かった。
初恋はまるで夢のような心地で、でも……その甘さに苦みが混じったのは、いつの頃だっただろうか?
好き。
一緒にいたい。
手を繋ぎたい。
唇にキスしたい。
胸が見たい。触りたい。
裸が見たい。そして――その先を知りたい。
恋愛感情と性欲を分離できない。
制御なんて以ての外。
そんな自分が、たまらなく厭わしかった。
綾乃にだけは、この醜い心を知られたくなかった。
――でも……あの頃は、それでよかったんだ。
中学生の頃は、綾乃は大樹以外の男子を避けていた。
自分に向けられる性的な眼差しを毛嫌いしていた。
だから、いつも彼女を独り占めできた。
今は、違う。
綾乃は自らに向けられる性的な視線も関心も、堂々と胸を張って受け止めることができるようになった。
自ら覆い隠していた心の壁を取り払った彼女の周りには、多くの人間が集まり始めた。
蹲って俯いて、誰それ構わず睨みつけていたガリ勉少女は、もうどこにもいない。
大樹が守らなければならないと自らに誓った少女もまた、もうどこにもいない。
しかし――その変化は、その成長は本来祝福すべきものであるはずだった。
揶揄い気味に綾乃の成長を褒め称えた。
少しはにかみながら喜んでくれた。
否定してはいけないと思った。
だから……ずっと自分の心に蓋をし続けた。
かつての綾乃を知る者として、彼女の理解者として、彼女を応援し続けた。
本当は……『黛 綾乃』は『
矛盾している。
自分だけを見てほしいと願う心と、広い世界に羽ばたいてほしいと願う心が。
大樹は内なる矛盾から、ずっと目を逸らしてきた。
綾乃は、きっと自分なりの答えを見つけたのだろう。
自信に溢れる姿が、何よりも如実に彼女の心を物語っている。
――こんなの、一回見たら絶対忘れられないだろ。
他の参加者たちの異様ともいえる熱気の理由に、ようやく思い至った。
答えはいたってシンプルで、『黛 あやの』には天性の魅力がある。
ただ、それだけのことだった。
「はぁ」
唇から零れる吐息に合わせて胸が揺れる。
透き通るような白い肌にはかすかに汗が滲んでいる。
温度調節が上手く行っていないのか、わずかに朱が差している。
瞳は潤んで煌めいて、唇は濡れて輝いて。まるで誰かを誘っているかのよう。
あんな眼差しを浴びてしまったら、とてもではないが正気を保ってなどいられない。
さらさらでつやつやの髪が、動くたびに踊っている。
よくよく見れば赤いビキニの水着は肌に食い込んでいた。
サイズが合っていないのか、意図的に合わせていないのか。
豊満な胸を隠すふたつの三角形を繋ぐ紐が、肌に影を作っている。
少し指をひっかけたら解けてしまいそう。ギリギリの危うさが堪らない。
まるで男を誘っているように見える。否、誘っているようにしか見えなかった。
『黛 綾乃』が男を誘うなんて、できないと思っていた。
できないままでいてほしいと思っていた。
――これが、綾乃なのか……今の綾乃なのか……
学校で目にする彼女ではなく。
グラビアで披露される彼女でもなく。
妄想の中で微笑みかけてくれる彼女でもない。
今の綾乃は……あまりにも現実で、あまりにも非現実な存在だった。
大人になるとかならないとか、彼女の傍に寄り添うとか。
そんな自分の迷いも決意も、根本的に足りていない。
大樹が一歩前に進む間に、綾乃は十歩どころか百歩は進む。
このままでは……きっと一生追いつけない。
――今さら気づいても、もう遅い……のか?
ぎゅっと目をつぶって首を振った。
現実は現実として認めなければならない。
でも……今は周回遅れでも、追いついてみせる。
次の順番が回ってきたら、堂々と向かい合ってみせる。
誰にも聞こえない言葉を、心の中で何度も何度も叫んでみせた。
歯を食いしばりながらも眼を見開いて、食い入るように綾乃を凝視した。
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