第10話 あの子が水着に着替えたら その1

 初めて参加する撮影会。

 初めて足を踏み入れるスタジオ。

 初めて顔を会わせたほかの参加者たち。

 慣れないことだらけの大樹たいじゅの前に現れたのは、綾乃あやのだった。

 彼女の撮影会に参加しているのだから、当たり前といえば当たり前。

 ……のはずだったのだが、


「これから第4部の撮影会を開始します」


 やたら存在感のある女性スタッフの声が、右から左に通り抜けた。

 呆然としていた大樹に向けられる、見慣れたはずの綾乃の顔に浮かぶ見慣れない表情。

 

――誰だよ、これ……


 まるで別人だ。

 率直にそう思った。

 心も身体も硬直してしまった。

 呼吸すらままならない大樹の目を捉えて離さない、綻ぶような笑顔。


「えっと、よろしくお願いします。初めてお会いする方ですよね、えっと……」


「あ、その、クスノキです。よろしくお願いします」


「はい、クスノキさんですね。こちらこそよろしくお願いします」


 満面の笑みに背後から歓声が上がる。

 しかし、大樹は素直に頷けない。

 喉はカラカラで、頭はクラクラ。

 ボロを出さないようにするのが精いっぱい。

 ここに来るまでに溜め込んでいた気合は、とっくの昔に霧散していた。


『当たり前のことだけど、撮影会の時は初対面って設定だから。私たちはお互いに知らない者同士。変なこと言わないように』


 あらかじめ送信されてきたメッセージが脳裏に甦る。

 送り主は、眼前で微笑む少女だった。

 ギリギリで思い出すことができたおかげで、何とかそれらしく振る舞うことができている……はずだった。

 今、自分がどんな顔をしているのか、大樹はまったくわからなかった。

 しかし――綾乃の眉がわずかに寄っている。

 驚きか、不満か。

 

――きっと不満だな。


『おそらく自分は今、ものすごく変な顔になっているのだろうな』と想像できた。

 余所行きの笑みを浮かべていても綾乃は綾乃。

 目の奥に揺らぐ光から感情を読み取ることはできた。

『そんな顔するなよ』と言ってやりたかったが、それどころではなかった。


「それじゃ1番の方は……」


「自分です」


 綾乃に問われて大樹が答える。

 ワザとらしいやり取りだと呆れたのは、きっと自分たちだけ。

 彼女は大樹に1番の札を取らせるために1時間も前に集合場所に来るよう指示していたのだから。

 目論見通りに事を運んでいるはずの綾乃は目を細め、艶めく唇に言葉を乗せる。


「はい。それじゃ脱ぎますけど、どんなポーズがご希望ですか?」


「脱ぐ!?」


 あっさり出てきた『脱ぐ』という単語に驚き、悲鳴に似た声が喉から弾け出た。

 綾乃は笑みを崩さなかったが、ほんの少しだけ口元が引きつっていた。

『今さら何を驚いてるの?』なんて声が聞こえてきた気がした。


「バスローブです。クスノキさん、おかしなこと考えませんでしたか?」


 口元に手を当ててクスクスと笑う。

 後ろでも失笑交じりのさざ波が揺れた。


「すみません、その……お願いします」


「それじゃ脱ぎますね。それで、ポーズは?」


「……」


 言葉が出ない。

 頭の中は真っ白で。

 喉も口も動いてくれない。

『あらかじめ考えて来い』とメッセージにはあった。

 どうすればいいのかシミュレートはしてきたが……そんなものはすべて吹き飛んでしまった。


「脱ぎ終わるまでに決めておいてくださいね。そこから50秒ですから」


「……はい」


 首を縦に振るだけで精いっぱいだった。

 綾乃がバスローブに手をかける。

 後ろに構えていた他の参加者が、すかさず大樹の横に回り込んでカメラを構えた。

 彼らのアクションは理解できなかったが、それどころではなかった。

 大樹の脳裏は全く別のことで占められていたから。


――確か、最後に残っていたのは……


 先日ショッピングモールで大樹が選んだ水着のうち、片方は既に公開されていた。

 残っているのは――


「おお~」


 周囲から歓声が漏れた。

 ひとつひとつは小さな声だったが、4人も集まれば立派な大声になる。

 バスローブがはだけられ綾乃の白い肌が露わになる。

 思わずゴクリと唾を飲み込んだ。


――綾乃……


 中学三年生の頃からずっと傍にいた。

 しかし、大樹は綾乃の肌を直に見たことはなかった。

 当時の彼女は性的な視線を向けられることを嫌っていたから必死に欲望を抑えていたし、受験を前にどこかに遊びに行く機会もなかった。

 だから――大樹が知る彼女の身体はグラビアアイドルとして活動を始めた『まゆずみ あやの』のものだけであった。

 雑誌あるいはインターネットなどなど。

 メディアの違いこそあれ、すべてはプロによって撮影された写真のみ。

 言ってみれば商品としての(商品と呼ぶのは失礼に過ぎるが)『黛 あやの』しか見たことがなかった。

 撮影会に応募した理由について本人から問いただされた時に『仕事ぶりを直接見てみたい』と語ったことは嘘ではなかった。それは間違いなく真実だった。

 純粋に彼女のことを思ってきたつもりだったが……期待がなかったわけではなかった。

 思慕があった。欲望があった。心配していた。

 そして今、すべての感情が漂白された。

 生まれて初めて至近距離で目にする想い人の肢体は、一瞬で大樹の理性を焼き切ってしまった。


 上は――赤の三角ビキニが豊かに盛り上がった胸元を守っていた。

 布面積は小さめでガードが緩い。谷間に揺れる紐を引っ張りたくなる。

 下は――サイズが合ってなさげなデニムのショートパンツが、引き締まったお尻を隠していた。

 鋭い角度に切れ上がった赤い紐が見えるので、きっと下にはビキニのボトムスを履いているのだろう。

 カシャカシャと小さな音が大樹の耳を小刻みに揺らした。

 綾乃を囲んでいるほかの参加者がシャッターを切っていると気づいたが、大樹は動けなかった。


 撮影会の話を聞かされた時にショックを受けた。

 悶々と日々を過ごした。

 現地に足を運んで緊張した。

 見知らぬ人に話しかけられて驚いた。

 スタジオに待ち構えていた綾乃と向かい合って、衝撃を受けた。

 もう、これ以上の『何か』は訪れない。無意識にそう思い込んでいた。


 甘かった。

 綾乃は――『黛 あやの』は、そんな生ぬるいレベルではなかった。

 初めて目にする綾乃の肌が与えてくるインパクトは、容易に大樹の想像を上回った。

 何度となく脳裏に思い描いていたはずの姿が霞んでしまうほどの、圧倒的な存在感に打ちのめされた。

 大樹の思考をかき乱し続ける動揺は、もはや言語化できるレベルではなかった。

 そして何よりも――


――違う。


 綾乃が身に着けていた水着は、大樹が選んだものではなかった。

 そのことに酷く驚きを覚え、そして戸惑った。

 指先すら動かせないほどに。


「クスノキさん?」


 綾乃の声が耳朶を震わせてくる。

 優しく見守るような、ちょっと揶揄うような。

 少しだけ怒っているような、そして――悲しそうな。

 相反する様々な感情が複雑に入り混じった瞳が自分に向けられていて、ふいに涙が零れ落ちそうになった。

 ギリギリで堪えられた理由すら定かでなかった。


「クスノキさん、大丈夫ですか? ポーズ、どうしますか?」


「あ、ああ」


 混乱のあまり、いつも綾乃と学校に通っている時に使っている声が出てしまった。

 中学三年生の頃から変わらない、馴れ馴れしい声が。

 僅かに綾乃の目が細められ、そして――


「クスノキさん……カメラ、構えてください」


「……」


 ほんの少しだけ力が込められた声に逆らうことなどできなかった。

 綾乃に導かれるままにカメラを構え、指をシャッターに添える。

 ファインダー越しに見つめる綾乃は、ひどく遠く感じられた。


「ポーズ、自由でいいですか?」


「……お願いします」


 問われるがままに答え、頷く。

 綾乃は腰に手を当てて前かがみに上体を下ろした。

 赤いビキニの間に深い胸の谷間が刻まれる。

 顔は――少し怒った表情を作っていた。

 撮影のための演技だったのか、それとも本心からなのか判断がつかない。

 綾乃のことなら何でもわかると思っていた。自負があった。


――何なんだ、これ……


 わからなかった。手を伸ばせば届くところにいるはずなのに。

 綾乃が何を考えているのか、想像することすらできなかった。


「クスノキさん、シャッターお願いします」


「あ、はい」


 言われるがままにシャッターを切る。

 自分が今どこで何をしているのか、サッパリ理解が追い付かない。

 混乱の渦中に放り込まれた大樹の前で、綾乃はごく自然にいくつかポーズを取り、そのたびに『クスノキさん』と呼びかけてくる。


『クスノキさん』

『クスノキさん』

『クスノキさん』

『クスノキさん』


 声に合わせて指が勝手に動き、カメラが勝手に綾乃の姿を収めていく。

 自分の身体が自分のものではないような錯覚。

 ふわふわとして、まるで現実味がない。

 夢見心地とも表現できない。

 頭が痺れていた。


「はい、次の方」


 スタッフの声、とんとんと肩を叩かれる指の感触。

 我に返って身体をビクリと跳ねさせて振り返ると、苦笑を浮かべた『がらんどう』がいた。


「あ……えっと」


「すみません、クスノキさん。順番です」


「……はい」


 上擦った声が口から漏れた。

 辛うじて首を縦に振って、さっと場所を譲る。

『撮影会の邪魔をしてはいけない』

 綾乃が送ってきたメッセージのおかげだった。


「羨ましい」


 すれ違いざまに、隣の男の呟きが耳に触れた。


「え?」


「『あやのん』に何回も名前を呼ばれて、羨ましいって言ったんだよ」


 男はカメラを構えたまま、声だけで大樹に不平を漏らした。

 その間も男の指はシャッターを切り続けている。

 見回せば、他の参加者も同じだった。


――今ので50秒!?


 ここへきて、ようやく大樹も自分が一回目のチャンスを無駄にしたことを悟った。

 あれだけ綾乃に何度も念を押され、ストップウオッチで練習した50秒。

 その努力は――何の役にも立たなかった。

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