第6話 ふたりの日曜日 その2
存在しない
駅のホームに降り立って軽く身体を伸ばして(ずっと突っ立っていた大樹には必要ないが)、バス停を指さした。
「んじゃ、次はバスな」
「歩きでよくない?」
サラッとバスを提案した大樹に、綾乃が眉を顰めた。
何でそんな顔をされるのか、理解に苦しまされる。
――わけわかんねぇ。
「なんか、急ごうとしてない?」
「急ぐも何も……お前、その靴って歩ける奴か?」
「あ……」
駅からショッピングモールまで、それほど距離があるわけではない。
朝の段階では大樹も駅からは歩くつもりでいた。
でも、待ち合わせの場所に現れた綾乃を見て予定変更を即断した。
彼女の足元は派手ではなくともオシャレな靴を履いている。身も蓋もないことを言えば、歩くには全く向いていないタイプ。
こんなものを履いた彼女を連れて距離を歩くのは、思いっきり気が引けた。
「ごめん、そこまで考えてなかった」
「いや、別にいいだろ。似合ってるし」
「そ、そう? ……って大樹、本当に慣れてない?」
「慣れてねーよ」
『本当に?』なんて首を傾げられても困る。
根も葉もない疑いをかけられたくなかった。
他のどこかの誰かならともかく……大樹の目の前にいるのは綾乃だ。
よりにもよって一番疑われたくない相手から向けられる疑惑の眼差し。
この話題は早々に打ち切った方がよさそうだと判断せざるを得ない。
「ほれ、さっさと行こうぜ。どうせ向こうについたら、色々歩き回らなきゃならんだろ」
「それは確かに。ちょっと行ってすぐ買って、そのまま帰るってことはないと思う」
むむむ……と顎に指を添えて綾乃が唸った。
ショッピングモールの中はさすがに自分で歩くしかない。
大樹が背負うという選択肢は理屈の上では存在するが、現実味がなさすぎる。
――マジで背負わされると、それはそれで困るがな。
綾乃に気づかれないように彼女の胸元に視線を走らせる。
デニム生地のショートパンツと黒タイツな下半身はともかく、悩ましすぎる曲線を隠しきれていない薄手のシャツな上半身は、あれが背中に押し付けられるシーンを思い描いてしまい思春期的な妄想が捗らされる。
自室でひとり想像するならともかく、綾乃本人の隣では勘弁願いたかった。
「うん、バスにしよう」
「最初からそう言ってるだろ、ほら」
差し出した手に綾乃が自分の手を重ねる。
強くなり過ぎない程度に力を入れて、手を引いて歩く。
中学生の頃から、こういうことはよくあった……のだけれど、
――柔らかいな……
ゴクリと唾を飲み込んだ。
久しぶりに触れた綾乃の手は、滑らかで柔らかくて、少し冷たくて。
記憶の中にある感触とあまり変わらないはずなのに、慣れているはずなのに、心が激しく揺さぶられて、ひどく落ち着かない。
「大樹?」
「……なんでもない」
精一杯の見栄を張って、震えそうになる声を支えた。
見上げてくる彼女の瞳を、まともに見られなかった。
★
「そもそも、何で水着なんだ?」
今さら過ぎる問いを投げかけたのは、ショッピングモールを前にした頃合いだった。
日曜日の午前中だけあって、流れはかなり一方的で。
つまり、中に入る客が多かった。
小声で尋ねたのは、周囲の人間の耳に入らないよう配慮した……というよりは、同い年の女子それも飛び切りの美少女と水着を買いに来たというシチュエーションに気恥ずかしさを覚えたから、という理由の方が大きい。
「何でって言われても、本格的な夏になる前に買っとかないとでしょ?」
「そりゃまぁ……そうなのか?」
「大樹、アンタ自分の服って自分で買ってる?」
「買ってるけど、それが?」
「買ってるくせに、何でそんなに疎いの!? 季節ものはシーズン前に動かないと間に合わないって基本でしょ、これ」
「……そういうもんか」
高校に入ってアルバイトを始めて、自分の服は自分で買うようになった。
『自分でお金稼ぐようになったんだから、後は自分の好きにしなさい』と母親に放り投げられたというのが正しい。
しかして一年と少々の間、大樹はあまり季節感を意識していなかった。
夏は薄手のものを、冬は厚手のものを。春と秋は中間。重ね着も可。
見栄えが悪いものは避けていたつもりだが、細かいところまでは気が回っていない。
一介の高校生のアルバイト程度で得られる金額では、そもそも選択肢が少ないという問題もある。全額を服に突っ込むわけにもいかない。
「はぁ……ひとつ勉強になったわね」
「はいはい、勉強になりましたっと」
適当に相槌を打って『水着か……』と言葉を舌の上で転がした。
隣を歩く綾乃から向けられる視線の感触が変わる。
呆れ半分、からかい半分と言ったところ。
「何かえっちなこと妄想してませんか、
「違うし。それこそ今さら過ぎないかなって思っただけ」
嘘ではなかった。
昨年の夏は高校受験に向けて勉強三昧だったので、綾乃と水着という単語が上手く結びつかなかった(当時、ひとりで想像したことはあった)。
しかして、今の彼女は人気急上昇中のグラビアアイドル『
インターネットをあされば水着姿の画像なんて山ほど出てくるし、本人だって自撮り画像をほとんど毎日SNSに投稿しているし、雑誌のカラーページで姿を目にすることも珍しくない。
「……まぁ、それはそうなんだけど」
「だけど?」
綾乃は腕を組んで眉を寄せていた。
腕がさり気なく胸元を強調しているように見えて、慌てて視線を逸らした。
「う~ん……なんか、こう最近マンネリ化してないかなって」
「マンネリ化?」
「そ」
『マンネリ化』という単語を反芻すること数回。
大樹の脳裏に閃くものがあった。
「あの水着って、お前が選んでたのか?」
「選んでたって言うか、ほとんど自分で用意してる」
「マジで? それ、お前の部屋って水着だらけになってない?」
「何を想像してるのかしら、楠くん?」
「いや、たぶんお前が考えてるそのまんまだと思う」
「まぁ、割と間違ってないかも。だって、基本的に同じ水着ってNGだし仕方ないって言うか」
「そうなのか?」
「そうなの、私も仕事始めてビックリした」
「はぁ……」
思い返してみれば、確かに『黛 あやの』は毎回異なる水着を身に着けている。
他のグラビアアイドルがどうだったかまでは覚えていないが……業界の慣習と言われれば、素人としては『そんなものか』と納得するしかなかった。
「現場が用意してくれるときもあるんだけど、基本は自腹なわけ。それで」
「それでマンネリ?」
「……うん。今まで撮ってもらった画像見てたら、なんか似たり寄ったりのものばっかり買ってないかなって不安になってきたの」
「不安ねぇ……あんまり気にしたことなかったけどなぁ」
好みのデザインの水着なら何回でも問題ない。
下手にバリエーションを求めて露出度を下げられたり変な方向にかっ飛ばれるよりも、シンプルなものの方がいい。
身も蓋もないことを行ってしまえば、見たいのは水着じゃなくて中身だから。
「大樹は気にしなくても私は気にするし、周りも気にするの」
「そんなもんか?」
「ええ。『アレ、『あやのん』それ、前と同じ水着だね』なんて言われたら大恥」
「……大変だな、それは」
「大変なのよ。ファッションセンスなんて一朝一夕で磨けるものでもないし。だからたまには人の意見が聞きたくなったってわけ」
「それで俺?」
「そう」
「俺もファッションなんて自信ないぞ」
自分の身体を見下ろしながら、ため息を吐いた。
そんなことを期待されているのなら、もう少しアレコレ考えてきたものを。
今日の大樹が身に着けている服は綾乃との外出という特別なイベントを意識してはいるものの、決して雑誌を飾っているモデルたちのようにオシャレを自慢できるほどのものではない。
「別に肩肘張らなくてもいいよ」
「え?」
「普段の大樹がいいって思ってるものを選んでほしいって言ってるの」
「……いいのか、それで?」
「うん。私、大樹のこと信じてるから」
「何でそこまで信頼されてるのかわかんねーんだけど」
「何でって……大樹を信じない理由なんてないし。でも、もっともらしい理由が欲しいって言うのなら――」
「言うのなら?」
「受験前でもグラビアに目が引き寄せられていた、えっちなえっちな楠くんを傍で見ていたからってことで……どう?」
「お前なぁ……いつまでその話してるんだよ」
「それは冗談としても、そういう視点を求めてるってのは本当。男の子目線って奴?」
「俺がエロいってところを否定してほしいんだが?」
「さっきからチラチラ見てくるの、気付いてないと思ってた?」
「……」
「私って見られるのが仕事だから、そういう視線には割と敏感だよ」
「その、ごめん」
「怒ってないし。何で謝るの?」
「なんでって……それは」
「大樹のそういうところにも期待してるって言ってるの。冗談みたいに聞こえるかもしれないけど……仕事で着るものだから、私は本気」
「そうなのか……」
「ええ」
――そうなのか。
「じゃあ、頑張ってみる。自信ねーけど」
「大丈夫だって。自信はなくても時間はあるから」
「は?」
「私が納得できるものを選んでくれるまで付き合ってもらうから、そのつもりで」
クスリと笑みを浮かべた綾乃の意図が掴めないままに目的地に着いた大樹は――絶句させられた。
綾乃の水着を買うから女性用の水着売り場へ向かう。
それはわかっていた。
わかっていたが……わかっていなかった。
想像していたよりも遥かに華やかで、遥かに目のやり場に困る光景が広がっていた。
ついでにそこかしこから突き刺さる女性客の視線が痛くて、思わず綾乃の手を強く握ってしまった。
「大樹?」
「な、なんでもない」
「声がメチャクチャ震えてる件について」
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