第4話 合間に軋む その4

 綾乃あやのとショッピングモールで水着を買った日の夜のことだった。

 買った水着を撮影会で着ると綾乃自身から聞かされた日の夜のことでもあった。

 自室のベッドに横たわっていた大樹たいじゅは、『まゆずみ あやの』のSNSに撮影会の情報が掲載されているのを目にして――感情を整理できないままに事務所の公式ページにアクセスして、その手で参加申し込みを行った。

 ひととおり入力を終えて元のページに戻ってみると、すべて『SOLD OUT』の赤字が並んでいたから、ほんのタッチの差でギリギリセーフだったことになる。

 迷っていたら申し込みは間に合わなかっただろう。


「どういうつもりと言われても、撮影会に参加するってことは綾乃の写真が撮りたいってことだろ」


「そんなの……わざわざ高いお金払ってまで?」


「あれ、お前の目から見ても高いのか……」


 一時間1万5千円。

 喫茶店で働いて得るアルバイト代で換算してゾッと背筋が凍ったが、躊躇いを覚えることはなかった。

 衝動的な行動ではあったと思うものの、後悔はしていない。


「何で私に黙ってたの?」


「何で言わなきゃならないんだ?」


「聞いてるのは私なんだけど!」


「……俺が行ったらダメなのか?」


「え?」


 売り言葉に買い言葉でヒートアップする口論は、大樹の口から零れたひと言でストップした。

 目をパチクリさせる綾乃を正面から見つめ返しながら言葉を紡いだ。

 思ったままの生の言葉を。理性を介することなく、本能の赴くままに。

 決して口にするつもりがなかった言葉だった。少なくとも綾乃に伝えるつもりはなかった。

 それでも……一度溢れ出した感情は、もう大樹自身にも止められない。


「さっきから何か変な感じだよな。俺が撮影会に参加したら都合が悪いみたいに聞こえる」


「べ……別に、そんなことないし」


「ほんとかよ」


「何? 私を疑ってるの?」


「疑ってるわけじゃないけど、そこまで拒絶されると却って心配になる。俺に見られたら困ることでもやってるんじゃないかって」


「大樹!」


 綾乃が勢いよくテーブルに手をついて立ち上がった。

 ふたりの距離は縮まったが、心の距離は遠くなる一方だった。

 お互いに睨み合ったまま、しばらくの時が流れた。店内に音はない。

 大樹の背後でカップを磨いているはずのマスターに至っては、存在感そのものがない。

 ほぼ完全にふたりきりの世界だったが、それは決してロマンチックなものではなかった。


「……すまん、さっきのは言い方が悪かった」


「……」


 肩をいからせる綾乃を前に、ようやく理性が口に追いついた。

 胸に手を当てて深呼吸して、ゆっくりと言葉を選ぶ。

 口中に広がる味は、相変わらず苦かった。


「写真なんて、言ってくれれば好きなだけ撮らせてあげるのに」


 写真を撮らせてくれると言われて驚いた。

 確認してはいないが、きっと水着だろう。

 勝手な妄想だが間違ってはいないはずだ。

 ファンなら興奮間違いなしな綾乃の言葉に――大樹は首を横に振った。


「……それじゃダメなんだ」


「ダメって何が? 何で?」


「あの時に気づいたんだよ」


「……気づいたって、何を?」


 綾乃が向けてくる訝しげな眼差しを正面から受け止め、頭の中で精いっぱいの言葉を探し、誤解の余地がないかどうか確認し、ゆっくりと口を開いた。

 さっきのように感情をそのまま形にして、綾乃を傷つけることがないように。


「俺、お前がグラビアアイドルやるって聞いて、それだけで何かわかったつもりになってたけど……実際に綾乃がどんな風に仕事してるのかとか、どれぐらい頑張ってるとか、何か困ってるんじゃないかとか、そう言うの本当は何もわかってなかったんだなって」


「……ッ」


 メディアに掲載されるグラビアアイドル『黛 あやの』としての姿。

 時おり学校に顔を出す、高校生『黛 綾乃』としての姿。

 記憶に綴じ込まれた、中学生の綾乃の姿。

 グラビアアイドルと言う職業は、週刊漫画雑誌でも目にする程度にはメジャーなものだ。

 だから、綾乃自身が口にしなくとも、何をやっているのか想像できる……つもりでいた。

 しかも、最近はSNSによって『黛 あやの』自身からも情報が発信されたりもする。

 そう言った断片的な情報を繋ぎ合わせることによって、現在の綾乃が置かれている状況を理解できていると思い込んでいた。


 それは――大樹の脳内にある『黛 綾乃』そして『黛 あやの』像は、おそらく間違っているのだろうと、撮影会の話を聞かされた時に直感した。

 何気なく話す綾乃。

 得体の知れない衝撃を受けた自分。

 ふたりの間に明確かつ不可視な壁の存在を感じた。

 もちろん100パーセント何もかもが異なっているわけではではないにしても、何らかの食い違いがあるのだろうと思った。


「俺さ、お前が『グラビアアイドルになる』って言った時、何にも知らないまま応援しちまったから……ずっと不安だったんだ。本当にあれでよかったのかって」


「……大樹は悪くないよ。私だって、普段はあんまり仕事のことはしゃべらないようにしてるし」


「だよな」


 記憶をどれだけ遡ってみても、綾乃は大樹に仕事の話を事細やかに語ったことはない。

 嬉しいこと、悔しいこと、上手く言ったこと、失敗したこと。

 ほとんど何も知らされていない。聞かされていない。

 ほんの些細な愚痴すら耳にしていない。

 それが寂しくて、辛かった。


「だって、しょうがないじゃない。守秘義務がどうこうとか、結構色々あるんだから」


 守秘義務。

 同い年の女子の口から出てくるにしては、なかなか厳つい言葉だった。

 そのひと言だけで、大樹と綾乃の間にどれほどの隔たりが存在するのか想像するには十分なほどで……大樹の目の前でその心情に思い至った綾乃は急速に勢いを失っていった。

 今でこそふたりの距離は開いてしまっているが、決してお互いに何もかも話が通じ合わなくなってしまったわけではないのだ。


「……ごめん」


「いいって。別に怒ってるわけじゃない。俺の方こそ言い過ぎた」


 大樹が知る綾乃は他者との距離感を測りかねるところはあったものの、決して他者を蔑ろにする人間ではなかった。

 それは今も変わらないらしい。

 雰囲気は相変わらず重苦しいが、少しだけ心が暖かくなった。


「とにかく……綾乃がどう思おうと俺は申し込んだし、もう金も振り込んだ。今さらお前が何を言っても俺は参加する。それは絶対に変わらない」


 ハッキリと言ってのけると、眼鏡のレンズの奥で煌めく綾乃の瞳が潤んだ。

 そんな顔を見たくはなかったが、そんな顔をされる可能性はあると思っていた。


「……何でそういうこと、勝手に決めちゃうの?」


「……」


 綾乃の声は悲痛にまみれていた。

 胸を締め付けられた、ギュッと口を引き結んだ。

 息が苦しい。心が苦しい。そんな顔をさせたいわけではなかった。


『相談したら、絶対ダメって言われると思った』


 それが本音だった。

 おそらく間違ってはいない。根拠はないが自信はあった。

 でも……たとえ綾乃がどれだけ難色を示そうとも、実際に自分の目で確かめたかった。


「……帰る」


 拗ねているように聞こえた。

 怒っているようにも聞こえた。

 拒絶されているように聞こえた。

 少なくとも、これ以上の会話を綾乃は望んでいない。

 短くない付き合いだ。彼女の心情を慮ることはできる。


「送っていく」


「いらない。アンタ仕事中でしょ」


 取り付く島もなかった。

 だからと言って『はい、わかりました』なんて頷けない。

 時計を見るまでもなく、今日はいつもより時間が遅い。

 アルバイト代に色を付けてもらうために、シフトを延長させてもらっているせいだ。

 撮影会の参加費である1万5千円は決して安くはない。

 出費はそれだけにとどまらない。

 用意しなければならないものが、他にも色々あるのだ。

 撮影会の当日まで、あまり時間に余裕がない。喫緊にまとまった金が要る。

 だからこそマスターの厚意に甘えて無理を言って働かせてもらっているし、自分から無理を言った以上は仕事を投げ出すわけにはいかなかった。

『綾乃がどうしてこんな遅い時間帯に、わざわざこの店に足を運んできたのか?』という点は疑問だが、彼女の言葉に間違いはない。

 ……とは言うものの、綾乃をひとりで帰らせるなんて危険すぎる。


「いや、ちょっと待てって。こんな時間にひとりで帰るって危ないだろ」


「私、もう子どもじゃないし。自分勝手に仕事を投げ出すのって子どもっぽいよ、大樹」


『子どもじゃない』『子どもっぽい』

 どちらもグサッと突き刺さるひと言だった。

 言葉に詰まった大樹を無視して、綾乃は千円札をテーブルに置いた。


「お、おい、これ……」


「お釣り、いらないから」


 腰を上げた綾乃は、立ち尽くしたままの大樹を一瞥してドアをくぐった。

 夜闇に消えゆく彼女の背中を追うことは――できなかった。脚が動かなかった。


「大樹くん、大丈夫?」


「……」


 気遣わしげに声をかけてくれるマスターに、返事をすることもできなかった。


――これでよかったのか、本当に?


 握りしめた手のひらに爪が食い込んで血が滲んでいる。

 口の中はカラカラで、顔がおかしな熱を持っている。

 全身からは粘着質な汗が噴き出ている。

 心臓が気色の悪いビートを刻んでいる。

 自覚できるレベルで、今の大樹は正常ではなかった。

 今の大樹は――撮影会の参加申し込みを行った時の状態に酷似していた。

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