第1話 合間に軋む その1

 見上げた空は憎たらしいほどに青かった。

 ふわふわ浮いている雲を引きちぎってやりたくなる。

 グラウンドから聞こえてくる健康的な歓声が、やたらと耳障りだ。


「味がしねぇ」


 口中に突っ込んだこのパンは、いったい何だっただろうか?

 思い出そうとしたが、めんどくさくなったのでやめた。

 ペットボトルの麦茶を喉に流し込んで、ほうっとため息ひとつ。


「なんなんだよ……はぁ」


 昼休み。

 学校の屋上で。

 大樹たいじゅはひとり、黙々と栄養を補給していた。

 胸中にはドス黒いモヤモヤした感情が蟠っている。

 綾乃あやのと一緒にショッピングモールに水着を買いに行って以来、ずっとこんな感じだった。


「やぁ、調子は……よくなさそうだね」


 人影が日光を遮った。

 声は――聞き覚えのある男のもの。

 

「……なんか用か、池上いけがみ


 喉から絞り出した声は、お世辞にも友好的なものとは言い難かった。

 整った顔に苦笑を張り付けながら大樹の横に腰を下ろしたのは、学校有数のカリスマイケメンこと『池上 秀一いけがみ しゅういち』だった。

 つい先日、大樹に『これから綾乃に告白する』と告げ、実行に移した男だ。

 ともすれば柔弱に取られかねない外見とは裏腹に、フラれてなお諦めることないガッツのある男でもある。

 ショッピングモールでは姉の秀美とともに出会い、昼食を共にして、そのまま地元の駅近くまで車で送ってもらった。

 成り行きで連絡先も交換したが、大樹は彼と一度も通話をしたことはない。

 メッセージのやり取りもない。それは秀一にしても同じことで、要するにお互い様だった。


「何か用かと言われると『綾乃さんが探していたよ』と答えるところ」


「……あっそ」


 ひと言だけ返して、味のしないパンを齧る。

 口の中の水分が吸い取られる感覚は不快で、すぐさま水で洗い流す。

 弁当箱を開けておかずを口に運んでいた秀一は、不機嫌な大樹を見て眉を顰めている。


「ま、顔を合わせたくない気持ちはわからないでもないけど。それでも朝は一緒に学校まで来てるんだろ?」


「それは……あいつをひとりにしておけないし」


「今はひとりにしてるのに?」


「……」


 痛いところを突かれた。

 買い物に言ったあの日以降も、大樹たちの日常に変化は見当たらなかった。

 綾乃が仕事で休む日を除けば、ずっと大樹と一緒に学校に通っている。

 そう、何も変化はない。『表面上は』と但し書きが付くが。

 会話のない登下校は、控えめに言って空気が重い。


「お前に何がわかる?」


 ぐっとパンを噛み締めると、ついでに唇まで噛んでしまった。

 痛みとともに血の味が広がっていく。

 つくづく何もかもが腹立たしい。


「僕だって『あやのん』のファンだからね。SNSはチェックしてる」


「……そうか」


「あの日買った水着、今度の撮影会用だったんだね」


「みたいだな」


 秀一の声には様々な感情がブレンドされていた。

 感嘆があり、茫然としていて、大樹への同情もあった。

 他にも言語化し難いあれやこれやが混じって聞こえて……いずれにせよ、秀一の言葉はただの事実の追認に過ぎなかったので否定することはできなかった。

 普段ならば心の中でライバル視している秀一に哀れまれるなんて耐えがたいはずなのだが、今の大樹には怒りを覚える余裕すらない。


 綾乃から『自分に似合う水着を選んでほしい』と言われた。

 自信がないと答えると『大樹のことを信じているから大丈夫』と微笑まれた。

 仕事用の水着だと聞かされていたから、今度のグラビア撮影の際にでも身に着けるのだろうと信じて疑わなかった。

 現実は違った。

 綾乃は確かに仕事用の水着を欲していた。

 その仕事が、たまたま撮影会だっただけ。

 

――撮影会って……撮影会って、なぁ……


 撮影会。

 今回の場合は、綾乃が所属している芸能事務所がスタジオを借り切って行われる。

 被写体は『まゆずみ あやの』で水着撮影会と銘打っている。当然水着を着るのだろう。

 撮影する側は――インターネットで募集したファン、つまり素人。

 水着姿の綾乃が、スタジオと言う閉鎖された狭い空間で、水着姿の綾乃が、顔も名前も知らないようなファンと、水着姿の綾乃が、服を脱いでポーズを決めて、水着姿の綾乃が、微笑みかけたり言葉を交わしたり、水着姿の綾乃が、どこの誰とも知らない奴からカメラを向けられて……


――なんなんだよ、それ……


 綾乃の芸能活動については理解しているつもりだった。

 グラビアアイドルである彼女の仕事は、そのほとんどが水着姿。

 写真だって勝手に出来上がるわけはなく、大樹がこれまで目にしてきた『黛 あやの』のグラビアだって、どこかの誰かが撮影したものに他ならない。

 わかっているつもりだったし、納得しているつもりだった。

 しかし、雑誌などを飾る写真はプロのカメラマンが仕事として撮影したものだ。

 かつて綾乃が口にしていたように『より良い商品を作り上げるために』一丸となって取り組まれる仕事の中に、余計な感情を差し挟む余地はないはずだ。

 でも――今回は違う。

 撮影会に参加するファンは基本的に素人で、プロ意識なんてない。

 ただただ自分たちの欲望の赴くままに、肌も露わな綾乃に対してカメラを向けて。

 彼女は、ファンたちに笑顔で応えて。

 そして――


――綾乃……お前、そんなの大丈夫なのか?


 問いかけることはできなかった。

 綾乃の答えは簡単に予想できたから。

 彼女は納得ずくで撮影会を受け入れている。

 SNSを見た感じ、むしろ前向きな印象がある。

 違うと言うなら自腹で新しい水着なんて用意しない。

 それも、身近な男性である大樹の意見を取り入れた水着なんて。


「こんなことになるなら、思いっきり地味な奴にしとけばよかった」


「そんなことしたら、綾乃さんに思いっきり嫌われてたと思うけどね」


「……」


 業腹ながら秀一の言うとおりだと認めざるを得なかった。

 最近の綾乃を見る限り、ファッションセンスに関しては既に大樹を大きく引き離している。意図的にダサい水着を選んだりしたら、あっという間に看破されるに違いない。

 信頼していたはずの大樹が自分を裏切ったと思って臍を曲げて……拗れる未来しか見えない。

 でも――


――俺の方はどうなるんだよ……


 心の中で唸りはしたものの、大樹は別に綾乃の彼氏と言うわけではない。

 告白できずに悶々としているだけの、ただの同級生に過ぎない。

 大樹が選んだ水着を着て『黛 あやの』として仕事をしたところで、別に大樹を裏切ったことにはならない。

 ましてや、大樹は基本的に綾乃が芸能活動に邁進するように応援している。

 水着撮影会だって立派な仕事のひとつであるのなら、これを応援するのが筋なのだ。

 理屈では理解している。納得できるかと問われれば、素直に首を縦に振ることはできない。

『黛 綾乃』に恋するひとりの男子として。


くすのきが受けたショックについては、想像するしかできないけど……綾乃さんとちゃんと話さなくて大丈夫なのか?」


「……あいつは俺のことなんて気にしてないだろ」


 自分の口から出た言葉が自分の耳朶を震わせて、胸の奥に痛みを覚えた。

 そうであってほしくないという気持ちが、むくむくと首をもたげてくる。

 意識してほしいのか、そうでないのか。自分でも自分のことがわからない。

 

「気にしてないなら、わざわざ探し回ったりはしないと思うけど」


「今は何も話したくねぇ」


「……そういうつもりなら、僕から言えることは何もないかな」


 秀一の声に大樹を責める色はなかった。

『想像することしかできない』と口にしていながらも、きっとこの男は大樹の胸中をほぼ正確に把握している。

 だからこそ綾乃を避ける大樹に怒りに燃えることもなければ、この機に自分を売り込もうともしない。

 誰もいない屋上でひとり不貞腐れている大樹のところにやってきて、こうして飯を食っている。大して仲がいいわけでもないのに。

 つくづくできた男だと思う。

 同じ男であっても、尊敬してしまうほどに。


「なぁ、池上」


「ん?」


「お前の方こそ、何ともないのか?」


 何でそんなことを口にしたのか、自分でもよくわからなかった。

 しかし、秀一もまた綾乃に思いを寄せる身であり、それを大樹に堂々と告げた身である。

 自分が言葉にし難い感情を持て余しているように、この男もまた苦しんでいるのではないかと、そう思ったのだ。

 秀一はきょとんと眼を丸くして、しばらく口を閉ざした。

 口の中のおかずを咀嚼して飲み込んでから、さらに何かを考えるような仕草を見せて、


「……何ともないと言えば嘘になる。でも……綾乃さんはグラビアアイドルで、こういう仕事があるってことは理解してる。撮影会だって今回が初めてってわけでもないからね。彼女に恋しているなら、彼女のことを思うなら、ここは割り切らないといけないところじゃないかな」


 惚れた相手が水着姿で他の男と談笑している。しかも複数。

 絵面を思い浮かべようとしたら、それはメチャクチャなものになる。

 たとえ仕事であると説明されたとしても……決して愉快なことではない。

 普段は嫉妬される側の秀一でも人並みに嫉妬するという事実だけが、妙に新鮮だった。


「そっか……そうなんだろうな」


 大樹はそれだけ呟いて、ペットボトルに口をつけた。

 同意を得られたせいだろうか、少しだけ胸が軽くなった気がした。


「それでも、僕は自分で水着を選んであげたわけでもないし、その水着を着た綾乃さんが自分以外の誰かと楽しそうにトークしている姿を想像しなきゃならないなんてことはなかったけど」


――訂正、こいつやっぱ敵だわ。


『イラついているのはそこだろ?』

横目で視線を合わせると、言葉にならない声が聞こえた気がして、大樹は盛大にため息をついた。

 まったくもってその通りだったからだ。

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