第3話 合間に軋む その3
「
隣でコーヒーカップを拭いていたマスターの声が耳に届くなり、大樹は自分の顔に手を当てた。鏡が近くになかったので、今の自分がどん顔をしているのかはわからなかった。それでも思い当たるところはあったから、ばつが悪いことこの上なかった
「……顔、変でしたか?」
「変と言うか、味があると言うか。とにかく変わった表情であることは間違いない」
マスターは笑みを湛えていたが『お客さんの前では、そんな顔しないでね』と付け加えるのを忘れなかった。
素直に首を縦に振った。
だからと言って、すぐに表情を改めることができるかと問われれば、それはまた別の話。
「もっとも、今日もお客さんいないけどね」
「……そっすね」
口元を抑えながら、大樹は再び首を縦に振った。
相も変わらず店内にはふたり以外の人間は存在しない。
窓の外は既に暗い。夏が近づいて夜の到来が遅くなっているにもかかわらず。
――この店、大丈夫なのか?
いつものことと言えばいつものことなのだが、雇われの身としては心配でならない。
『趣味』と公言しているマスターに苦言を呈するのは憚られたが、毎日毎日赤字を垂れ流しているのではないかと気が気でない。
付け加えるならば、ひとりで回せる程度の客足にもかかわらず自分を雇ってもらっているせいで赤字が拡大しているに違いないから、いくら世情に疎い高校生であっても恐縮せざるを得ない。
それでも顔色ひとつ変えないマスターのことは、ある意味尊敬に値すると思った。
日に日に目減りする預金残高を目にしたら、自分だったら平静ではいられない。
その落ち着きを、ほんの少しでも分けてほしいと切に願った。
「何かあったのかい?」
「いえ、別に……」
――ごまかし方が下手すぎるだろ。
口にしてから、大樹は心の中でため息を吐いた。
言外に『何かありました』と言っているようなものだった。
そこまでわかったうえで――しかし、マスターは苦笑を浮かべるだけ。
決して先を促そうとはしない。ましてや雇用主としての権限を振りかざしたりはしない。
「……まぁ、大樹くんがそう言うのなら構わないけど。前にも言ったかな、相談したいことがあったら遠慮しないで」
「うっす。その、ありがとうございます」
「ま、年寄りの繰り言だと笑ってくれればいいよ」
「そんなことは……思ってないっす」
マスターと大樹は雇用主とアルバイトの関係に過ぎない。
にもかかわらず、彼は自分のことを気にかけてくれている。
とても嬉しいと思う反面、そんなマスターだからこそ余計な心配をかけたくない。
初めてこの店を訪れた時は、まるで面識がなかったからこそ遠慮なく相談ができた。
今は……できない。近しくなるほどに話せないことが増えていく。色々な意味で。
ちりん
来客を知らせる鐘の音が鳴り響いた。
失礼にあたるかもしれないが、まさか客が来るとは思わなくて驚いた。
入口を見て、二度驚いた。
『いらっしゃいませ』の言葉を喉に詰まらせてしまうほどに。
「いらっしゃい、
穏やかなマスターの声で我に返り、辛うじて『いらっしゃいませ』を絞り出した。
入口に突っ立っていたのは私服姿の綾乃だった。
あのショッピングモールに行った時と同じように、度の入っていない伊達眼鏡をかけている。
「ほら、大樹くん」
「……はい」
マスターの声に背中を押されて、綾乃のもとに進み出る。
本音を言えば、よりにもよってここで顔を合わせたくはなかった。
なぜなら、綾乃こそが現在進行形で大樹を悩ませている張本人であったから。
「こちらへ」
他人行儀な案内に返事はなかった。
不気味な静けさだけがふたりの周りを支配している。
こほんとひとつ咳払い。前回と同じく、店内の奥まった席に綾乃を案内した。
外から覗き見ることができないこのスペースは、綾乃のように人目を憚る人間にはうってつけだ。余程のこと(この店の席がすべて埋まってしまうくらい客が訪れるなど。アルバイトを始めてから一度もない)がない限り、綾乃が訪れた場合、大樹は必ず彼女をこの席に座らせる。彼女が来ないときは、誰も座らせない。
「ご注文がお決まりになりましたら――」
「大樹」
食い気味の即答に口元が強張った。
向けられる綾乃の眼差しに怒りの感情が見えた。
昔はともかく、ここ最近はとんとお目にかからない表情だ。
「お客様、そう言う冗談は……」
「じゃあブレンドひとつ。あと、話したいことがあるんだけど時間ある?」
「見てのとおり、今、仕事中なんだが」
「大樹、いつもはこんな遅くまで働いてないよね?」
「……お前だってこんな遅くに店に来ないだろ」
お互いに刺々しい会話のキャッチボールが続いた。
キャッチボールというよりもドッヂボールに近かった。
ひと言ごとに綾乃の機嫌は急降下するし、相対している大樹だって苛立ちが募る一方で。
「大樹くん」
カウンターに陣取るマスターに呼ばれ、とりあえず席を後にした。
あのまま向かい合っていては、遠からずどちらかが爆発していただろう。
ロクでもない未来がありありと想像できてしまっただけに、話を切り上げさせてくれたマスターに感謝することしきりだった。
綾乃から十分に距離を取って、重苦しい感情を抱えたまま注文を繰り返す。
「マスター、ブレンドひとつ」
「了解。あ、綾乃ちゃんと話してきていいよ」
「今、仕事中ですから」
「そんな固いこと言わずに。ほら、どうせお客さんいないし」
「……何でそんなに嬉しそうなんですか?」
閑古鳥が大合唱な自分の店に客が来ないことを喜ぶなんて。
マスターは良識的な人物ではあると思うのだが、時おり大樹には思いもよらないことを口にする。
――いや、そうじゃないな。
大樹は心の中で独り言ちた。
マスターは大樹が悩みを抱えていることに気づいている。
悩みの原因が綾乃であることにも、きっと気づいている。
だから、ふたりが話し合う時間を作ろうとしてくれている。
完全に善性からのお節介であり、今の大樹にとっては有難迷惑でもあった。
「はい、ブレンドひとつ」
どう切り抜けるか考えているうちにコーヒーカップがカウンターに置かれた。
ふたつ。
店内の客は綾乃ひとりで、後はマスターと大樹だけ。
話の流れを考慮するならば、もうひとつのカップは大樹のものだろう。
続いて小皿に自家製のクッキーが並ぶ。綾乃が好んで口にする甘味だ。
ふたりでゆっくりして来いと眼前に並ぶコーヒーたちが物語っている。
「マスター、これは」
「もう入れてしまったからね、無駄にしないでくれると嬉しいかな」
湯気を立てる漆黒の液体。
たかがコーヒー。されどコーヒー。
決してどこかから勝手に湧いて出てきたものではない。
喫茶店のコーヒーは、高校生にはなかなか手を出しづらい価格だ。
頼んだわけではないにしても、用意してくれたマスターの好意を無碍にはできない。
「……じゃ、行ってきます」
「ゆっくりでいいよ。冗談じゃなくってね」
マスターに背中を押されて綾乃の席に向かう。
前回は出演するドラマの原作を読んでいた彼女だったが、今日は両手で頬杖をついてジーっと大樹を見つめ続けている。
綾乃はしばしばこの喫茶店に訪れるが、あれほど露骨に大樹に視線を向けてくることはなかった。それは大樹に対する気遣いかもしれなかったし、自分の体面を慮っているからかもしれなかった。
今日は違った。
彼女の漆黒の瞳は、ずっと大樹に固定されている。
『目は口程に物を言う』なんてことわざがあるが、今の彼女はまさにそれだった。
背中を向けていた間もずっと似たり寄ったりな感じだったのだろうし、マスターの側からは丸見えだっただろう。
気付いてしまえば、居た堪れないことこの上ない。
「こちら、ブレンドひとつ。どうぞ」
「ありがと」
素っ気なく感謝の言葉を口にしながらも、綾乃の眼差しはもうひとつのカップから離れない。
トレイに乗せられたままのカップから。
――逃げられない。ごまかせない。はぐらかすのも無理だ。
心の中で深呼吸。
カップをテーブルに置き、綾乃の向かい側に腰を下ろす。
「えっと……話を聞いてくれるってことで良いのよね」
「ああ」
「学校の時みたいに逃げ回ったりしないって」
「……逃げてねーし。話ってなんだよ」
「……」
コーヒーに口をつけることなく、正面の綾乃に尋ねた。
同じ椅子に座って向かい合うと、大樹の方が少し目線が高くなる。
ほんのわずかとは言え、下から見上げてくる綾乃と上から見下ろす大樹。
ふたりの眼差しがぶつかり合って――そして、どちらも視線を逸らすことはなかった。
「どういうこと?」
「……何が」
「……」
再び沈黙が店内に降りた。
同時に緊張感が高まってきて、空気がピリピリしてくる。
おそらく大樹の背中、カウンターでカップを磨いているマスターだけが平常心だった。
「どういうつもりなの?」
「だから何がって聞いてるだろ?」
「これ、申し込んだよね?」
綾乃の白い指がスマートフォンのディスプレイを踊った。瞳は大樹に固定されたまま。
程なくして表示されたサイトには『
『黛 あやの』が所属する芸能事務所のホームページだった。
「大樹、どういうつもりなの?」
三度目の問いかけに――大樹は大きく息を吐き出した。
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