第5話 ふたりの日曜日 その1
「お待たせ」
明けて翌日、日曜日。
いつもより早めに起きてシャワーを浴びて。
いつもより余計に時間をかけて身だしなみを整えて。
待ち合わせの時間に先行すること三十分。最寄り駅の前でスマートフォンを弄っていたところにかけられた、聞き慣れた耳に心地よい声。
振り向くまでもなく
だからと言ってズボラをかますわけにもいかない。
スマホをポケットに突っ込み、
「いや、別に待って……」
ない。
そう続けようとして、続けられなかった。
声が喉に張り付いて、外に出てくれない。
「ん? どうかした?」
綾乃が小首をかしげると、短めに整えられた黒髪がふわりと風を孕んだ。
デニムのショートパンツから伸びる脚は黒いタイツで覆われ、上は身体にゆったり目のシャツ。
初めて見る私服の組み合わせは、露出こそ抑え目ながらも絶妙に魅力を隠しきれていなかった。
「綾乃さ……そんな服持ってたっけ?」
「大樹が知らない服ぐらいあります」
「それもそうか。そうだよな、うんうん」
「それで?」
「それで、とは?」
「……」
見つめてくる綾乃の目が放つ圧力が強烈だった。
何を言わなければならないかは十二分にわかっている。
ただ……口がうまく動いてくれるかどうかだけが心配だった。
「に、似合ってる、と思う」
「そう。ま、合格にしておいてあげる」
「そりゃどうも。それにしても……」
「ん?」
「あ、いや……今日は眼鏡なんだなって」
「うん。変装用だけどね」
中学生のころにかけていた、顔を隠す方が主目的ではないかと疑いたくなるような太いフレームの眼鏡ではない。
ノンフレームの眼鏡が、ちょこんと鼻に乗せられている。
高校入学とともにコンタクトに変えて以来、日が上っている時間帯に綾乃の眼鏡姿を見た記憶がなかったから『意外だな』と思った。
「変装用って……それ、ちゃんと見えてるのか?」
「コンタクト入れてるから、度は入ってないの」
「……本当にただの変装用なんだな」
「だから、そう言ってるじゃない」
「まぁ……そうなんだけどさ」
眼鏡とコンタクトの併用なんて、なかなか普通に暮らしている分には思いつかない。
平然としている綾乃と自分の感性のズレを見せつけられたようで、顔を顰めてしまう。
「大樹?」
「何でもない。乗車券は買ってあるから……ほら、行こうぜ」
「うん。ありがと」
気が利くね。
感心した風に言われて、照れ臭くなって視線を逸らした。
「大したことじゃないって」
「手慣れてるね」
「慣れてねーし」
あらぬ疑いをかけられては堪ったものではなかったし、駅は待ち合わせの場所であって目的地ではない。
さっさと移動したかったけれど、大樹と綾乃は背丈が違う。
背丈が違えば歩幅も違う。
綾乃は身長に比して脚が長い方ではあるが、それでも高校入学以来で二十センチ近く背が伸びた大樹の方が歩幅は大きい。
何も考えずに歩くと距離は開いてしまうし、無理はさせたくない。
急ぎたいところをぐっと堪えて綾乃に合わせた。
出来るだけ自然に。
綾乃に気づかれないように。
「うん、本当に気が利くね」
柔らかい声に、返事はしなかった。
★
「……」
「なぁ……俺の言ってること、ちゃんと聞いてるか?」
窓の外を見て自分と目を合わせようとしない綾乃に向けた声は、若干とは呼べないほどの苦みを伴っていた。
話題は……もちろん昨夜の一件。
「……」
「綾乃?」
彼女は新進気鋭のグラビアアイドル『
美少女が、夜にひとりで街を歩く。
余計な情報抜きにして聞くだけでも、十二分に危なっかしい。
だから、最寄り駅についたら誰かを呼んで一緒に帰るようにしろと以前に言った。
その時の彼女は『弟を呼ぶ』と口にしていたが、昨日は誰も呼ばずにひとりで家に帰った。
黛家の家庭事情を詳しく知っているわけではないが、もともと教育熱心な母親のもとで勉強に明け暮れていた綾乃が芸能人となった今、彼女の母の期待がどこに向かっているかは容易に想像がつく。
しかも、その弟は中学三年生。つまり受験生だ。
口で言うほど簡単に呼び出せないのだろうとは思う。
それでも、言わずにはいられなかった。
「心配かけてゴメン、でも……」
「俺を呼べよ」
「気軽に言うね」
「ああ。夜遅くなら俺は絶対空いてるからな」
昨晩は夜道をひとり歩く綾乃の姿を想像して恐ろしくなり、さらに怒りを覚えてしまったが……ひと晩ゆっくり考えてみると、その怒りは些かながら理不尽なものではないかと思えてきた。
綾乃が大樹に面倒かけさせたくないと考えるのは、別におかしくはないのだ。
なぜなら大樹は彼女にとって家族でもなく、特別な間柄でもないのだから。
だから言った。
『遠慮するな。俺を呼べ』と。
迎えに行くぐらい、迷惑でも何でもないと。
様々な状況を勘案した結果、ここが妥協できる落としどころだった。
「……」
綾乃はずっと窓の外を見ていた。
返事はなかったし、表情もなかった。
朗らかな笑顔を浮かべることが多くなった彼女の顔から表情が消えるということは、機嫌が悪いということ。
――無理もないよな。
今日は綾乃と『初めて』休日に出かけることになっていた日だ。
仕事に追われてロクに休みも取れない綾乃が買い物に誘ってくれたのだ。
そんな日にクドクドと説教して雰囲気をぶち壊しにするのは野暮だと思った。
迷った。
迷った末に、言った。
ふたりのお出かけと綾乃の安全。
どちらが大切かなんて考えるまでもない。
迷った自分を恥じるほどには、答えは明白だった。
「……ねぇ」
「なんだよ?」
「大樹は……何でそこまでしてくれるの?」
「何でって、お前が困ってるって言うか危ないことしてるのに放っておけないだろ」
「……」
「変なこと言ってるか、俺?」
「ううん、大樹ってそういうところあるよね」
「……なんだよ、それ」
「すごく優しいってこと」
「優しくなんかしてねーよ。それくらい当たり前だろ」
「……」
「綾乃?」
「ううん、何でもない。ありがと」
「礼はいいからちゃんと俺を呼べ」
「うん。そうする。でも、ありがと」
「わかってくれたならいい。この件はこれで終わりな」
言質を取ってホッとひと息つくや否や、四方八方から視線を感じた。
大樹を目がけたものではない。ターゲットは綾乃だ。
――はぁ、またかよ。
変装して正体を隠していても、とかく綾乃は衆目を惹く。
彼女が纏う存在感――それはカリスマ性とでも呼ぶべきものかもしれない――は日に日に増大の一途をたどっている。
「ねぇ、大樹」
「今度は何だ?」
「……別にそこまでしなくてもよくない?」
何も言ってないのにこの指摘。
周囲からの視線をそれとなくガードしたつもりだったのに、あっさりバレていた。
言いようのない気恥ずかしさを覚え、返事するまでに一拍の空白が生まれた。
「……俺が勝手にやってるだけだから、気にするな」
「前にも言ったけど、見られるのは私の仕事なんですが」
「仕事とプライベートは分けろって前にも言ったと思うが」
「はいはい。大樹って過保護だよね」
「お前が無防備すぎるだけだ。ちょっとは自覚しろ」
「……はぁ」
壁になって視線を遮る大樹に気のないため息を零す綾乃。
度が入っていない眼鏡のレンズ越しに車窓に流れる景色を眺めながら、唇だけが小さく動く。
『ありがと』
声にならない声に返事はしない。
別に感謝されたいわけではないから。
綾乃を人目から
「大樹の……」
「ん?」
「大樹の彼女になる人は、きっと幸せだね」
「なんだそれ?」
いきなり変なことを言われた。
さっきの『ありがと』とは異なり、声が聞こえた。
意図的に聞かせているのなら、無視するわけにもいかない。
――俺の彼女? 幸せ?
褒められていることは間違いなさそうだったが、素直には頷けない。
その手の話題を綾乃から振られたことは、今まで一度もなかったから。
「いないの、そういう人?」
「いるわけねーだろ」
「……いるわけないってことはないと思うけど」
「自慢じゃないが、生まれてこの方モテたことなんか一度もないぞ」
「ほんとに自慢になんないね」
「ほっとけ」
ちらりと向けられた漆黒の眼差しから目を逸らした。
『年齢=彼女いない歴』な、どこにでもいる高校二年生。
それが『
「羨ましい」
「いきなり何言ってんだ?」
「大樹の彼女になれる人が羨ましいって言ったの」
「本当にいきなりすぎるんだが……なんかあったのか?」
問いかけてから『しまった』と思った。
彼氏がどうとか彼女がどうとか、その手の話題と綾乃を結びつけると、最近の大樹の心はざわめきを覚えずにはいられない。
つい先日、綾乃に告白すると宣言した男の顔が勝手に思い出されてしまうから。
『
ふたりが通っている学校では知らぬ者などいない評判の男子。
整った容姿、優秀な成績と運動神経。実家は名うての資産家。
これだけの条件が揃っているうえに、人柄も相当なもの……少し話した限りでは、若干変わり者のような気がしなくもないが、決して悪い人間ではなさそうだった。
それほどの男が綾乃に想いを寄せ、大樹が踏み出せない告白に踏み切った。
「別に、何でもないし」
綾乃は秀一の件をまったく話題に出さない。
告白されたと思しき日に『いいことがあった』とだけ口にしていた。
『いいこと』の内容も教えてもらっていない。『週刊少年マシンガン』の巻頭カラーをゲットした時でさえ自然体であった彼女をして『いいこと』と言わしめるほどの内容なのに。
タイミングを考慮すると……あまり想像したくない答えが導き出されそうで、自分から追及するのは怖かった。
「そっか。ならいいけど」
素っ気ない答えに距離を感じる。
こんなにも近くにいるのに、寂しいと思った。
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