第7話 ふたりの日曜日 その3

「じゃあ、選んでくれる?」


 いきなりそんな大役を振られても、『任せろ!』なんて言えるわけがないのだが。

 絶句したまま隣の綾乃あやのを見下ろすと、下から見上げてくる漆黒の瞳と目があった。

 両腕を前で組んでいるせいで強調された胸元に吸い寄せられそうになる自分の視線を、断固たる意志の力で食い止める。


「選べって、あのな……」


「何? 昨日言ったでしょ」


「言ってねーよ。買い物に付き合うって言っただけだろ」


「そうだっけ?」


 綾乃は思いっきりすっとぼけている。

 清々しいまでの悪びれなさ、これでは自分の方が空気を読めてないようではないか。

 身じろぎひとつできずに見つめ合っていると、綾乃が動いた。

 大げさに肩を竦め、わざとらしげにため息を吐く。


「仕方ない。チキンな大樹たいじゅの代わりに私が探してくるから、試着室の前で待ってて。それで、現物を見ていいか悪いかアドバイス頂戴」


「お、おう……おう?」


 あっさりすぎる綾乃の言葉に頷きかけて、途中でストップ。

 ゆっくりと周囲に目を向けると……水着水着水着女子女子水着水着女子……


「ちょ、ちょっと待て、こんなところに俺を置いていく気か!」


 外から見る分には天国じみた空間は、男ひとりで待ちぼうけを食らわされるには地獄でしかなかった。現在進行形で女性たちから向けられる視線が痛い。


「だったらどうしろっての?」


「どうって……」


 なぜ自分が怒られているのか。

 なぜ自分が呆れられているのか。

 圧倒的なまでの理不尽に開いた口が塞がらない。

 だからと言って、こんなところで待たされるなんて無理な話。

 綾乃が戻ってくるまでにメンタル崩壊待ったなしな未来しか見えない。


「……」


「……」


「……かった」


「何、聞こえない?」


「わかった。俺が探すから傍にいてくれ」


「最初から素直にそう言えばいいのに」


 クスリと笑みを浮かべる綾乃に思いっきりイラっと来た。

 闘争本能的な情念が刺激されて口を突いた。


「お前、俺が選んだ奴を着るんだな?」


「……ものによる」


 さっきまでの威勢はどこへやら。

 綾乃は視線を逸らしたまま、ぼそぼそと口の中で言葉を転がした。

 形成の逆転を感じた大樹は、ここぞとばかりに責め立てる。


「おお? 聞こえないんだが」


「あのね……一応言っておくけど、こんなところで着たりしないから。これ常識だから」


「どこの常識だよ、それ」


「いや、一般常識だから、これ。どこの誰とも知れない人が身に着けた可能性がある水着を洗いもしないで着るとか普通に無理だから。衛生面の問題的にありえないから。店の人もダメって言うし」


「じゃあ、この試着室は何だよ?」


 すぐ横に揺れるカーテンを指さした。

 隙間からは鏡が見える。試着室以外の何物でもない。

 大樹自身が服を買う際は普通に試着する。衛生面云々なんて……


――いや、下着は試着しないな。水着も下着も似たようなもんか?


 冷静に戻って考えてみると、綾乃の言わんとするところも納得できなくもなかった。

『だったら何で試着室があるんだよ』という疑問の答えにはなっていない気もするが。


「それはまぁ、下着の上から着たりとか……そういうのはあるかも……ううん、ダメかな」


「……別に試着室いらなくないか?」


「そんな気はしなくもないわね」


 真顔で首を捻っている綾乃が嘘をついてるようには見えなかった。

 この場を凌ぐためにデタラメを並べ立てて大樹を担ごうという気配はない。


「ま、まあ、そういうことなわけ。大樹……アンタ、彼女ときたときにそんなこと言ってたら、思いっきり笑われるわよ」


 呆れ交じりな綾乃の声がグサッと胸に突き刺さった。

 油断していたところだっただけに、ダメージがデカい。


「だから、彼女なんていないって言ってるだろ」


「これからも作らないつもり?」


 綾乃の声色が変わっていた。

 さっきまでとは、全然違う。

 静かで、温度を感じない声。

 昔の彼女を彷彿とさせる声。

 唐突に変化したトーンが大樹の背筋を震わせる。


「……そこまでは言ってない」


「でしょ。だったらちゃんと私からのアドバイスを聞きなさい」


――人の気も知らないで言いたい放題……ッ!


 したり顔な綾乃を見るたびにカチンときた。

 せっかくふたりで買い物に来たのに――初めてのふたりきりの外出なのに、何でこんな気分にならなきゃならないのか。

 ここに来るまでに説教した意趣返しだろうか。

 見ている分には、綾乃からそんな気配は感じない。

 ゆえに……不快感の根源を探ると、ひとつの結論に辿り着いてしまう。

 自分に彼女を云々と急に諭してくるということ。

 思い出されるのは、つい先日少し話をしただけの男の顔。

 綾乃に告白すると律儀に大樹に告げたイケメン『池上 秀一いけがみ しゅういち』の顔だった。


「大樹?」


「……わかったよ。わかったから」


 首を振って妄想を脳裏から追い出した。

『綾乃が誰を選ぶかは、綾乃が自分で決めることだ』

 これまで何度となく繰り返してきた言い訳を、自身に言い聞かせた。


「なんで苛ついてんの? ま、いいわ。わかったんなら早く選んで」


「はいはい。思いっきりエロいの選んでやる」


「や、やれるものならやってみなさい。あと、『はい』は一回よ」


 人の気も知らずに口うるさい綾乃を伴って、華やか過ぎる水着売り場を見て回る。

 全身は既に疲労感を訴えてきていて、今すぐ回れ右したいところをぐっと堪えた。


――綾乃に水着、なぁ……


 普段は遠めから見るだけだった女子の水着売り場。

 こうして中に入り込んで見て回ると、本当に様々なデザインで溢れている。

 色も鮮やかでサイズも――


「綾乃」


「何?」


「いや、選ぶにしてもサイズはどうするんだ?」


 聞いてから『これはセクハラでは?』と思った。

 試着室で試着しないという衝撃的な情報を聞いたばかりで混乱気味でもあったし、秀一の顔が脳裏にチラついて冷静さを欠いていた。

 だからと言って放置できない問題であることも間違いない。


「サイズって、普通に公表してるじゃない」


「そりゃ、そうなんだけどよ」


 グラビアアイドル『まゆずみ あやの』のスリーサイズはもちろん把握していたが、その数字が正しいかどうか、そこまではわからない。

 じーっと綾乃の身体を見る。

 頭のてっぺんから足のつま先まで、凝視。

 綾乃はそっと両手で身体を抱きしめて距離を開けた。


「その反応、ひどくね?」


「何よ。サイズはデータどおりですけど。まさか、私がサバ読んでるって言いたいわけ!?」


「言ってねーだろ、そんなこと。つーか……あのデータ、マジなのな」


「あ、胸はちょっと大きくなった」


「太ったのか」


「……なんか言った? 死にたい?」


「ごめんなさい、調子に乗りました」


「はいはい、大樹はいっつもそうなのよね」


「いっつもって……」


 お調子者のように語られるのは、酷く腑に落ちない。


「とにかく、サイズは気にしなくていいわ。デザインと色だけで決めて」


「いいのか、そんな適当で?」


「ま、ここで買うと決めたわけじゃないし。大樹の意見を参考にして、サイズが合わなかったら……似た奴を別の店で探すか、マネージャーに頼んで探してもらうつもり」


「ふ~ん。ま、業界の伝手とかで探せば見つかるって感じか」


「どっちにしても自腹だけどね」


「……安い方がいいか?」


「値段も気にしなくていいから、さっさと探しなさい」


 軽く脛を蹴られた。

 不毛な口論に付き合うつもりはないらしい。

 

――重要なのはデザインと色。サイズと値段は気にしなくていい……か……


 割と自由だな、と思った。

 隣を歩く今日の綾乃が身に着けている服は露出度が低い。

 しかし『黛 あやの』の肢体は様々なメディアで何度となく目にしている。

 少し胸が大きくなったという新情報と服の上から見える実物をかけ合わせれば、それほどの誤差は出ないだろう。


――綾乃……綾乃の……


 シミひとつない肌。

 自慢の胸。

 贅肉のかけらも見当たらないおなか。

 スラリとした長い脚などなど……


 サイズは無視していい。

 デザインと色。


――似合うかどうかって、どうやって考えるんだ?


 浮かんだ疑問を綾乃に問いただすことは憚られた。

『そんなこともわからないの?』なんて呆れられたら心が涙で溺れてしまう。


「綾乃……綾乃……」


「……」


「う~ん」


 綾乃は大樹を信頼していると言った。

 経緯はともかく信頼に最大限応えたいと思った。

 綾乃が信頼しているのは、大樹のエロい――もとい趣味だ。

 要するに、自分が彼女に着てもらいたいものを選べばいい……はずだ。


「これか?」


 ひとつの水着が目についた。

 本能的に引き寄せられる目。

 反射的に脳内に妄想する姿。

『これはイケる』と確信して隣に目を向けると……覗き込んでくる綾乃と目が合った。


「綾乃?」


「……え、な、なに!?」


「いや、これ、どうだ……って、なんかあったか?」


「な、なんにもないし」


 選んだ水着を渡すと、綾乃の視線が手の中の水着と大樹との間を何度も往復する。

 その視線が大樹の中に居た堪れない気持ちを掻き立ててくる。

 堪えきれなくなって、そっと視線を外した。

 いつの間にか頬が熱を持っている。


「ふ~ん……大樹って」


「なんだよ」


「そっかぁ、こんなの私に着てほしいと思ってるんだ」


 その声には複数の感情が混じっているように聞こえた。

 呆れられているのはわかるが……他の感情を聞き分けることはできなかった。

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