第6話 踏み込んだ先に その1

 カチッ


 ボタンを押してストップウオッチを見やる。

 54秒。

 再び手をだらんと下ろして……ボタンを押す。

 49秒。


「……もう少しだな」


 狙っていたのはジャスト50秒。

 誤差は10秒以内に収まっているが、満足はしていない。


「ふぅ」


 見上げた空は梅雨時分にしては珍しく晴れ渡っている。

 あらかじめ確認しておいた天気予報では、今日の降水確率は20パーセントだった。

 幸いにも雨こそ降っていないとは言え、全身にまとわりつく湿気はなかなかに耐えがたい。

 胸の奥に溜まった熱を吐き出しつつ……ストップウオッチを止める。

 51秒。

 ハンカチで首元の汗をぬぐった。

 拭いても拭いても後から後から吹き出してくる汗が煩わしい。

 単に暑いから……と言うだけでないことは理解している。

 時を経るごとに緊張感が高まり、余計に汗をかく。

 こればっかりはどうしようもなかった。

 スマートフォンを取り出し、ディスプレイに指を這わせる。


まゆずみ あやの水着撮影会』


 表示されたのは、綾乃が所属している芸能事務所の公式ページだ。

 本日開催されるグラビアアイドル『黛 あやの』の撮影会の専用サイトには、初めて見た時よりもサンプル写真が増えていた。

 当初はシークレットとされていた2着の水着のうち、1着が解禁されていた。

 薄い黄色のビキニ。大樹たいじゅ綾乃あやのに急かされて選んだ水着の片割れである。

 この画像が公開されて以来、SNS界隈の『黛 あやの』まとめサイトではちょっとしたお祭りになっていた。


『『あやのん』は俺たちの期待を裏切らないッ!!』


 その見出しを目にしたとき、何とも言えない気持ちが湧き上がった。

 自分が見立てた水着が綾乃に似合っていると褒められた嬉しさがあった。

『週刊少年マシンガン』の巻頭を勝ち取り、テレビドラマにも出演することが発表された彼女が、そのまま女優の道を進んでグラビアから遠ざかることを懸念するファンの心理も、手に取るように理解できた。

 そして――仕事のためとはいえインターネットを介して水着姿でセクシーなポーズを世界中に公開している現状に対する焦燥に苛まれた。

 そう、胸の奥が焼けつくような痛みを発し続けているのだ。

 綾乃がカメラの前に肌を曝け出すなんて、それこそ今さらの話なのに。


「納得してたつもりだったのに……なぁ」


 これまで大樹は『黛 あやの』の活動を応援してはきたものの、積極的に関わろうとはしなかった。綾乃も大樹にそれを求めてはこなかった。

 今回は違う。

 水着のチョイスのみとは言え、間接的に大樹は綾乃の仕事に関わっている。

 普段は綾乃を周囲の好奇の視線から守ってきたくせに、自分の手で綾乃の肢体を白日の下に曝け出させる後押しをしている。

 そこには盛大な矛盾があった。


「くそっ」


 気を抜くと渦巻くヘドロのような苦しい衝動のままに、誰それ構わず当たり散らしたくなる。

 口の中は常に苦みがいっぱいで、どれだけ口をゆすいでも気分が晴れない。

 綾乃が芸能界デビューを果たして以来、あるいはインフルエンザに倒れた大樹を見舞いに来てくれた彼女が『私、グラビアアイドルになるから』と言い放ったあの日以来、ずっと抱え込んでいた綾乃に対するねじ曲がった感情が、今回のいざこざを切っ掛けに煮詰められて凝り固まった。

 ずっと綾乃に言いたくて……でも、我慢していた心のしこり。


 その正体は――きっと独占欲だ。


 大樹は綾乃を独り占めしたいのだ。

 そう解釈するのが一番しっくりくると思った。

 急速に大人びてゆく彼女への嫉妬などではなかった。

 別に大樹は綾乃のように世間に名を知らしめたいわけではない。

 何故独り占めしたいのかと問われれば――もちろん綾乃のことが好きだから。


 綾乃が欲しい。

 自分だけのものにしたい。

 それが『楠 大樹くすのき たいじゅ』の偽らざる本音だ。


 一方で、綾乃の足を引っ張ってはならないという思いもある。

 大樹の知る綾乃――中学校時代の綾乃は、毎日とても息苦しそうだった。

 親から与えられるプレッシャーと、周囲から向けられる視線に押し潰されそうで。

 いつも猫背で俯いていて、瞳は澱んでいて。表情筋は死んでいた。

 綾乃が顔をほころばせるのは大樹の前だけ。きっと誰も彼女の笑顔を知らない。

 ふたりだけの時間は独占欲を満足させてはくれたものの……見ているだけで辛かった。

 自分の欲望を満たすためだけに彼女に苦難を強いるほど、大樹は傲慢でもなければ人でなしでもなかった。『楠 大樹』は、良くも悪くもどこにでもいる人間に過ぎなかった。

 励ました。

 応援した。

 手を取って一緒に歩いた。

 追いつめないように、置いて行かないように。

 彼女と共に過ごした一年は、ずっと気を配り続けていた。

 思いつく限りのことをしたつもりだったが、どれだけ役に立っていたかはわからない。


 そんな彼女は高校に入って芸能界に入って――まさしく一変した。

 背筋を伸ばして胸を張り、瞳を輝かせ、顔には笑みを浮かべるようになって。

 最近の綾乃は毎日が楽しそうだ。きっと充実した生活を送っているおかげに違いない。

 本人の口から直接聞かされたわけではないが、そんなことは見ていればわかるものだ。

 綾乃の日々を鮮やかに彩っているのは、グラビアアイドルとしての仕事に他ならない。

 あれほど性的な視線や話題を嫌っていた彼女が自ら望んで……正直に言えば意外だと思った。

 だが、現実は現実として受け入れなければならない。

 思い返してみれば、大樹は綾乃を守りはしていたものの、ありのままの彼女を受け入れたり認めたり、あるいは褒めたりはできていなかったと気づかされた。

 綾乃に必要だったのは、無作為に守ることでも人目を遮ることでもなかったのだ。

 だから……せめて彼女の仕事を妨げるようなことはしないと誓った。

 他の誰かが許してくれても、大樹自身が許さない。


 カチッ

 ボタンを押した。

 58秒。

 狙いから外れている。

 余計なことを考えたからだと、己を強く戒めた。

 目を閉じて大きく深呼吸。

 再びボタンに指をかける。

 カチッ

 54秒。

 ため息をついて、スマホの時刻表示をチェック。

 何度も目にしているし、大して時間は過ぎていない。

 カレンダーの日付は――6月21日。


 今日は6月21日である。

 すなわち『黛 あやの水着撮影会』の当日だ。


 大樹は今、人気急上昇中のグラビアアイドル『黛 あやの』こと綾乃の撮影会の会場であるスタジオの前に立ち尽くしていた。

 いつもよりもワンランク上の衣服を身に着けて。

 いつもよりも時間をかけて髪形を整えて。

 買ったばかりのカメラを携えて。

 

「はぁ……まだか」


 心臓がバクバクと鳴って落ち着かない。

 こんなところに足を運ぶことになるなんて、想像したこともなかった。

 ……とは言え、撮影会に参加することを決めたのは大樹自身の意思なのだが。

 アルバイト先である喫茶店で揉めて以来、綾乃とは直接口を聞いてはいない。

 彼女が学校へ行く日は毎日迎えに行っていたし、放課後に用事がない日は一緒に帰っていたにもかかわらず。

 傍から見てもわかるくらいに異常な日常が営まれていた。


『さすがにそれはどうかと思うけど……本当に大丈夫か、楠?』


『何ともない』


『楠が何も言わないって言うのなら、僕が綾乃さんを誘っても構わないか?』


『絶対に許さねぇ』


 心配されてもはぐらかした。

 綾乃に近づこうとする秀一しゅういちに対しては断固拒否の姿勢を貫いた。

 身勝手なことを口にしていると呆れたが、秀一は大樹の意思を尊重してくれた。

 そして綾乃とは――お互いにずっと無言。ひたすらに無視。彼女が歩み寄る気配を見せることはなかったし、大樹の側からも頭を下げるつもりはなかった。

 それでも……綾乃は大樹を遠ざけようとはしなかった。

 大樹もまた、綾乃と距離を取る意図なんてなかった。

 ギスギスした日々が続き、ある日唐突にスマホが震えた。


『集合場所には30分前。ううん、1時間前には来ること。遅刻厳禁』


『一回当たり50秒。思ってるより短いから、ちゃんと時間に慣れておくこと』


『どんなポーズが撮りたいのか事前に考えてくること。その場で考える余裕なんてないから』


『ポーズの変更含めて50秒だから、私を大きく動かすのは時間の無駄。あらかじめいくつかパターンをイメージしておいて、状況に応じてすぐに指示出しすること』


『3つのスタジオを移動するから要注意。シチュが変わっても焦っちゃダメ』


『他のファンと仲良くしろとは言わないけど、絶対に揉めないこと』


『あまりいやらしいポーズはNGだし、ローアングルもダメ。運営につまみ出されるから』


『写真撮って即SNSにアップするのもダメ。載せていいのは事務所が許可した奴だけ』


『ホームページは熟読してくること。学校じゃあるまいし『読んでませんでした』とか通じないから』


『50秒ってホント短いから、ちゃんと慣れておくこと』


 などなど。

 送信者は綾乃。

 何の脈絡もなく大量のメッセージが送られてきた。

 訝しみながら文面に目を走らせると、撮影会における注意事項だった。

 一方的なメッセージが途切れたあと『わざわざ教えてくれてサンキューな』と返したら『ば~か』と返信が来た。

 以後、ふたりのやり取りはない。

『50秒』がやたらと強調されていたので、大樹は今もタイムを計っている。


――親切なんだか、意地っ張りなんだか……


「わけわからん」


 自分も意地を張っているという自覚があったから、あまり強くも言い返せない。

 誰にも聞かれないように、そっと吐き捨ててボタンを押した。

 52秒。

 

「おや、もしかして『あやのん』の撮影会ですかな?」


 いきなり聞き覚えのない声をかけられて、大樹は驚きのあまり大きく身震いした。

 ストップウオッチのボタンにかけた親指が、汗で滑った。

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