第9話 遭遇 その1

 どうにかこうにか水着を買い求め、ちょっとひと休み。

 火照った心と身体に館内の冷房が心地よかった。

 穏やかとは言い難かったが、得難い時間ではあった。

 満足感で胸を満たしながら『そろそろ昼飯をどうしよう?』と口を開いた、ちょうどその時だった。


『あれ、綾乃あやのさん?』


 ベンチに腰を下ろしていた大樹たいじゅたちに声をかけてきたのは、つい先日綾乃に告白した(と思われる)学校有数のイケメンこと『池上 秀一いけがみ しゅういち』だった。

 整った顔には穏やかな笑みが浮かんでいる。

 驚いたことに彼の隣にはひとりの女性の姿があった。見たところ大樹たちよりも少し年長に見えるその女性もまた、秀一や綾乃に負けず劣らずの美貌を誇っている。

 しかし、それよりも――


――今、こいつ『綾乃さん』って言ったな。


 さん付けではあるものの、下の名前を呼んでいる。

 グラビアアイドルとして名を売りつつある綾乃は『あやのん』の愛称で親しまれてはいるものの、普通に『綾乃』と呼ぶのは身内を除けば大樹のみ。そのはずだった。

 今、大樹の目の前で、そのルールが崩れようとしている。

 思わず自分の胸を抑えると、心臓が不規則に蠢いている。

 人前で堂々と気安い呼び方をする秀一に苛立ちを覚えたし――


「あ」

 

「あら、そっちの子、具合悪いの?」


『綾乃』と呼びかけかけた瞬間、声が重なった。

 秀一が伴っていた女性の声だった。

 ふたりの関係はわからないが、声に含むところはなさそうに聞こえた。


――助かった……


 自分が口にしようとしていた言葉は、ゾッとするものだった。

 すなわち『綾乃、お前……池上とどういう関係なんだ?』的な。

 秀一が大樹の前に姿を現してから落ち着かない日々が続いているものの、そこまで嫉妬丸出しの詰問を綾乃にぶつけるのは、さすがにみっともなさすぎる。

 綾乃の恋愛事情が綾乃の自由だと嘯くならば、深く立ち入るべきではない。

 軽く息を吐いて、頭の中で返事を用意する。

 

「いえ、さっきまで買い物に付き合ってたから少し疲れただけで」


「へぇ」


 秀一は大樹と綾乃を交互に見やる。

 その顔には強い好奇心が見て取れた。


「別にそんなに付き合わせてないでしょ。大樹、大げさすぎ」


 綾乃が『大樹』と呼んだ瞬間、秀一の眉がわずかに寄った。

 しかし、その表情のゆがみは一瞬のこと。整った顔はすぐに元どおり。

 大樹は大樹で、ずっと秀一を睨みつけるわけにもいかず、腑に落ちないものを感じながらも視線を外した。


「大げさって……綾乃、お前なぁ」


「ふ~ん……って綾乃?」


 口をついて出たボヤキに、初対面の女性が敏感に反応した。

 ちらりと綾乃に視線を送るも、こちらはこちらで戸惑っている。

 どう見ても知り合いといった風情ではない。


「あなた、秀一が言ってた『まゆずみさん』よね?」


「は、はぁ……たぶん。池上くんが私のことをどう説明してるのかは知りませんが」


「姉さん、その話は……」


「「姉さん?」」


 大樹と綾乃の声がきれいにハモった。

 秀一と女性を交互に見比べると……


「ああ、確かに似てるな」


「うん、よく見ると目元とかそっくり」


 ふたり揃ってうんうんと頷き合った。

 顔の出来がいいのは姉弟だからと言われれば、納得できてしまった。

 本命の女性がいる癖に綾乃に声をかけたとあったら、それは男の風上にも置けない所業であって……秀一が卑劣な男でないことに、安心感を覚えた。


――何でだ?


 心の中で首を傾げる。

 仮想ライバルであるはずの秀一の人格に問題がある方が、自分にとって都合がいいはずなのに。


――まぁ、同じ学校にそんな嫌な奴がいなくてよかったって考えるのは、別におかしな話でもないか。


 ひとりでうんうんと頷いていると、隣の綾乃から訝しげな視線を感じた。

『何でもねーよ』と弁解する前に、秀一の姉が口を開いた。開いてしまった。


「名字が『黛さん』で名前が『綾乃』ってことは……『黛 あやの』!?」


「「「あ」」」


 同じ学年の男ふたりと女ひとり。

 三人の声がきれいにハモった。

 きっと三人とも『ヤバい』と思った。


「そうよ、よく見たら……あなた『あやのん』じゃない!? え、本物? うっそー!?」


「「「しーっ!」」」


 しばらく綾乃を凝視していた秀一の姉。

 その瞳が大きく見開かれ、口も大きく開かれた。

 ほぼ同時にボリュームのある声が店内に響き渡った。

 やたらと声量が大きかった。しかも、よく通る声だった。

 三人揃って慌てて止めようとしたが、すでに手遅れだった。

 周囲の人間の少なくない数が足を止めて、綾乃に注目し始める。

 

「姉さん、どう見ても綾乃さんは変装してるだろ。こんなところで名前を呼ぶとか……しかもそんな大声出して」


「ご、ごめん。アンタが誰かを好きになったってだけでビックリだったし、どんな子を好きになったのかなって思ってたから、つい。しかも相手があの『あやのん』でビックリしちゃった。あとでお母さんに報告しないと」


 そっかそっか、秀一も男の子なんだね。

 弟に向けられた言葉は姉らしく優しそうであり、声は生暖かさを多分に含んでいた。

 ちなみに彼女の視線は綾乃の――綾乃の胸のあたりに固定されている。

 何を考えているかは一目瞭然で……同じ男として、ちょっと秀一に同情しそうになった。

 当の綾乃は苦笑を浮かべるだけだったが、ぶっちゃけ何の慰めにもなっていない。


――いいのか、アレ……


 ひとりっ子の大樹には、姉と弟の距離感がわからない。

 迂闊に首を突っ込むとロクなことにならなさそうな直感はあった。

 助け舟を出すつもりはなかったが、今は秀一をからかっている場合ではない。

 こうしている間にも、綾乃に向けられる好奇の視線は刻一刻と増える一方だったから。


「……とにかく、ひとまずここを離れよう」


「同感だ」


「じゃあ、せっかくだから昼ご飯一緒に食べない?」


「姉さん……あのね」


 上擦り気味な秀一に同意したはいいものの、またもや姉が口を差し挟んでくる。

 窘めようとする実弟に向けられた姉の眼差しは、ことのほか真剣なものだった。


「だって、『あやのん』が男の子とデートしてるってバレたらヤバくない?」


 秀一に続いて自身に向けられた視線を受けて、思わず息を呑んだ。

 その言葉に大樹の身体が跳ね、抑えたままの胸の奥で心臓も大きく跳ねた。

 綾乃の様子を窺ってみれば視線が重なった。こちらも似たり寄ったりの反応だった。


「いや、それは……そうかもしれないけど、なんか言いくるめようとしてない?」


「そうなのか、綾乃?」


「う~ん、どうだろう。私って別に恋愛禁止のアイドルってわけじゃないし……でも……」


 渦中の綾乃は真面目に首をかしげていた。

『自分のことなのに、危機意識なさすぎるんじゃねーの?』と口にしかけたが、大樹自身も買い物に誘われて浮かれていて今の今まで気にしていなかったので、あまり偉そうなことも言えない。


――芸能人なんだよな、綾乃は……


 今さらながらに、その事実を突きつけられる。

 仕事仕事ですれ違い気味でも、綾乃は綾乃だと思い続けてきた。

 当の本人からも何も言われなかったので、大丈夫だと思い込んできた。


 それは、思い違いなのかもしれない。

『黛 あやの』は芸能人。新進気鋭のグラビアアイドル。

 ただの女子高生でもなければ、ただの友人でもない。


 都合の悪い事実は無視したかったが……ここは彼女の意思を尊重すべきだと判断した。

 判断を丸投げしたように思われるのは心外ではあるものの、芸能界の裏事情など一介の高校生が軽々に首を突っ込める話題ではない。


「……まぁ、ふたりきりよりも四人組の方が安全と言われれば、それは確かにそうかも」


 恋愛禁止でなくとも、異性の影がチラつくのはイメージダウンに繋がりかねない。

 マネージャーに後で確認すると付け加えた綾乃は、秀一の姉の提案に乗り気のようでもあった。

 秀一は姉を窘めているように見えるが、綾乃と同席することに異議を唱えてはいない。

 姉氏曰く『珍しく秀一が好きになった子』だそうなので、突発的な顔合わせとはいえ行動を共にするのは吝かではないといったところか。

 そして秀一の姉は真面目に綾乃を心配しているようでいて、その瞳には隠し切れない好奇心が溢れている。

 つまり、大樹が否を唱えたところで一対三。

 やむなく喉から絞り出した声からは、自覚できるほどに苦みが滲み出ていた。

 

「……わかった」


「迷惑かけちゃってごめんね。お昼は私が奢るから、ね?」


 言葉のわりには悪びれている様子のない姉がウィンクする横で、秀一は額に手を当ててため息をついていた。

 学校では向かうところ敵なしのイケメンも、姉の前では形無しのようだ。

 それでも積極的に姉を止めようとしていないあたり、心の内が透けて見える。


――痛し痒しってところか。


 姉のおかげで綾乃と一緒に食事ができることは、素直に喜ばしい。

 自分の想い人に姉がグイグイ接近するのは、なんとなく気恥ずかしい。

 しかして自分に姉を止める力はなく、イニシアチブは持っていかれたまま。

 その一部始終を綾乃に見られている。内心も見透かされているように思われる。

 

――姉と弟ってめんどくさそうだな。


 そんなことを考えていると、綾乃のことが気になった。

 彼女にも弟がいるが、ふたりは仲良くやっているのだろうか。

 高校に入って以来、黛家に足を踏み入れたことはないし、綾乃から積極的に語ってくれる話題でもないので、今の黛家の事情はわからなかった。

 仕事で帰りが遅くなったら弟を呼ぶと言っていたが、実行に移されることはなかった。

 自分が芸能活動に邁進するようになった結果、教育熱心な母親の期待と関心を一身に背負わせることになってしまったと悔いる言葉を耳にしたこともある。

 中学生時代に黛家を訪れた時の記憶では、仲が悪いようには見えなかったが……


――仲良くやっていてくれていればいいんだがなぁ。


 四人揃ってそそくさとベンチから離れながら、ちらりと綾乃の横顔を窺うと……池上姉弟に向けられる眼差しに羨望の色が見えた。

 ひとりっ子の大樹にはわからない苦悩があるのだろう。

 相談してくれないことを、少し寂しく思った。

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