第11話 遭遇 その3
「今や飛ぶ鳥も落とす勢いの『あやのん』なら、これくらい大丈夫だと思ったんだけどなぁ」
セレブ御用達な高級エステに
『無茶言うな』が
実際のところ、大樹だって綾乃の懐事情について詳しいわけでもない。
午前中の水着選びの際に見せた態度から類推しただけだ。
世間的な知名度だけを前提としていたら、自分だって秀美と同じような反応をしていたかもしれない。
「いや、その値段は一般的じゃ無さすぎますって」
「……そう?」
彼女が抱いている疑問そのものは純粋なはずなのに、向けられる眼差しには純粋とは言い難い圧力が込められている。
生きている世界の違いをまざまざと思い知らされる。
立ち向かうには難敵過ぎたが、ここを退くわけにはいかない。
テーブルの下で拳をぎゅっと握りしめ、眉間に力を入れて顎を引いた。
「……」
「……」
真っ向から睨み合った。
こめかみから一筋の汗が頬を伝って流れ落ちた。
緊張感あふれる沈黙の後に……秀美が嘆息する。
「そっか。私、またやっちゃったか~」
「……また?」
「うん、自分の目線ばっかり押し付けて相手を困らせるの。これダメだなって思うんだけど、言われないと気づかないのよね」
韜晦に満ちた口ぶりからは、似たようなことが何回もあったことが窺えた。
裕福な人間には裕福な人間なりの苦労や苦悩があるということだろう。
「差し出がましい口きいてすみません。えっと、その、綾乃には……」
「うん、言わない。でもなぁ……」
「ん?」
秀美の口ぶりは、何とももったいなさげだった。
先ほどまでの迫力はなく、年齢相応の声ではあった。
「私、綾乃ちゃんと一緒に行きたいのよねぇ。あの子、可愛いし。それに……大樹くんだっけ? 君にしても綾乃ちゃんがもっと可愛くなるところ見たいと思わない?」
「……見たいか見たくないかで言えば見たいですけど、綾乃に負担をかけたくは」
「好きなんだ?」
「そんなんじゃないです。それを言うなら」
「そこはハッキリしたほうがいいと思うな。これ、年長者のアドバイス」
「はぁ」
会話のアップダウンが激しい。
話題の転換も激しい。
「ね、それよりさ……勝手に断ったりしたら綾乃ちゃんに嫌われると思わなかった? あと、お金のこととか本人のいないところで言うのってどうなの?」
「嫌がられるとは思いましたけど、このまま放っておけませんし」
「どうして?」
位置を変えないまま、視線だけがグイグイ来る。
纏っている雰囲気が再び圧力となって大樹を締め上げる。
『綾乃にも時々こういうときがあるな』と現実逃避気味に考えながら、口だけが勝手に動き出した。
「あいつ……綾乃は女子の友人が少ないんです」
「はぁ」
「原因は……まぁ、嫉妬か何かだと思うんですけど」
「あれだけ可愛かったら無理もない……かな。まさしく理想の美少女って感じだしね。男目線の、だけど。彼氏持ちの女子は警戒するだろうし、そうでなくても虚心ではいられないか」
ほうっと息を吐き出す秀美に頷いた。
慧眼と言うよりは、彼女自身の実体験に由来する言葉に聞こえた。
いずれにせよ、この女性は綾乃にとってよき理解者足りうる存在だと思える。
芸能人とセレブ。
種類は違えど、一般人とは異なる世界に生きる者同士。
どちらも希少であり、なかなかお互いに巡り合うことも難しかろう。
だから、ほんの僅かなボタンのかけ間違いで失わせるには惜しい縁だと思った。
綾乃にとって大樹の代わりになり得る男性は探せば存在するだろうが、秀美の代わりになり得る女性が存在するかは確信が持てない。
同業者でないこともポイントが高い。
「でも、秀美さんは綾乃に対してネガティブな感情を持ってないように見えたので……」
仲良くしているふたりの姿を見て、素直に『いい』と思った。
高校に入って以来たびたび同性から謂れのない悪口雑言や悪意をぶつけられて、『別に友だちなんていらないし。て言うか同業者で友だちいるし』なんて強がっている綾乃を見ていられなかった。
でも、手を差し伸べられなかった。
そんなときに、先ほどの光景を見せられた。
だからこそ、自分が泥をかぶるべきだと思ったのだ。
秀美の弟である秀一に言わせるわけにはいかないとも思った。
この姉と弟の中を拗れさせるわけにはいかない。自分が原因でふたりが険悪になったら、綾乃は自己嫌悪に陥るかもしれない。
「真面目か」
「そうですかね?」
「うん、真面目。綾乃ちゃんのために嫌われ役を引き受けるとか……でも、そこがいい」
「はぁ」
なぜか褒められた。
秀美の褒めポイントがよくわからなかった。
せっかく良好な綾乃と秀美の関係を損ねるのはもったいないと思っただけだし、自分なら多少やらかしても最後には綾乃も理解してくれるだろうという信頼、否、甘えもあった。
「それに比べて……私や綾乃ちゃんの顔色を窺ってばかりで、こういう気遣いができないからフラれるのよ、アンタは」
なまじ顔がいいから質が悪いのよ、ちょっとはこの子を見習いなさい。
盛大なため息が混じった声は、大樹に向けられたものではなかった。
秀美のきつめな眼差しの先で秀一が悄然としていたが……それどころではなかった。
彼女の口から齎されたのは、とんでもなく重要度の高い情報だったから。
――え?
むぐ……と口を引き結んでいた秀一は、しみじみと息を吐き出した。
軽く額を抑えながら諦めたように口を開く。それはもう渋々と。
秀一らしくない、今まで耳にしたこともない呻き声だった。
「綾乃さんから聞いてないのか?」
「……聞かねーよ、そんなこと」
正確には『聞けない』だった。
口では強がって見せてはいるが、内心では混乱しまくっていた。
今日この場で顔を合わせるまでは、ふたりが付き合うようになったか否かは五分五分だと思っていた。
実際にこうしてテーブルを囲んでみれば、綾乃と秀一の距離は邪推を許さないレベルで近かった。
『綾乃さん』なんていきなり下の名前で呼ぶ秀一にも、それを平然と受け入れる綾乃にも驚かされた。
だから、綾乃が告白を受け入れた可能性が高いと思っていたのに――
「フラれたくせに、何でそんなに仲いいんだよ?」
反射的に疑問が口をついて出てしまった。
口調を取り繕う余裕がなかった。
混乱していたからだ。
「フラれはしたけど、諦めたわけじゃない」
「いや諦めろよ、それは」
いっそ清々しいほどに開き直った秀一に、思わず素でツッコんでしまった。
ついぞ学校では見たこともない顔が、無性に苛ついた。
秀一の整った顔から、ふいに笑みが消えた。
「……
「な、何だよいきなり」
「前にも言ったとおり、僕は……綾乃さんに出会って生まれて初めて人を好きになった。この気持ちは、諦めようと思ったくらいで諦められるものじゃないんだ。そんな簡単なものじゃないんだ」
「でも、迷惑だろ」
「迷惑じゃないって綾乃さん言ってたし」
「社交辞令だ」
「解釈は自由さ」
「お前な……」
睨み合っていると、横合いからクスクスと笑い声が聞こえた。
黙って成り行きを見守っていた秀美だった。
「姉さん、何を」
「いや、いいんじゃない。どっちも。大樹くん、ずっとおとなしかったけど……君、そっちの方がずっといいよ」
「……そっすか」
無視するわけにはいかなかったが、どう答えたものか判断に迷った。
結果として出てきたのは、いつものぶっきらぼうな言葉だった。
「うんうん、うちの秀一もそうやって突っかかってくる子がいないから調子に乗りっぱなしだし、この子とも仲良くしてあげてね。これは姉としてのお願い」
「姉さん!」
「いや、アンタマジで友だちいないでしょ」
「そうなのか?」
「そんなことはない」
「取り巻きは友だちとは言わないから」
「……」
自覚があったのか、秀一は黙り込んでしまった。
これほどの人物に親しい友人がいないなんて意外だった。
……だからと言って仲良くする義理があるわけでもないのだが。
何と言ってもこの男は大樹にとって、潜在的な――
「どうしたの、みんな?」
秀美の反対側から声がした。
聞き慣れた声。
綾乃だ。
「あ、綾乃、これはだな……」
何とか取り繕おうとしたが、口が動かない。
眼鏡のレンズ越しに綾乃の瞳が揺れていた。
「雰囲気がおかしいんだけど……大樹、変なこと言ってないでしょうね?」
「何にも言ってねーし」
「ほんとに? 顔がおかしいんだけど」
「それ、どういう意味だ?」
「なんか隠し事してるでしょ?」
「してねーつってんだろ!」
売り言葉に買い言葉で喧嘩腰なヒートアップを始めた大樹の後ろから、クスクスと笑い声が聞こえた。
慌てて振り向くと、ニヤニヤな笑みを浮かべる秀美とブスッとした秀一がいた。
――やべ……
外向けな関係性ではなく、限りなく素に近い姿を見せてしまった。
これでは……自分はともかく綾乃のイメージが台無し過ぎる。
当の本人が要領を得ない顔をしていて微妙にイラっとした。
「あ、いや、今のはちょっと待ってください」
「うんうん、青春だね」
「見せつけてくれるなぁ」
爽やかな雰囲気を投げだしてしまった秀一。
ひとりニコニコと微笑んでいる秀美。
綾乃が手洗いに席を外す前と違いすぎる。
空気が原形を留めていない。
「なんなの、これ」
――ほんとそれな。
呆れ気味に尋ね返す綾乃に、心の中でだけ同意した。
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