第4話 雨の土曜の昼下がり その4
アルバイトを終えて家に帰り、晩飯を食べて風呂に入った。
茹った身体を冷ましつつ、スマートフォンを片手にベッドに寝っ転がった。
――後からって言ってたよな。
昼間にバイト先の喫茶店を訪れた
今日は夕方あたりから仕事が入っていたそうで、詳しい話は聞けなかった。
だから、後から。そう言われて頷いた。
お互いに連絡先を交換しているから問題なかった。
……高校生になってからは、ほとんど没交渉状態ではあるのだが。
あまり連絡を取り合わなくなった理由は――ある。
別に彼女を疎んじているわけではない。むしろ逆だ。
綾乃が現在人気急上昇中のグラビアアイドル『
ただ、彼ら彼女らの実態は明らかにされていない。
いつ、どこで、誰と、何をやっているのか。
ひとりなのか、群れているのか。
周りは身内だけなのか。
何から何まで何が何やらサッパリわからない状態であり、ゆえに綾乃に送ったメッセージが綾乃以外の誰かの目に入る可能性を否定しきれない。
迂闊なひと言がスキャンダルに発展する可能性もまた、ゼロではない。
彼女の足を引っ張ることだけは避けたい。絶対に避けたい。
だから……大樹の方から連絡を入れることは我慢していた。
たとえ綾乃から『水臭い』『遠慮するな』なんて言われても。
「はぁ」
愚痴交じりの声が出かかって、寸前で止めた。
止められなかった吐息に、粘りつく苦みを感じた。
仕事が予定どおり行かないことなんて珍しくもない。
喫茶店のアルバイトでも、予想外のトラブルは日常茶飯事なのだ。
芸能界ともなればなおさら……と考えるのが筋だろう。
そもそもの話として、多忙な綾乃と暇な大樹を比較するならば、暇な大樹が融通を効かせる方が効率的だ。
「綾乃……」
スマホを枕元に置いて目を閉じた。
居眠りしないように歯を食いしばりながら。
熱を持っている身体の奥から響く鼓動がうるさい。
綾乃を待つ時間は心が浮き立つようで、沈みゆくようでもある。
『今か今か』と待つ気持ちと、『いつになったら』なんて苛立ちが入り混じる。
理屈を十分に心に浸透させているにしても、完全に心を制御することはできない。
――平常心、平常心……
大きく深呼吸しようとした瞬間、手の中のスマホが揺れた。
慌てて目を開けるとメッセージが着信していた。相手はもちろん綾乃。
上体を起こして、落ち着きのない手つきでディスプレイに指を滑らせた。
※※※※※
綾乃
『遅くなってごめん。今、大丈夫?』
大樹
『俺は大丈夫。仕事は終わったのか?』
綾乃
『終わった。今帰ってるとこ』
※※※※※
備え付けの時計に目をやると――午後十時を過ぎていた。
率直な感覚は『遅い』だった。
……まぁ、よくよく考えてみるとそうでもないのだが。
塾に通っていた頃は、似たり寄ったりの時間ぐらいまで外を出歩いていたものだ。
※※※※※
大樹
『弟は呼んだのか?』
綾乃
『え?』
大樹
『夜にひとりで出歩くの危ないって言っただろ。弟呼ぶって言ってただろ』
綾乃
『あ、うん』
大樹
『呼んでないな?』
綾乃
『駅についたら呼ぶから』
大樹
『俺が行った方がいいか?』
綾乃
『来なくていい』
綾乃
『大樹のお母さんが心配する』
大樹
『お袋とかどうでもいいだろ』
綾乃
『どうでもよくない。そんなこと言わないで』
綾乃
『ごめん。今のナシ。大樹は悪くないのに』
綾乃
『弟呼ぶから。大丈夫だから』
大樹
『わかった。信じる』
綾乃
『ありがと』
※※※※※
――本当に信じて大丈夫なのか?
不安が口を突きかけるし、指が勝手に動きそう。
綾乃を信じたい。信じると言った。
でも――
「行くか」
お互いにメッセージのやり取りのみだから、物陰に隠れていれば現地を見に行ってもバレることはない。
通話しようと言われたら、母親がうるさいと誤魔化せばいい。
万が一見つかって綾乃に怒られても、何かあるよりずっとマシだ。
最も優先されるべきは、彼女の身の安全。ここだけは絶対に譲れない。
※※※※※
綾乃
『今日はごめんね、いきなりお店に行っちゃって』
大樹
『あの店あんまり客来ないから、来てくれるのはありがたい』
綾乃
『それはマスターに失礼でしょ』
大樹
『まぁ、そうなんだけど』
大樹
『時々この店大丈夫なのかって思う』
綾乃
『ちょっと大樹』
大樹
『俺、あの店好きだし、潰れたらすげー困る』
綾乃
『うん、私もあのお店好き。でも、そういうことマスターに言っちゃだめだよ』
大樹
『言わねーよ』
※※※※※
着替え終わった大樹は部屋を後にした。
電気が消えた廊下を進み、玄関から外に出る。
纏わりつくような熱気が不快で、思わず眉を顰めた。
※※※※※
綾乃
『で、あの時も言ったけど、明日買い物に付き合ってほしいの』
大樹
『聞いた。ヒマだから大丈夫』
綾乃
『うん、確認しただけ』
大樹
『んで、どこに行くんだ?』
綾乃
『えっと……ここ』
※※※※※
添付されていたアドレスをタップすると、郊外のショッピングモールが表示された。
様々なテナントが軒を連ねていて、休日には多くの客で賑わう定番のスポットだ。
ただ――それだけに、綾乃が何を買うつもりなのか全然わからないままだった。
※※※※※
大樹
『場所はわかったけど、何を買うんだ?』
綾乃
『水着』
※※※※※
「なっ」
『水着』の二文字を目にした瞬間、変な声が出た。
脳裏に浮かんだのは、先日コンビニで買い求めた『週刊少年マシンガン』だ。
巻頭グラビアを飾ったのは、ちょうど今ディスプレイの向こうにいる綾乃だ。
一瞬で急激に顔が熱を持った。返事をしようにも指が震えて文字が打てない。
※※※※※
綾乃
『大樹?』
綾乃
『どうしたの?』
綾乃
『あ、ひょっとしてえっちなこと想像した?』
大樹
『してねーし』
綾乃
『あっそ』
綾乃
『だったら、もっと早く返事しなさいよ』
大樹
『はいはい』
※※※※※
――いないな……
駅について物陰から様子を窺うも、綾乃の姿が見当たらない。
念のため周囲を歩き回ってみたものの、成果はナシ。
「……家に行ってみるか」
ここで引き返したら落ち着かない。
手元で言葉を交わしている以上、今は何もないのだろう。
今は。
今は未来を保証しない。
スマホを操作しながら、足を
歩きスマホはダメだとわかっていても、咎められるまでストップするつもりはなかった。
※※※※※
綾乃
『というわけで明日よろしく』
大樹
『なぁ』
綾乃
『何?』
大樹
『それ、俺でいいのか?』
綾乃
『どういうこと?』
大樹
『いや、どうって言うか……そのままの意味。俺でいいのかなって』
大樹
『ファッションとか全然わかんねーし、そういうのに詳しい人、他にいないのか?』
綾乃
『いるかいないかで言えばいる。てゆーか、私の周りってプロばっかりだし』
大樹
『だったら』
綾乃
『私は、大樹の意見が聞きたいの』
綾乃
『他の人じゃダメなの』
※※※※※
『大樹の意見が聞きたいの』『他の人じゃダメなの』
綾乃のメッセージを目にして、心の中に渦巻いていたモヤモヤが吹き飛んだ。
僅かな違和感が脳裏をかすめたが……信頼されているのだから少しでも協力したい。
その思いに嘘はなかった。
ほんのわずかな優越感が混じっていることは、自覚できていた。
※※※※※
大樹
『わかった』
綾乃
『頼りにしてる』
綾乃
『あ、ごめん、マネージャーから連絡来た』
大樹
『おう。俺はいいからそっちに出ろ』
綾乃
『うん』
綾乃
『それじゃ。遅刻厳禁だから』
綾乃
『ありがと』
※※※※※
『ありがと』のメッセージで終わった一連のやり取り、そのログをじっと見やる。
何度も何度も繰り返し読み直して――到着した黛家を見上げた。
「電気、付いてるな」
記憶にある綾乃の部屋はカーテンが引かれていて、内側は明かりがついていた。
ホッと胸を撫で下ろそうとした瞬間、手の中のスマホが震えた。
「げ」
通話だった。
相手は――綾乃。
出るべきか、無視すべきか。
迷った末に、通話をオンにした。
ここでスルーしても、明日があるのだ。
「もしもし」
『何やってるの、大樹?』
「何って」
『上見て』
「は?」
『いいから』
言われるがままに上を――綾乃の部屋を見ると、ベランダに本人がいた。
遠目に見てもハッキリわかるほどに不機嫌な顔が怖かった。
整いすぎた美貌が放つ圧力が半端ない。
『何やってるの、大樹? ストーカーと勘違いしかかったんだけど』
「えっと……その、すまん。お前のことが心配で……」
『それは……ううん、私の方こそごめん』
しっとりした声だった。
怒りは感じない。
「ちゃんと弟呼んだんだな。信じてやれなくて、ごめん」
『……』
「何で黙るんだよ、そこで」
『えっと……その、心配してくれて、ありがと』
軽薄な声だった。
怒りしか感じない。
「おい、ごまかすな。お前、またひとりで帰っただろ! 返事しろ!」
『おやすみ、大樹』
「あ、お前、おい!」
通話が切れたスマホをじっと見つめて、盛大にため息を吐いた。
ベランダに綾乃の姿はなく、カーテンが引かれて部屋の中は見えない。
「……帰るか」
とりあえず今日は何もなかった。
今はそれでいい。明日ちゃんと話そう。
そう心に刻み込んで、大樹は黛家に背を向けた。
しばらく歩いていると、ポケットの中でスマホが震えた。
『ありがと』
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