第14話 その水着は誰がために その1

 赤い高級車は、大樹たいじゅたちが住む町の駅前で止まった。

 運転席でハンドルを握っていたのは、ふたりが通っている学校有数のイケメンこと『池上 秀一いけがみ しゅういち』の姉である『池上 秀美いけがみ ひでみ』。

 助手席には『黛 綾乃まゆずみ あやの』が腰を下ろしていた。

 男ふたり、大樹と秀一は後部座席。

 ショッピングモールで出会った大樹たちは昼食後も一緒に買い物を続けた。途中で喫茶店に入った際に『ここまでどうやって来たのか?』と問われたので『電車で来た』と答えたところ、地元まで送ってくれると言われた。

 そこまで甘えるのもどうかと思わなくはなかったものの、綾乃を歩かせたり電車の中で人目に晒したりするのは気が乗らないのも事実。

 だったら送ってもらった方が良いのではないかと了承した。

 当の綾乃は意外そうな顔をしていたが、車に乗ってからも終始秀美と会話に花を咲かせて楽しそうだった。

 チラチラと様子を窺いながら沈黙を守っていた後部座席のふたりとは正反対である。


「家まで送ってあげようかと思ったんだけど……今日はふたりのお邪魔しちゃったし、ここからだけでも、ね。大樹くん、ちゃんと綾乃ちゃんをエスコートしてあげなさいね」


 綾乃に想いを寄せる弟の前で、こういうことをサラッと言うものだから、大樹はどうにもこの秀美という女性を嫌いになれないでいた。強引ではあるが気遣いもできるし、茶目っ気もある。財力に加減がなく行動力がありすぎるきらいはあるが、それも彼女のキャラクターだと納得できてしまう。


「こちらこそ、今日はありがとうございました。綾乃はちゃんと家に送り届けますので」


「秀美さん、その……今日は色々楽しかったです」


 会釈する大樹に続き、綾乃も頭を下げた。

 さらりと揺れる黒髪、作ったところのない笑顔。

 後部座席で秀一の目が輝いていたが……大樹は気に留めていないふりをした。

 自分のエゴを前面に押し出して、この雰囲気を壊したくはなかった。


「それじゃ、泳ぎに行く件は前向きに考えておいてね。いつでも連絡してくれていいから」


 それだけ言い置いて、秀美の赤い車は弟を乗せて颯爽と去っていった。

 綾乃と一緒に視界から消えるまで彼女の車を見送ってから、


「……じゃ、帰るか。荷物持つわ」


「自分で持てるんだけど」


「ちゃんとエスコートしろって言われたからな」


「言われなきゃ持たないつもりだったんだ?」


「そうは言ってないだろ」


「うん……ごめん、ちょっとからかっただけ」


 綾乃から荷物を受け取る際、ほんの一瞬ふたりの手が触れた。

 だからと言って特に何もない。この程度の接触は珍しくもないのだから。

 ……大樹の胸が、自分でも驚くほどにドクンとひと際大きく跳ねたことを除けば。





 ふたり揃って帰路を往く。

 大樹が車線側によって、綾乃を守るように。

 日曜日の夕方と言う、盛り上がらないどころか気が重くなる時間帯の道を並んで歩いた。


「秀美さん、いい人だったな」


「うん。初めて会ったばっかりなのに……なんかびっくりした」


 秀美の話を振ると、綾乃は顔を綻ばせながら頷いた。

 見立てどおり、綾乃はあのゴージャスな女性を気に入っている。

 その事実を確認できたおかげか、少し心の中がぽかぽかと暖かくなった。


「池上くんをフッたばっかりなのに、あんなに色々してもらって悪い気もするけど」


「ああ、フッたんだっけ」


 さり気なく同調すると、綾乃が眉を顰めた。

 おかしなことを口にしただろうかと大樹が首を傾げていると、


「……何で知ってるの、大樹? 私、誰にもしゃべってないはずだけど」


「いや、その……待て、ちょっと待て」


「池上くんがバラすわけない。誰から聞いたの?」


 綾乃は基本的には善良な気質の持ち主だ。

 他人のプライバシーにかかわる話題を無神経にぶちまけることはない。

 そして、同時に秀一がこんなことを誰かに吹聴する人間ではないと信頼している。


――言うべきか言わざるべきか、それが問題だ。


 彼女の想像どおり秀一ではない。

 犯人は姉の秀美なのだが、彼女に懐いている綾乃にそれを告げていいものか。

 このまま口を閉ざしていては、おかしな想像をたくましくされそうで、それはそれで恐ろしい。

 隣を歩く綾乃からの視線が厳しい。

 迷った挙句、やむなく大樹は真実を口にした。


「……昼飯の時にさ、綾乃が席を立った時あっただろ。その時にそういう話が出たんだ」


「池上くんから?」


「いや、秀美さん。池上の奴は何と言うか……被害者?」


 別にフォローしてやる義理などなかったが、訂正しておいた。

 こんな話題で秀一の株を下げたところで何もいいことはない。

 仮に大樹と秀一が綾乃を巡るライバルであったとしても、だ。


「……池上くん、苦労してるんでしょうね」


 綾乃の声には重い響きがあった。

 大樹に対する怒りの感情はなさそうだったし、秀美に対して隔意を覚えている様子もない。ひとまずほっと胸を撫で下ろしながら、首を縦に振っておいた。


「綾乃も弟居るだろ、普段はあんな感じなのか?」


 ひとりっ子の大樹には姉と弟の距離感がイマイチ理解できていない。

 学校では最強キャラっぽい秀一も姉にかかっては形無しの模様。

 ならば綾乃と弟だって……そんな疑問が湧いたのだ。

 単純に黛姉弟が気になったと言う理由もある。


「まさか。私と弟はもっと普通だから」


 断言されたが、どうにも信用し難い。

 ただ、正面に向けられた眼差しは『この話はこれでおしまい』と物語っていた。

 あまり不躾に触れていい話題ではなかったのだろう。


――はぁ……やっぱ聞かない方が良かったか。


 軽く肩を竦め、ズレた会話をもとの流れに戻す。

 綾乃の弟には悪いが、大樹にとっては姉弟関係よりも気になることがあるのだ。


「そ、それはともかくとしてだな……その、綾乃ってアイツをフッたんだろ?」


「フッたわね、間違いなくフッた」


「その割には随分と仲良くなかったか?」


「……」


 踏み込んだ問いに、綾乃は口を閉ざしてしまった。

『また失敗したか』とおっかなびっくり様子を窺ってみると、伊達眼鏡の奥の瞳は少し伏せられて足元に向けられている。


「友だち」


「ん?」


「『友だちなら、どうかな?』って言われたの」


「へぇ……それで?」


「私、あんまり深く考えてなかったと思う。『友だちでいいなら、別に』って」


「それ、結構ひどくね?」


 思わずツッコむと、綾乃はため息とともに頷いた。

 自覚はあったらしい。

 同じ男同士どころかライバルに近い関係と言えど、同情を禁じえない。


「せっかく好きだって言ってもらったのにフッておいて、友だちって……正直無理だと思ってたし、だったら池上くんの好きにすればいいんじゃないかなって」


 綾乃の側から積極的には関わらないが、秀一が悩んだりするのは勝手にどうぞ。

 大樹の感覚ではフラれた女性と親密な関係を続けるのは、相当にタフな精神が要求されるように思えたし、綾乃もまた大樹と同じように考えていたらしい。

 当てが外れて、突き放したはずの綾乃自身が戸惑いを覚えている。


「呼び方もさ、『綾乃さん』なんて下の名前で呼ばれてたし」


「え?」


「『え?』って……馴れ馴れしくないか?」


「そう?」


「……違うのか?」


 はぐらかしていると言う顔ではなかった。

 どうにもピンと来ていない、そんな表情。

 要領を得ないまましばらく歩いていると、


「黛。黛さん。綾乃。『あやのん』。綾乃さん」


「ん?」


「呼ばれ方。知らない人からの『あやのん』呼びが定着しちゃったから、『綾乃さん』でも別にって感じだった。馴れ馴れしい人なんてどこにでもいるし、イチイチ目くじら立てるほどのことでもないかなって」


「そうなのか?」


「ま、仕事で関わってる人が多いけどね」


 仕事がらみで綾乃を取り巻く世界では、馴れ馴れしいのは当たり前。

 さして親しくない人間から馴れ馴れしく呼ばれても、慣れてしまって気にならない。


――池上の扱い、酷いな……


 綾乃は秀一の思惑と真逆の方を向いているように感じた。

 憐れもうとは思わなかったが、胸がモヤモヤする。

 

「バッサリ『もう関わるな』って言えばよかったんじゃね?」


「まぁ……そうよね。何で言わなかったのかな、私」


「何でって、お前」


『お前が言ったんだろ』とツッコみかけて、口が固まった。

 隣を歩く綾乃は、いつになく真剣な眼差しで考え込んでいる。


「……好きって」


「ん?」


「好きって言ってもらったの初めてだったから、嬉しかったのかな。だから、つい……甘えちゃったのかもしれない」


『好きって言ってもらったの初めてだったから』

 綾乃の唇から零れたそのフレーズは、寸分たがわず大樹の胸の一番柔らかいところに突き刺さった。

 一年前の春に言葉にできなかった思いをずっと抱えたままの、その胸のど真ん中を。


「そっか……」


「そうね」


「なぁ」


「何?」


「前さ、『いいことあった』って言ってただろ」


「言ってたわね」


「あれ、何だったんだ?」


「どうして今その話が出てくるの?」


 訝しげな眼差しに冷や汗をかかされる。

 焦りすぎたと気づかされて……でも、今さら後には引けなくて。

 しどろもどろになりながらも、ここ数日ずっとモヤモヤと抱え込んでいた言葉を口にする。


「いや、その……池上に告白されたのが『いいこと』だったのかと」


「まさか。どっちかと言うと……どっちかと言うと悪いことじゃないけど、言われてみるといいことではあるんだけど」


 一笑に付したかと思ったら、そうではなかった。

 リフレインする口ぶりに迷いを感じた。

 綾乃にとって男子から告白されることは『悪いこと』に含まれてはいないらしい。


「どっちなんだよ」


「言われなきゃ気にしない程度にはいいことって感じ」


「池上がかわいそうすぎる」


「うるさいわね。あの時の『いいこと』は……」


「『いいこと』は?」


 綾乃は周囲をチラチラと見回している。

 誰も近くにいないことを確認していた。

 他人に聞かせたくない類の話のようだ。

 固唾を飲んで見守っていると、綾乃はバッグに手を突っ込んだ。

 白い手が取り出したのは、喫茶店で彼女が読んでいた小説だった。


「それ、今度ドラマになるって言ってたやつだろ?」


「そ。私、これに出ることになったの」


「マジで? お前、テレビに出るの?」


「うん。ま、ほんのワンシーン映るだけのモブだけどね」


 肩を竦めて苦笑する綾乃の顔は、どこまでも真剣そのものだった。

『まだ発表前だから誰にも言わないように』と釘を刺されて頷いた。

 大樹はあまりテレビを見ないが……それでも綾乃がテレビに出ると聞かされて、とてつもない衝撃に襲われた。

 綾乃がどんどん遠くに行く。

 せっかくこうして一緒にいるのに、距離を感じずにはいられなかった。

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