第3話 雨の土曜の昼下がり その3

 本人に気づかれないよう意識を払いながら、奥の席に座る綾乃あやのに目を向けた。

 外からは死角になっている席だが、カウンター側から見ることはできる。

 客の所作に注意を払うのはおかしなことではない。気配りの範疇だ。

 ……などと聞かれもしない言い訳を心の中で繰り返しながら。


 丁寧に整えられた艶めく黒髪。

 うっすらメイクが施された顔。

 いつもと違う露出抑え目の服。

 時おり髪の隙間から覗く首筋。

 手元の本の文字を追う黒い瞳。

 コーヒーカップを運ぶ白い手。

 カップの縁に触れる桃色の唇。


「絵になるよねぇ、彼女」


「……ですね」


 揶揄い気味な声色ではあったものの、マスターの賛辞に同意せざるを得ない。

 静謐が支配する店で存在感を放つ綾乃は、まるでドラマのワンシーンのよう。

 

――大人っぽいよな、アイツ……


 胸の奥に甘い疼きを覚え、そっとため息をついた。

 中学校の卒業までは、同い年の女子として違和感がなかった。

 重苦しい雰囲気と昏い瞳を除けば、大樹たいじゅが通っていた学校の女子と大差なかった。

 地味だった綾乃は高校に入って一変した。

 高校に顔を出す彼女は明るく社交的で、垢抜けていて、常に堂々としている。

 彼女と同じ中学から進学した生徒たちは、誰もが『あれは別人だ』と驚きを隠そうともしない。

『芸能人になって調子に乗っている』と眉を顰める者もいるが……この店に訪れる彼女は、また違う姿を見せる。

 バージョンアップした容姿はそのままに、雰囲気だけが大きく変わるのだ。

 昔の陰気な姿でも、学校で見せる陽気な姿でもなく、年齢相応以上の佇まい――すなわち、ひどく大人びた姿に。

 

『仕事してるせいかな』


 どこの現場でもたいてい周りは年長者ばかりで、しかも男が多い。

 若くてかわいくて胸が大きくてチヤホヤされても甘えてはいけない。

 仕事を成功させるという目的のもとに、誰もが全力で取り組んでいる。

 立場や役職による上下関係こそあれど、スタッフ一同に意識の差はない。

 ミスをすれば叱られるのはマシな方で、失望されると取り返しがつかない。

 だから、どんな仕事であっても本気で向かい合うし、誰に対しても侮るような態度はとらないし、過剰にへりくだることもない。

 そんな風に仕事に対する心構えを滔々と語った後、自分も現場の一員と捉えることで自然と大人と近しい目線になっているのではないか、と付け加えた。


『ま、私の大先輩からの受け売りなんだけどね』


 穏やかな笑みを浮かべてはいたものの、綾乃の瞳は笑っていなかった。

 華やかな業界に見えても、実際は過酷な業界であることが横顔から窺えた。

 ……にもかかわらず、綾乃は大樹の前で疲弊している様子を見せることはない。

 むしろ積極的に仕事を楽しみつつ、自らを心身ともに鍛え上げているように見える。

 新しい環境での一年以上の生活を経て、その美貌や佇まいは以前より遥かに洗練された。


「はぁ」


 もう一度彼女の姿を見て、ため息をついた。

 たった一年の間に大きく突き放された実感とともに。





『どうすれば早く大人になれますか?』


 高校に入学してしばらくたったある日のこと。

 普段は足を向けない道にたたずむ喫茶店に何故か心惹かれ、初めて足を踏み入れた。

 自分以外に誰も客がいない寂しげな店内でカウンターに腰を下ろした大樹は、メニューに記載されていた価格に面食らいながらも頼んだコーヒーに手を付けることもなく、カップを磨いていたマスターに問いかけていた。

 顔見知りではなかったし、下手をすれば二度と顔を会わせることもない。

 大して親しくもない相手だからこそ、胸の内に燻る悩みを素直に吐露できたのかもしれない。

 初対面の人間に問いかけるには相応しくない質問を、老年の店主は笑わなかった。

 しばしの沈黙の後、顎に手を当てて考え込んでいたマスターは口を開いた。


『大人になると言っても、特別なことをしなければならないわけじゃないよ』


『でも……』


『何かのきっかけを得て一気に大人になる人はいるね。そんな人を傍で見ていたら焦る気持ちもわからなくもない。私も昔は同じようなことを悩んでいたものだ』


『そうなんですか?』


『ああ。良くある話さ。歳を取ってから振り返ってみれば、大人になる道ってのはひとつじゃないし、もしかしたら正解なんて存在しないのかも……なんて考えたりもするんだけど。今できることをひとつひとつ積み重ねていく道だって、十分に立派なものだよ』


『今できること……』


『うん。今できることだけじゃなく、今しかできないことだってある。足元を疎かにするのは、あまりお勧めできないかな。今を大切にしながら将来を見据える。十代ってのはそういう時期だと思う。早く大人になることよりも、どんな大人になりたいかを真剣に考える方が大切かもしれないね』


『どんなって、それは……』


 問われて口ごもったものの、答えは明白だった。

 綾乃の隣に並ぶに足る大人になりたい。

 身も蓋もない本音だった。

 しかし――


――待てよ……どうやって『隣に並ぶに足る』なんて決めるんだ?


 見た目か、地位か……違うと思った。

 彼女はそんなものをパートナーに求めない気がする。

 一年以上もの間、綾乃を傍で見てきた大樹の直感だった。


――求める……綾乃が求める大人って……いや男って、どんな人間なんだ?


 水を向けられて、初めて自らに問いかけた。

 恋心が先行しすぎて、今まで綾乃の心を慮っていなかった。

 その事実に思い至ってゾッとした。自分の身勝手さに背筋が凍る思いだった。


――綾乃……


 目を閉じて綾乃の姿を思い出した。

 急速に活躍の場を広げる彼女は、大空に羽ばたく鳥を想起させた。

 どこまでも高く昇っていく姿は眩しくて、同時に不安を覚えずにはいられなかった。


「え?」


 喉元までせり上がってきていた言葉、それは焦燥ではなく不安の顕われだった。

 不安は――自分と綾乃との関わりから滲み出てくるものではなかった。

 高みを目指す彼女、すなわち仕事に邁進する綾乃に不安を感じた。

『どうして?』と問いかけてみても、心の内から答えを拾い上げることはできない。


――俺も、仕事をしてみれば何かわかるんだろうか?


 疑問が脳裏をよぎった。

『大人』と『仕事』

 綾乃がしばしば口にする、このふたつの単語からは強い関連性を感じた。

 彼女と大樹を大きく隔てる単語でもあった。

 大人になるには、仕事をするのが一番の近道ではないかとさえ思えた。

 しかし――突出したスキルを持たない大樹には、彼女のように今すぐ社会に出る機会は与えられない。


『あの』


『どうかしたかな?』


『その……俺、ここで働かせてくれませんか?』


『……そうだね、考え事をするには悪くない場所だと思うよ』


『そういうつもりじゃ……いえ、すみません。仕事するってどんな感じなのか知りたいんです』


 唐突かつ不躾過ぎる申し出を、マスターは快く受け入れてくれた。

 内心を見透かされることは、不快ではなかった。

 その日以来、大樹はこの店で働いている。

 答えはまだ、見えていない。




 

 物思いに耽っていたら、綾乃が本を閉じてバッグにしまった。

 スマートフォンを取り出し、ディスプレイに指を躍らせる。

 しばらく様子を窺っていたら……急に大樹の方を向いた。


――なっ!?


 視線が合って、お互いに大きく目を見開いた。

 見つめ合ったまま沈黙し、綾乃は席を立った。


「大樹くん、レジお願い」


「は、はい」


 固まってしまった足を無理やり動かして、綾乃よりも先に辿り着いた。

 レジを挟んで代金を受け取り、澱みない手つきでお釣りを渡す。

 大樹の手が綾乃に触れた瞬間、桃色に艶めく唇が開いた。


「ねぇ」


「……ん?」


「大樹、明日ヒマ?」


「何も用事は入ってないな」


 アルバイトと勉強を除けば、大樹は基本的にヒマだった。

 友人と遊びに繰り出すことはあるが、明日のスケジュールは白紙のままだ。


「暇だったら付き合ってほしいんだけど」


「付き合うってどこに」


『付き合う』という単語に過敏に反応する身体を抑え込むために、並々ならぬ努力を要した。

 ジーっと見つめてくる綾乃の唇から、続く言葉が紡がれる。


「買い物」


「……別にいいけど」


 行く場所を尋ねたら、目的で答えられた。

 別に問題はなかったが……買い物と言われても、ピンとこなかった。

 漫画やドラマ、あるいは同級生との会話の中で『女の買い物は長い』なんて耳にするけれど、綾乃に限って言えば実感がない。

 実感どころか経験がない。

 ふたりで買い物に繰り出すなんて、記憶にある限り初めてだった。

 塾の帰りにコンビニで買い食いした思い出はカウントしていない。


「よかった。断られなくて」


 心底安堵した顔の綾乃を前に、胸が高鳴りを覚える。

『デートの誘いみたいじゃないか』なんて考えてしまう自分を止められない。


「それじゃ、また後で連絡するね。仕事があるから夜になると思う」


 さりげない言葉に大樹は首を傾げた。

 違和感を覚えたからだ。


「なぁ綾乃」


「何? ひょっとして用事を思い出したとか?」


 不安げに揺れる(ように見える)綾乃の眼差しに、『違う』と食い気味に返した。


「いや、買い物に付き合うのはいいんだけど。今日さ、忙しいんだったら……別にわざわざここに来なくてもよかったんじゃねーの?」


 家以外で本が読みたいのなら、現場でスキマ時間に目を通せばいいのではないかと。

 そう続けようとした大樹の前で、綾乃の視線が冷気を帯びた。

 地雷を踏んだとわかったものの、どこに地雷が埋まっていたのかはわからなかった。

 無言で睨んでくる綾乃を前に脳内で会話を反芻しても、おかしなところは見当たらない。


「……まぁいいわ、とにかく後で連絡するから。それじゃ」


 来た時よりもご機嫌斜めな綾乃は、そのまま店を後にした。

 外はすっかり雨が上がっていて、雲の隙間から太陽が覗いている。

 声をかけづらい背中が視界から消えるまで見送った大樹がカウンターに戻ると、またもやマスターが薄く笑みを浮かべている。


「大樹くん、明日ヒマならシフトに入ってくれないか」


「たった今忙しくなりました」

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