第2話 合間に軋む その2

「アイツのこと、ちゃんと理解はしてるつもりだったんだが……なんなんだろうな、これは」


 隣に腰を下ろしている秀一しゅういちに聞かせているようで……その実、誰かに向けた声ではなかった。

 ただ胸の奥に燻っている愚痴めいた感情が口を突いて出ただけの、不毛な言葉だった。

 ポケットから取り出したスマートフォンを操作してSNSを立ち上げる。

 ディスプレイに表示されたのは『まゆずみ あやの』公式アカウントだ。



 ※※※※※



 黛 あやの@6月21日水着撮影会埋まりました


 6月21日に開催予定の水着撮影会については

 おかげさまで全4部すべての枠が埋まりました

 当日枠はございませんので、悪しからずご了承ください

 参加される皆様は下記サイトの注意事項を熟読願います



 ※※※※※



 掲載されているアドレスをタップすると事務所のホームページに飛んだ。

 全4部制のタイムスケジュールには『SOLD OUT』の赤文字が並んでいる。

 昨晩大樹たいじゅが目にしたときと何も変わっていない。

 乗り遅れたファンのせいでSNSは阿鼻叫喚だった。


「公開して5分も持たなかったらしいね」


「らしいな」


「僕が気づいた時には、全部終わってた」


「……参加する気だったのか?」


 意外な気がした。

 秀一は綾乃あやのに恋心を抱いているし、『あやのん』こと『黛 あやの』のファンでもある。

 その部分だけをピックアップすると、この男が撮影会に参加することは意外でも何でもないように思えるのだが……それを意外と捉えてしまうのは、イケメンという肩書と撮影会という単語のイメージが結びつかないからだろう。


「どうだろう? 興味はあったけど……まぁ、僕の場合は親の許可が出ないかな」


「そういうの、あるのか?」


「まあね」


 秀一の実家は古くから続く地元の名家であり資産家でもある。

 ハイソサエティに所属しているがゆえに、両親どころか池上いけがみ家全体が通俗的なイベントそのものに好意的でないという家内の風潮を言外に匂わせていた。

 顔よし、頭よし、運動神経よし、性格よし、家柄よし。

 完璧という他ないスペックを誇るこの男にも、こんなウィークポイントがある。

 つくづく人間は儘ならないと思い知らされる。


「そういうくすのきはどうなのさ?」


 洗練された所作で弁当をつつき、ペットボトルのお茶を口に運ぶ。

 ひとつひとつの動きがことごとく絵になる男からの問いに、大樹は苦み走った笑みを浮かべた。


「一時間1万5千円って、どう思う?」


「僕はこの手のイベントに詳しくないけど、なかなか強気の設定なんじゃないかな」


「そうでもない。他のグラビアアイドルの撮影会も似たり寄ったりだったぞ」


「僕は他の人には興味ないけど……そうなんだ?」


「ああ」


「で、出せるの?」


 秀一の問いに、ため息しか出てこなかった。

 1万5千円なんて、一介の高校生が軽々に出せる金額ではない。

 裕福な池上家ならともかく、楠家はどこにでもあるような一般家庭なのだ。

 生まれてこの方、金銭的な苦境に喘いだことはないにしても……子どもの散財を許してくれるような優しい財政事情な家でもない。

 

「……参加者5人で時給7万5千円って凄すぎるだろ」


「全額綾乃さんの懐に入るわけじゃないだろうけどね」


 綾乃と共に過ごす一時間には、それほどの価値がある。

 あっという間の『SOLD OUT』が何よりの証拠だった。

 同じ17歳の身空であっても、大樹の一時間にそこまでの価値はない。

 アルバイト先の時給を基準に考えても、ふたりの間には天と地ほどの差がある。

 数字で――金額で比較されてしまうと、立場の違いをハッキリと理解させられてしまう。

 いずれにせよ……『黛 あやの』は、なかなかどうして尋常な存在ではない。それは間違いない。


「一緒に買い物してた時は普通の女の子って感じだったけど……いや、綾乃さんは飛び切り可愛いから普通とは言い難いと思うけど、それはそれとして」


「何が言いたいんだ、お前は」


「やっぱり彼女は一般人じゃないんだなってさ。こんなイベントでメインを張れるなんて、どう考えても逸材だ。さすが、あの姉さんが見込んだだけのことはあるよ」


「どういうことだ?」


「僕の姉さんは可愛いものが大好きってこと」


「それって……」


「念のために言っておくけど、姉さんの性的嗜好はノーマルだから」


「……何も言ってないが」


「さすがにそれは通じないかな、今の話の流れだと」


「……何にも考えてねーよ」


 身近な人間を性的な欲望をたぎらせた目で見ること自体が失礼にあたるし、何かにつけてそんなことばかり考えていたらメンタルが持たない。

 ふるふると頭を振って、胸の奥に溜まった重苦しくも熱い息を吐き出した。


「楠、本当に大丈夫か?」


「しつこいよ、お前」


 残ったパンを口に放り込んで、水で流し込む。

 美味くも何ともないし、楽しくもない。

 ひたすらに億劫だった。

 苦痛だった。


「君が頼めば綾乃さんは……」


「それはできない」


 口をついて出たのは、自身が想像していたよりも強い声だった。

 綾乃は自らの意思で自らの道を歩いている。ずっと応援してきたのだ。

 それを大樹の都合(と言うか欲求と言うか)で捻じ曲げるなんて、死んでも御免だった。

 彼女のために何もできない自分にとって、決して譲ることのできない一線だった。


池上いけがみは知らねーだろうけど」


「お、『俺だけが彼女の過去を知ってる』マウントかい?」


 茶化した声が苛ついた。

 しかし、事実であった。

 自分だけが『黛 綾乃』を知っている。

 自負があった。自信があった。自慢だった。

 誰にも語ったことこそないものの、その想いは常に大樹の内にあった。


「昔の綾乃は……ちょっと引っ込み思案と言うか、ああ……根暗っぽいところがあってな」


「とてもじゃないけど想像できないな」


「事実だよ。猫背で身体を縮こまらせて、近寄るなオーラ纏ってた」


「……それ、本当に同一人物?」


「間違いなく同一人物だ。そんなアイツが高校に入って、芸能界デビューして……まぁ、後はみんなが知るとおり、今みたいな感じになった」


 胸を張るようになった。

 背筋を伸ばすようになった。

 眼鏡を外してコンタクトに変えた。

 整った顔に浮かぶ表情が明るくなった。

 誰とでも気安く会話ができるようになった。

 他にもあれやこれや……綾乃はここ一年ほどで劇的に変身した。

 もはや生まれ変わったと言っても差し支えないレベルの自己改造だった。

 いつも憂鬱な気配を漂わせていた昔の綾乃を懐かしむ思いがなくはないが……今と昔、どちらが彼女にとって望ましい姿かと問われれば、それは今の姿だと即答できる。


「綾乃を大きく変えたのは間違いなく仕事だ。最初は不安だったけどアイツは上手くやってる。それで成功して更に仕事が貰えて、活躍の場が増えて。この前なんか、ついに『週刊少年マシンガン』の表紙にまでなった。綾乃は今、もっともっと大きく羽ばたこうとしているところなんだ。俺の我がままで足を引っ張るなんてできない」


 飛び立つ綾乃の背中を見上げるだけの自分に不甲斐なさを覚える。

 それでも大樹は綾乃を応援したい。その心に嘘はないのだ。


――でもなぁ……


 その一方で……なぜ不甲斐なさを覚えるのか、実はピンと来ていない。

 仮に大樹が何らかの形で世に名を知らしめる存在であったとしても、綾乃の行動の自由を制限する権利なんてない。

 不快感を覚えることはあるかもしれないが、不甲斐なさを覚えるのは筋が通らない。

 綾乃は自ら望んでグラビアアイドルになり、自ら望んで仕事と向かい合っている。

 そんなことはわかっている。わかっているのだが……なぜか心が晴れない。

 頭の中がグチャグチャにこんがらがって、思考がまとまらない。


「それ、僕じゃなくて綾乃さんに直接言ってあげた方が良くない?」


「……それが出来たら苦労はねぇ」


 言いながら、頭を抱えた。

 嘘偽りない本音のはずなのに、素直に口にできない自分がいる。

 撮影会の件にしても、グラビアアイドルにはそういう仕事があることは知悉しているのに、何でこんなに苛立ちを覚えているのか、当の大樹自身がわかっていない。

 不特定多数の男が彼女に欲望を向けるなんて今さらだ。

 校内を探し回れば『黛 あやの』のグラビアなんてアホほど見つかるに違いない。

 だからと言って学校中の男子生徒を片っ端から糾弾する気もなければ、彼らに微笑みかける綾乃を叱りつける気もない。


――やっぱ、わけわかんねぇ……


 とてもではないが、面と向かって綾乃本人に話す勇気は持てなかった。

 もしもその状況に直面したら、自分の口からどんな言葉が出てくるか。

 想像することすらできないし、万が一を考えれば……やはり顔を会わせるのは危険すぎると判断せざるを得ない。


「なるほど、難しそうだ」


「ほんとそれ」


 しみじみと息を吐く秀一に、苦悶に満ちた声を返す。

 ゴロンと寝っ転がって空を見上げた。

 吐き気がする。

 食べたものが片っ端から喉をせり上がってくるようなうねりを感じた。

 無理矢理パンを口に押し込んだからではない。

 この感覚は、あの日以来ずっと大樹とともにある。


「無理しないようにね」


「……どうだろうな」


 一面に広がる青と、ところどころに浮かぶ白。

 見ているだけで、無性に苛立ちが募った。

 所かまわず人目も気にせず叫びたかった。

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